見出し画像

最悪を避けるために悪手を選ぶ

「母さんとは別れる事になった。親権はお前が決めろ」
 
俺が中学を卒業するにあたり、父は毅然と言い放った。
 
「ああ、やっぱり?」
「どうする」
「兄貴といるよ。その方が都合いいでしょ」
 
父は頷いて、何も言わなかった。そして父はこの家庭から逃げ出した。それからの母は次第に心身を病み記憶を混濁させ、入退院を繰り返すようになった。母の没落に兄は精神を疲弊させ、惰性の日々の中に自身の才能を埋没させる。その兄への失意に母は病状を悪化させる…この悪循環を抜け出すには、兄が才能に見合う名声を獲得する必要があると俺は考えた。
 
それから長い年月を掛け、俺は兄に名声への切符を用意した。成功が約束されたレールに兄を無理矢理走らせたのだ。終着駅の名は名声、ルビは幸福。だが約束は道半ば、母の訃報により反故される。結果、悲惨な脱線事故だ。
 
兄はこの一件で心を病み、自身の才能を破棄し社会活動を停止した。俺は父とは違う。兄の才能とこの家族の在り方を正しく導ける、そう慢心した結果、俺は自身の手でそれらすべてを台無しにしたのだ。
 
あの時の父の選択を、俺は尊重する。少なくとも賢明ではあった。最悪を避けるために悪手を選ぶ、合理的な判断だ。俺にこの家族は必要ない、この家族に俺は必要ない、そんな風に考えていたのではないだろうか?俺もそう思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?