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目次(抜粋・要約付き)

 このnoteの目次です。古い順に、記事のタイトルと抜粋または要約を並べてあります。


*夢のからくり

 移る、映る、写る。
「うつる」と口にすればたった一言なのに、文字にすると何通りかに書けます。これが文字のすごいところなのですが、この「言葉のからくり」の基本にあるのは、もともとこの島々にあったらしい話し言葉に、大陸から持ってきた文字を当てて分ける、という操作です。
 私には、そのアクロバットもどきの操作が「夢のからくり」のように感じられてなりません。
 大和言葉に唐(から)の文字を当てて分けたとはいえ、移る、映る、写るにさかい目があるとは思えないし、そもそも体感的にとらえられないのです。
 当てても当たるわけではなく、分けても分かるわけではない。その意味では、うつつ(現実)もまた、からくりのある夢なのかもしれません。

*まばらにまだらに『杳子』を読む(01)

 私が初めて古井由吉作の『杳子』を読んだとき、人のいたしるしであるはずのケルンをまるで金縛りにあったように凝視する杳子の様子の描写と、そのうずくまる杳子をしばらく遠巻きに見ているだけの若い男の行動の描写に、首をかしげないではいられませんでした。
 自然界にいて人工物であるしるしをようやく目にして「ああ、よかった!」と安堵している若い女性の様子も、「大丈夫ですか?」と駆けよる若い男の行動も、そこにはないからです。
 以上はこの作品を初めて読んだときの私の感想なのですが、読みながらいだいていく見通しがつぎつぎと裏切られていくような気がしました。そうした見通しは通念にもとづく先入観だといっていいでしょう。いま思いかえすと、いかにも図式的であり、紋切り型のイメージで押しきろうとする強引さを感じます。

*まばらにまだらに『杳子』を読む(02)

 登山においては、多種多様な自然のあらわれを、形や色や音や振動や匂いや触感や湿気や温度や気配として感じ取る必要があるでしょう。村や里や町や都市といった人間の社会で生活をいとなむのに必要な知覚とは――重なる部分はあるにしても――、異なった感じ分けが要求されるだろうと私は想像します。
 いま書いた「感じ分け」や「感じ分ける」は、古井由吉が好んでもちいる言い回しで、私もつかうことがあります。
「(まず)感じて(つぎに)分ける」とか、「感じる」=「分ける」という意味合いなのでしょうが、その語呂から、私は「漢字分け」を連想します。こういうことが好きなのです。言いわけになりましたが、そんなわけで私の文章は漢字分けだらけになります。
 あらわれ、現れ、顕れ、表れ、露れ。形、著、見、顯。
 みち、道、路、途、径。
 和語に漢字を当てるとか、ぎゃくに漢字に和語を当てるいとなみが漢字分けなのですが、これもまた一種の感じ分けである気がします。

*まばらにまだらに『杳子』を読む(03)

 しるしは人工物、あらわれは自然物であったり自然現象である度合いや意味合いが強い気がします。そう考えるなら、この作品の冒頭では、ケルンという人工物がしるしであり、岩という自然物に「彼」が見ている「人の姿」があらわれだと言えるでしょう。
 とはいうものの、杳子にとってはケルンがしるしではない、詳しく言うと、杳子の目にはケルンがしるしとして映っていないもようなのです。人工物であるしるしに、しるしとは別の何かがあらわれている――。杳子にはそうした事態が起きているのかもしれません。
 自然物に何かがあらわれているらしい「彼」に起こっている事態と似ているような似ていないような、不思議な気持ちがします。いっぽうで、ふたつのあらわれには大きなずれがある気もします。

*とりとめのなさと付きあう

 小説にしろ、日記にしろ、報告書にしろ、投稿文にしろ、メモにしろ、たったひとりでしるしている、しるしである文字に、しるした人が思わず、驚いたり、びびったり、笑ってしまったり、癒やされたり、むかついたり、涙を流してしまう。
 しるした(記した・印した)ものに期せずして何かが現れる――。そのようなことがあるのではないでしょうか。誰にも、です。
 自分で書いた(記した)ものに驚きや発見があるのですから、それに他人が何を読んだり見たりするかはわかったものではありません。予測不可能。制御不能。
 そんな経験は数知れずしてきました。おそらく、あなたがこの文章をお読みになっているこの瞬間にも起こっているにちがいありません。

*まばらにまだらに『杳子』を読む(04)

 ケルンをじっと見つめている杳子は、「しるし」の「印」(意味や意図やメッセージ)を受け取ろうとする領域から離れて、「しるし」の「物」(物体・物質としての形や姿や音)を感じとろうとする領域にいたのかもしれません。
 それとは逆に、「彼」は、「物(自然物)」の「物」から離れて、「物(自然物)」に「印」(記憶やイメージ、ようするに意味)を感じとってしまう領域にいたのかもしれない。そんなふうに感じました。
 物にしるしを見る「彼」、しるしに物を見る杳子――。
 意味の領域にいる「彼」、無意味の領域に落ちこんでしまった杳子――。
 恥ずかしいほど嘘くさい単純化と図式化をするとこうなりますが、この恥ずかしさと嘘くささを噛みしめ読みつづけようと思います。

*まばらにまだらに『杳子』を読む(05)

 ともにふれる。
 ともぶれ、共振れ、共振、共鳴、シンクロ、同期、同調。
 私が古井由吉の小説が好きな理由の一つが、ともぶれなのです。
 人と人、人と物、人と事・現象、人と世界――とのあいだで、人が相手や対象とともに「ふれる」さまが、じつにリアルに描写される。私はその筆致にふれたくて古井の作品を読むと言っても言い過ぎではありません。
 ふれる、振れる、震れる、触れる、狂れる。ぶれる。ゆれる。

*まばらにまだらに『杳子』を読む(06)

 依存、たよる、もたれる、よりかかる。
 共依存、たよりあう、もたれあう、よりかかりあう。
 たつ、立つ、たもつ、保つ、もつ、持つ、もちこたえる、もちつづける。
 たつ、立つ、建つ、起つ、発つ。
 これらの動詞を眺めていると、何かが何かに、誰かが誰かに、何かが誰かに、誰かが何かに、力をかけているさまが感じ取れる気がします。
「凭れる・もたれる」は「持たれる」、つまり相手に所有されるとも読めます。「凭れあう・もたれあう」は「持たれあう」、おたがいに所有されるとなりそうです。

*立ち姿が美しい人

 立つのにも立ち上がるのにも立ち続けるのにも歩くのにも、力が要る。こういうことをひしひしと私は日々感じています。老化です。
 横たわる。やがて立ち、歩き、ときどき横たわり、最後に横たわる――。これが人生なら、立ったり歩いたりするのには、やっぱり力が要るようです。
 踏んばる、息む。耐える、生きる。
 姿勢よく歩く練習として、頭に本を載せて歩く方法がありますが、ただ歩くのではなく、物を持って歩くのはさらに力が必要です。「たもつ」は「手(た)持つか」なんて辞書に書いてあります(広辞苑)。
 たつ、もつ、たもつ、もちこたえる、たえる、もたれる。

*まばらにまだらに『杳子』を読む(07)

 岩 ⇒ 石 ⇒ 砂 ⇒ 土
 反復され変奏される「ケルン」を追って、冒頭、途中、最後と飛びましたが、急ぐことはないでしょう。
 ひとつ気になってならないのは、最終章である「八」には「くり返す」と「反復」という言葉が変奏されつつ、またそのままに何度もくり返され反復されていることです。
「くり返す」をくり返す、「反復」を反復する。
 この言葉の身振りは特徴的どころか尋常ではないものであり、それだけに興味をひかれずにはいきません。「くり返す」と「反復」という言葉たちが、ねえ、見て見て、読んで読んで、と誘っているかのようです。

*【小説】……だけ(01)

 体がないのに疲れるのはおかしいと人は思うにちがいない。でも疲れるんだ。頭だけになった、いや正確に言えばおそらく脳か意識になったらしい僕なのに疲れは感じる。眠くもなる。そして眠りに落ちる。夢を見る。夢を見ない眠りもある。夢を見たのを覚えていない場合もあるにちがいない。そして目覚める。ここはどこ? 寝覚めが悪いと、決まってそう思う。少し考えて、ああいつものここね、とつぶやき、諦めとともに完全な覚醒を待つ。すっかり目が覚めると、ネット内をあちこち歩き回るか、考えごとをする。

*分別

 人だけがごみを出す。
 人だけが言葉を吐く。
 新聞、新聞紙、古新聞、古紙。
 どれもみんな言葉。
 人はごみを分ける。
 これが分別。
 人は言葉で分ける。
 これが分別。
 分別で分別したところで、
 人は何で何を分けているのか分からない。

*夢のかたち

 よみ、やみ、やま、ゆめ。
 連想するのは、死者たちの集まる場所です。そこでは姿が見えるというよりも声がします。
 私にとって死者たちの声が集まる空間と時間を濃密に感じさせる作家の一人が古井由吉です。
 そこでは、夜、読み、詠み、黄泉、夢、闇、山が境をなくし、書くと欠く、欠けると書けるが重なりあいます。

*vigil for Virgil

 読むことなしに詠むことはできない――。これは、日本の定型詩を論じるさいによく言われる言葉です。
 読むと詠むがつながっているようです。それはそうです。定型があるのですから、勝手につくるわけにはいきません。
 先行する歌なり句なり作品を踏まえて、個人がつくるわけです。個人は大きなつながりの中にいて、その中の枠からはみ出すことはできない世界でしょう。
 その意味で個人は故人につらなります。個人の声は、それより先に立った個人たち、つまり故人たちの声と重なる。そんな世界の話なのです。

*まばらにまだらに『杳子』を読む(08)

 作品に頻出する「見」「目」「感」を見ていて気がつくことがあります。
 この小説の視点的人物である「彼」がやたら「見る」とか「目にする」のです。いっぽうで、杳子はやたら「感じる」とか「感じ取る」のです。
 もちろん、「彼」も感じたり感じ取ったり、杳子も見たり目にしたりしていますし、ふたりとも聞いてもいますが、頻度という点では、「彼」は「見る」、杳子は「感じる」なのです。
 これはじっさいに見ていただくしかありません。せっかくですから、どうか見てやってください。文字を、です。読むというより、見るのです。

*まばらにまだらに『杳子』を読む(09)

 大切なのは、心ここにあらず的な状態(見ているようで見ていないのです)だった彼と、やはり放心状態にあった杳子(対象を見ているというよりも対象から感じ取っているのです)が、目と目を合わせ、たがいに相手を認めた(見留めた)、その身振りだと思います。
 これは、見る人であった「彼」と、感じ取る人であった杳子が出会い、目と目を合わせることで杳子も見る人になった、という単純な話ではないだろう。そんな気がします。
 彼を見る人とし、杳子を感じ取る人とするのであれば、彼がどのように見るのか、杳子がどのように感じ取るのかを、作品の細部を見て感じ取るべきなのです。
 テーマを捏造して作品をさばいてみたり、図式化をして読解した気分になったところで、作品にはテーマや図式に抗う細部がかならずあります。そのことに意識的でありたいと思います。 

*まばらにまだらに『杳子』を読む(10)

 右に左に、上に下に――この小説では「左」「右」「上」「下」という言葉が、くどいくらいにくり返しもちいられています。文字どおり、右往左往、凸凹、アップダウンしながら、遠回りをしつづけているのです。ようするに、迂回であり宙吊りです。
 迂回しつづけているのは、作品に書かれている内容も、そして作品を構成している言葉の身振りもなのです。
 この迂回と宙吊りは作品の最後まで一貫して続き、最後の最後になっても終わりそうもありません。さらに言うなら、書かれていない最後の後になっても終わらないだろうという予感がします。
 学生時代および大学教員時代の古井由吉がフランツ・カフカを読みこんでいたらしいことを思いうかべますが、これは安易な連想でしょう。

*相手の幻想に付きあう快感

 人違いや見まちがいをしているらしい相手の幻想に付きあってみたい。相手のいだいている自分になってみたい。相手の目に映っている自分になってみたい。
 いささか、あやうい心理ですが、私には理解できます。自分の空想や幻想は、ある意味退屈なのです。自分のものですから、ありふれた風景でしかありません。
 たまには違った心の風景を見てみたい、見るだけではなくその風景に染まり、そこに参加してみたいという心理です。

*伸び縮みする小説

 長いスパンを縮める、一瞬や短い時間を延ばす・伸ばす――。小説には「ちぢむ時間」と「のびる時間」という、二つの時間が流れています。どちらか一方だけが流れているのではなく混じっているのです。
 川に似ています。小説には急流もあれば、ゆったりと流れる部分もあります。おそらく、私たちはその流れを感じて、それに応じた読み方をしているのでしょう。
 布にも似ています。小説は伸び縮みする織物(テクスト)なのです。物であるとはいえ、時間の芸術でもある小説を、私たちは時間のなかで読んでいます。
 時間は目には見えませんが伸び縮みしている気がします。織物=文章を読む時間は、なおさらそうなっている気がします。伸び縮みする時間のなかで、私たちはお蚕さんのように伸び縮みしながら読み進んでいるのかもしれません。

*まばらにまだらに『杳子』を読む(11)

 繰り返しと反復が終わったのでしょうか。同時に、彷徨による迂回が終わったのでしょうか。
 作品の最後の最後に来て、あれだけ冗漫なくらいに繰り返されていた「右」という文字が消えて作品が終わっているのです(この作品のなかでは、あってもいいところにないまま――これは私が反復に染まってしまったからの思いなのかもしれませんが)。
「右腕で杳子を包んで」(pp.169-170)いるはずなのに、次のように終わっています。
"帰り道のことを考えた彼の腕の下で、杳子の軀がおそらく彼の軀への嫌悪から、かすかな輪郭だけの感じに細っていった。"(p.170)
 彼の右側にあるのはもはや軀ではなく、細っていくかすかな輪郭の感覚だけのようです。

*アンチ・アンチ

「ロミオとジュリエット」、「トムとジェリー」――では「と」で結ばれている両者がどんな関係であるかが問題であって、両者は別の両者でもいいわけです。
 試しに「ロミオとジェリー」としてみましょう。「ロミオとジュリエット」や「トムとジェリー」とは別の関係が生じました。「ジュリエットとトム」でも同じことが起きるでしょう。
「と」ってすごいじゃないですか。「と」は外せないのです。「と」自体には意味はないようでいて、二つの言葉を「つなぐ」という働きがあるのです。
「AとB」と書かれれば「と」は刺身のつまみたいに見えます。でも、この「つなぐ」という働きはほかの言葉にはない気がします。外せないのです。「と」というごく短い言葉によって、関係性が立ちあらわれます。魔法に感じられます。

*ルビと約物と字面

 ルビや約物は、一瞬だけ文字が文字であることを見せてくれます。
 あなたが見ているのは文字ですよ﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅、と注意を喚起しているのが、ルビや約物なのかもしれません。でも、一瞬だけです。人は文字が文字であることを見留められないのです。文字の向こうに目を向けるほうがずっと楽だし、そうするように学習してきたからでしょう。
 いずれにせよ、時代は変わりました。文字を強調したいときにもちいる方法も変わりました。変わらないのは、文字が文字だと強調させたところで、人は一瞬だけ文字に視線を注いでも、次の瞬間には文字の向こうに目をむけてしまうということのようです。
 あなたが見ているのは文字なのです。

*夢路

 言葉の中の言葉、言語の中の言語――。
 よ、よる、夜、ヤ。やみ、闇、アン。闇夜、暗夜。暗、くらむ、暗む。眩む。暗い。昏い。闇い。冥い。冥界。
 音と形と意味で――声と文字と内容で――つなげる、しりとりです。韻や連係や連想でもあります。
 こんなことができるのは、言語の中に言語があり、言葉の中に言葉がある――やまとことばとからことばのことです――からに他なりません。
 きっと、これは言葉の夢であり、夢の言葉なのです。言葉が夢を見ている、夢が言葉をつむいでいる、としか思えません。

*宙吊りにする、着地させない

 文字は物です。生きていない物です。生きていないのに生きた振りを演じます。それは人が読むからにほかなりません。
 もしも、地球上からヒトが消えたとすれば、文字を読むものがいなくなりますから、文字はもはや振りを演じることはありません。
 空振りです。ヒト以外に読むものがいないかぎりは、永遠の空振りでしょう。
     *
 生きていないから、生きた振りができる。生きた振りができるから、生きた振りをしながら死んだ振りもできる――。
 そこにあるのは、振りだけなのです。物が演じるその振りは人の目に見えます。

*織物のような文章

『雪国』では、縮(縮織)という製品を芸者という職業に重ねることで、両者がそれぞれの比喩であるような形で織り込まれている。そんなふうにも言えると思います。
 縮の歴史と芸者の成長が、いわば二重写しされているのです。両者の共通点は――酷な表現になりますが――「商品」だと言えます。私は上の引用文を読んで、そんな感想をもちました。
 それにしても見事な構成の文章だと思います。
 男が縮という織物に興味をもってその産地を訪ねるという副次的なストーリーと、その男がいわば「商品」である芸者と芸者の卵に目を注いでいるという全体のストーリーとが、合流して最終章の後半につながっていくわけですが、そのつながり方がまた見事なのです。

*直線上で迷う(線状について・01)

 直線上で迷う――これは、プロの作家さんたちの書く小説にかぎりません。
 最初の一文字 ⇒ 最後の一文字
 初めの一文字と最後の一文字があれば、何でも直線状なのです。小説だけでなく、どんな文や文章もそうなのであり、この駄文だって例外ではありません。
 直線状のものを書いたり読んだりしながら迷う。これは、直線上で迷っていることと同義です。
 直線上で迷う。これは、よくあることなのです。

*タブー(線状について・02)

 直線上で迷う。直線状に書かれた小説で迷う。
 こう口にするのはタブーなのです。そもそも小説が直線状に書かれているのは迷わないために、そうなっているからにほかなりません。
 言い方を変えると、小説が直線状に書かれているのは、現在・過去・未来と線状に続いているかに思える人生が直線ではなく、くねくねごちゃごちゃしているからです。
 人生が、この世界が、宇宙が、くねくねごちゃごちゃした迷路であれば、すっきりさせたくありませんか。それが人情だと思います。
 すっきりさせるための一つの方法が、線化であり直線化なのです。
「直線上で迷う」なんて口にするのは、そのせっかくの工夫を台無しにする行為にほかなりません。たとえ、その工夫が誤魔化しとか抽象とか錯覚であったとしても。

*迷う権利(線状について・03)

 誤っても謝らない。謝らないというよりも謝るわけにはいかない――。ぜったいにブレない。ブレないというよりもブレるわけにはいかない――。
 こうした立場にいる人は、どの集団にもいます。でも、ブレないは程度問題でしょう。ちょっとくらいのブレは許されるものです。でも、文字どおり、ぜったいにブレることができない人がいます。
 どんな人でしょう? そうです。お察しのとおり、独裁者や独裁体制です。
     *
 ぜったいにブレることができないリーダーがトップにいる社会は、迷えない社会、つまり振れたり揺れたりブレることができない社会になるという、恐ろしい皮肉があります。
 そこでは、人は指示(絶対的な命令のことです)どおりにブレない機械の一部にならなければなりません。迷う権利は、人に等しく与えられた権利だと思います。その迷う権利を行使できる社会であってほしいと願っています。

*振り(線状について・04)

 リアリティや臨場感に、実体はかならずしも必要ではない。これがもっとも大切な点です。振りには実体が要らないのです。
     *
 大切なのは、振りは虚ろな器であることです。中身、実体、実態、内容とは関係ありません。あくまでも外観であると言えばイメージしやすいかもしれません。
     *
 振りの最大の特性はすぐに消えることです。振りはつぎつぎと消えていきます。真似る、模倣する、反復することでしか、残らないのです。
     *
 振りに正解はありません。その意味で、振りは「伝わる」ものであっても、「通じる」とは異なる次元にありそうです。

*明日を待つ

 古井由吉は、作家活動の初期から晩年にいたるまで、「開ける」と「空ける」を書き分ける現在の標準的な表記だけでなく、そのどちらの場合にも「明ける」をよくもちいていました(平仮名だけの「あける」もつかっていましたが)。こうした書き分けない表記は、かつては広く行われていた表記だったようです。
 また、古井は「明・日・月・赤・白」という文字を、おそらく偏愛した書き手でもありました。
 私はなぜかとは考えません。その表記を楽しむだけです。いまここでやっているように。
 私にとって「古井由吉」は言葉であり言葉の身振りです。刺激的な細部に満ちた作品を、ストーリーや人生観や意図や文学観や恋愛観に置き換える気持ちはありません。

*振りまわされる(線状について・05)

 人類は一貫して呪術の時代に生きていると私は考えています。現代と呼ばれる、いまも人類は呪術の時代に生きているという意味です。
 絵、形・姿・模様、しるし・記号・標識、文字、数字、数値、数量、人形、声、音、物語、小説、写真、映画、動画、人工知能、仮想現実――こうした生きていないものに、同類であるヒトの気配や振りや働きかけてくる「何か」を感じる。込められている、宿っていると感じる。
 生き生きと感じる。喜怒哀楽を覚える。一喜一憂する。酔う、酔い痴れる、痴れる。振りまわすのではなく振りまわされる。
 そういうことです。
 生成AIとVRとARは、呪術の完成形だと私は感じています。

*好きな動画

 エンゲルベルト・フンパーディンクの歌う「ラスト・ワルツ」には、フランス語のカバー( La dernière valse )があります。
 大好きだった(いまも好きです)ミレイユ・マチューの声は、難聴の進行した耳にはもう聞こえませんけど、記憶のなかにあります。
 これも「振れ」なのかもしれません。振れは身体に染みこんでいて反復されるもののようです。
 映像に触れて振れるというよりも、体のなかで振れが待ちかまえていて、つぎつぎと出てくる感じがします。それが瞬時瞬時起きて持続するのです。よく聞こえないのに。

*小説を鑑賞する(小説の鑑賞・01)

 小説ほど変わった鑑賞のされ方をしているものはない気がします。私だけなのかもしれませんが、あまりにもびっくりして何度も腰を抜かしたことがあります。冗談はさておき、それくらい、小説の鑑賞のされ方はユニークなのです。
 芸術とか作品と呼ばれているもののなかで、こんなに摩訶不思議な鑑賞のされ方をされているものが他にあるとは思えません。
 この記事では、小説の鑑賞のされ方が、たとえば絵や楽曲や映画や演劇の鑑賞のされ方にくらべて、どんなに特異であるかを箇条書きにしてみました。

*『杳子』で迷う

『杳子』は見立てで読める作品では断じてない。これは確かなようです。
『杳子』は、紋切り型の通念を宙吊りにする言葉の身振りに満ちた言語作品なのです。この小説に読みにくさがあるとすれば、理由はそこから来ていると思います。
 私はこの作品の傍らで開いておくのにふさわしい文章として、「Ⅱ「怪物」の主題による変奏――ジル・ドゥルーズ『差違と反復』を読む」(蓮實重彦『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』所収・河出文または講談社文芸文庫)を挙げたいです。
 蓮實重彦の「ジル・ドゥルーズ論」には、抽象的な通念と言葉遣いに苛立ち嫌悪し、そうした言葉を宙吊りにしようとする言葉の身振りを感じます。
 両者の言葉の身振りは遠く離れてながら、ともに振れている。そんな気がしてなりません。

*同じ音をくり返す(反復とずれ・01)

 オノマトペとは、私の好きな言い方をすれば、実物(本物)のない複製であり、起源のない引用なのです。それが指ししめすものやその出どころが不明なのにリアルであり、おそらくリアルさそのものなのです。
 人のいだくリアリティや臨場感に実体(事実)が必ずしも要らないことの見本が、オノマトペです。
 指ししめす実体がないにもかかわらず、その意味不在の音の響きがみょうにリアルで、指ししめすものを待ち受けている音の流れと言えばいいのか――。
 言葉が実体不在で成立することをすんなりと実感させるという意味で、オノマトペは究極の「言葉」であり、言葉の「不在証明」(意味をずらせてあります)なのかもしれません。

*小説が軽んじられるとき(小説の鑑賞・02)

 小説は複製で読んでなんぼ――残酷な言葉です。小説がかわいそうだし、だいいち、小説にたいして失礼だと思います。
 読まれるために生まれた――。積ん読されている本たちは、授けられた使命をまっとうできずにいるのです。
 複製として生まれた、つまり、その他大勢の一冊(one of them)にすぎないという出自のために、小説はその存在がないがしろにされているのです。
 複製文化――大量生産や大量消費のことです――の恐ろしさとも言えるでしょう。大げさに聞こえるかもしれませんが、心からそう思います。

*見えない反復、見える反復

 うさぎおいしかのやま
 こぶなつりしかのかわ
     *
 ひらがなで入っているような歌詞があります。ふいにあれよあれよと出てくるのです。声に出して歌っても、心か頭の中に浮かぶだけでも、漢字をまじえた文字として意識することはありません。
 この歌を私が歌い覚えた幼いころには、きっと漢字のまざった日本語として覚えたのではないはずです。
 音のつらなりとして聞いて、真似て、唱えて、覚えたはずです。これは頭というよりも身体で覚えたと考えられます。言葉でありながらリズム(動き・強弱・長短・振り)とか旋律(流れ)なのです。
 こうした反復(リズム・旋律)は反復されることによって、「ずれ」として、人に入ってくると考えられます。

*見る「古井由吉」、聞く「古井由吉」(その1)

 古井由吉の小説では、登場人物は聞いているときに生き生きとしていて、見ているときには戸惑っているような雰囲気があります。耳を傾けることで世界に溶けこむ、目を向けることで世界が異物に満ちたものに変貌する。こうした言い方が可能かもしれません。
 というわけで、とりあえず、ここでは「聞く「古井由吉」」と「見る「古井由吉」」という分け方をしてみます。
*聞く「古井由吉」:ぞくぞく、わくわく。声と音が身体に入ってくる。自分が溶けていく。聞いている対象と自分が重なる。対象が染みこんで自分の一部と化す。世界と合体する。
*見る「古井由吉」:ごつごつ、ぎくしゃく。事物の姿と形がそのままはっきりと見えるままで異物に変貌する。異物感。異和感(古井の好む表記です)・違和感。自分が解体されていく、崩壊していく感覚におちいる。
 図式的なまとめになりましたが、私にはそんな気がします。

*影の薄い小説(小説の鑑賞・03)

 小説 < 作者
 紙の本の小説(印刷物) < 同じ小説の電子書籍・ネット上版
 古くなった本の小説 < 同じ小説の新品の本
 ある作家の有名な小説 < 同じ作家の有名でない小説
 こんなふうに影の薄い小説があるようです。
     *
 どんな形であれ「影の薄い小説」の見方でありたいと願う私としましては、とにもかくにも、強大な存在感を持つ作者の陰に隠れて影の薄くなっている小説がふびんでなりません。
 そのために声を大にして言いたいです。
 作者ばかりに目を向けず、小説そのものをちゃんと読みましょう、と。

*であって、ではない(反復とずれ・03)

 宙吊りにして着地させまいとする身振りは、この書き手(蓮實重彥)の芸であり、至芸であるとさえ、私は言いたいのです。
 なぜ至芸なのかと言いますと、この書き手は「着地させまい」を、「いまここではないどこか」にあるものとして指ししめすのではなく、「いまここにある」言葉に演じさせているからにほかなりません。
 演じさせている、振りをさせている――この書き手は「振付師」(おそらく表現者ではなく)なのです。
 言葉の振付師を演じることによって、この書き手は「着地させまい」という言葉が「着地する」のを周到に回避していると言えます。これを至芸と言わずに何と言えばいいのでしょう。

*小説をよごす(小説の鑑賞・04)

 文字は複製です。誰が手で書こうと、キーボードで入力しようと、文字は複製であり、その他大勢のひとつ( one of them )なのです。この事実に本気で驚こうではありませんか。
 文字からなる印刷された小説もまた複製であるのは言うまでもありません。複製( one of them )なのですが、それでいて、実物・実体( the only one )でもあります。
 ようするに、小説は物なのです。物だから「よごせる」し、「よごれる」こともあります。書き込みや経年劣化のことです。手に取って手のひらにのせて愛でることのできる物は、いつか壊れるでしょう。消えてしまう可能性も高いです。火の用心。
 そんな小説が私は愛しくてたまりません。

*きらきら星(反復とずれ・04)

 話し言葉は音と意味からなりますが、人にとっては意味よりも音が先だと最近よく思います。音は意味を呼びますが、意味は音を呼んでくれないからです。意味は後付けだという気がします。
 話し言葉では意味やイメージ、つまり思いが音を主導すると考えられがちですが、逆に音が意味やイメージを先導するのではないでしょうか。
 音が意味やイメージを喚起する力は強いです。言葉を持ってしまった人間にとって、意味が後付けされた音が記憶と重なって付きまとうのかもしれません。
     *
 人は目をつむって寝ます。目を閉じて亡くなります。
 寝際や死に際にあるのは音の記憶と記憶の音が呼び覚ます風景ではないでしょうか。際にあっては、音の記憶も記憶の音も、もはや意味ではないのだろうと想像しています。
 たぶん風景だけがあるのです。
 そんなとき、目蓋の裏では音がまたたいている気がします。人を離れて自立した音たちが目くばせしあっているのかもしれません。
 人はその光景を眺めているだけ。夢と同じです。夢と同じで参加できないのです。夢は参観というよりもむしろ傍観――。参加できたら、それはもはや夢ではなく、うつつ(現)です。

*声に恋して悪いでしょうか

 ところで、いまこうやってnoteで文章を書いている私と、noteで私の記事を読んでいるあなたはどこにいるのでしょう?
 下書きを書いている私の「いま」と、投稿された記事を読んでいるあなたの「いま」は当然のことながらずれています。リアルタイムに接しているわけではありません(ましてや対面しているわけではありません)。
 べつに不思議なことではありませんね。本や雑誌を読んだり、映画やテレビを見る時でも、同じことが起こっています。ライブでない限り、制作する側の時間と鑑賞する側の時間はずれているのが普通です。
 話を文章に限れば、書かれている内容の時間、書き手が書いている時間、読み手が読んでいる時間、読み手がその文章を想起する時間は、それぞれずれています。「時間」を「場所」に置き換えても同じです。ずれています。

*見る「古井由吉」、聞く「古井由吉」(その2)

 この記事の目次にある、大見出しを振りかえってみましょう。
 Ⅰ 一目瞭然、見てぱっと分かる
 Ⅱ 「目」「明暗」「見」を目で見る
 Ⅲ 「耳」「声」「聞」を目で見る
 Ⅳ  反復と変奏を目で見る
 このように、「見る」が反復されていますが、意識してのことです。とても大切なことなのでくり返したのです。
 小説という文字からなる言語作品では、聴覚的なイメージは文字を目で見るという形でしか確認できません。文字を視覚でしかとらえられない以上、これは致し方ない限界だと言えるでしょう。
 言語(とりわけ文字)は聴覚を視覚的な形とイメージに置き換えている――。これは小説の宿命でもあります。あまりにも当たり前なので、忘れがちなこの点に敏感でありたいと思います。
 もちろん、聴覚だけでなく、嗅覚、味覚・食感、触覚・触感、気配といった知覚も視覚に置き換えなければなりません。
 小説ではすべてが文字化されなければならない――。これも、言われてみれば当たり前のことなのですが、文字からなる小説を読んでいるさいには、つい忘れてしまいます。そんなわけで、今回の記事では、特定のページの文字と文字列だけを眺めてもらうようにも工夫しました。

*【レトリック詞】であって、でない

 Aは、Aであって、Aでない。
 Aは、Aであって、Aである。
 文字と実体、○という文字と○というもの、文字と文字ではない何か、○という具象と○という抽象、○という物と○という観念。
 目の前にあるものを文字として見ないことから、すべての学問は始まる。
 目の前にあるものを文字( letter )として見ることから、文学( letters )が始まる。
 ここと向こう、こことかなた、文字を文字どおりに取ると文字を文字どおりに取らない。
 ふたつのあいだで、ゆれる、ぶれる、ふれる、振れる、震れる、狂れる。
 というか、振れる、振られる、振りまわされる。

*【モノローグ】カフカとマカロニ

「同じ」「違う」の判断は、人に代わって、道具や器械や機械や複製がする。「似ている」「似ていない」の世界に住む人は、「同じ」「違う」の判断を、自分の外部に委託する。
 秤(アナログ式・デジタル式)、物差し(アナログ式・デジタル式)、時計(アナログ式・デジタル式)、温度計((アナログ式・デジタル式)、写真、レントゲン、顕微鏡(光学式・電子式)、望遠鏡(光学式・電波式)、MRI、CT、文字・数字・記号・しるし。
     *
 文字は人が外部につくる複製。固定し、増やし、広め、残し、伝えるためにつくられる。ありとあらゆるものが最終的には文字にされる。
 経典、聖典、法典、百科事典、辞典、文学全集、公文書、私文書、契約書、誓約書、条約、約款、メモ・覚え書き、落書き。
 文字は、あやまっても、あやまらない者たちに利用される。
     *
 人のつくるものは人に似ている。人のつくるものに人は似ていく。
 絵、人形、キャラクター、アバター、人工○○、人造○○、物語、小説、演劇、映画、漫画、アニメ、ロボット、サイボーグ、仮想現実、人工知能、生成AI。

*「カフカ」ではないカフカ(反復とずれ・05)

 みなさん、ご自分の名前で想像してみてください。日本語とは異なる文字が使われている言語で、あなたのお名前が書かれていたとします。
 それをいきなり、予備知識なしに目の前に出されたとしたら、どんな気持ちがするでしょう?
「何ですか、これ? えっ! 〇〇語で私の名前を書くとこうなるのですか?」 
(一瞬絶句)
「こんなの私じゃないです」
 こんな感じではないでしょうか。少なくとも、私なら、そんなリアクションをしそうです。

*小説の執筆をライブで見る(小説の鑑賞・05)

 作家による小説執筆のパフォーマンスをライブで見る――。これはあります。いわゆる「缶詰」です。
 限られた人だけが――たとえば担当の編集者が――、原稿や作品ができあがる過程をつぶさに見ることができます。
 そして、第一番目の読者になれるのです。
 出来たてのほやほや、湯気の立つような原稿や作品を鑑賞する。初めての読者。そんな贅沢きわまる小説の鑑賞がありうるのです。

*旋律のような名前の女の子(反復とずれ・06)

 悲しいことに、人は一面的なレッテルをたくさん貼られながら生きています。一面がたくさん集まったから多面的になるのではありません。
 レッテルとは、その時、その場の都合で貼られるものなのです。押しつけなのであり、おそらく、その人を縛るための方便です。
 次のようにも言えます。
 ある人が、一日で貼られるレッテルは多いのは事実です。時と場合に応じて役割があるから当然です。でも、ひとつのレッテルでその人をくくるのは、その人の多面的な個性を無視して、その人を縛ることにほかならないと思います。
 人はレッテルとは関係なく、多面的な存在なのです。レッテル、言い換えれば、あなたの名前以外の名詞はあなたを縛って固定化しようとするだけ。名詞は固定を指向します。

*見る「古井由吉」、聞く「古井由吉」(その3)

 老婆が口を開き、話しはじめたことをきっかけに、「見ているようで見ていない」「見えているようで見えていない」という世界、つまり上の図式でいう、「はっきりと見えるままで異物に変貌」していた妙な世界が消えます。
「声と音が身体に入ってくる」「自分が溶けていく」「聞いている対象と自分が重なる」「対象が染みこんで自分の一部と化す」世界へと転じるのです。
「見る「古井由吉」」から「聞く「古井由吉」」へ。ここからは読みやすくなります。具体的に見てみましょう。

*小説が書かれる時間、小説が読まれる時間(小説の鑑賞・06)

 極端な話が、小説より短い俳句や短歌も、紆余曲折があって最終的な形になるのだろうと想像しています。詩もそうにちがいありません。
 読み手は、それを一気に読むのです。短いものであればあるほど、一気に読むようです。俳句を途切れ途切れに読むというのは想像しにくいです。
 俳句は一気に読まれるもの。俳句はじっくり詠まれるもの。いや、俳句は一気に読んでから、じっくり何度も何度も読めるもの。
 短い詩歌に流れている時間も、ずれだらけなのかもしれません。というよりも、川面に近いところはさらさら流れていても、長い長い伝統という時間が底にゆっくりと流れている気もします。
 読まないと詠めない。たくさん読まないと、うまく詠めない。これは短い定型詩だけでなく、長い散文である小説でも言えそうです。

*一人でいるべき場所

 レイモンド・カーヴァーの『隣人』(村上春樹訳)という掌編はかなり切り詰めた文章でつづってあります。あれだけ削ぎ落とした文章にすると、読者は自分で補って読むようになります。行間を読んだり、イメージを勝手に膨らませるわけです。
 噂話や人づてに聞く簡潔な話でも、そうです。聞く側はおぎなって話を膨らます傾向があります。尾ひれとは、そんなふうにしてついていきます。「書く」と「読む」、「話す」と「聞く」は共同作業なのです。それが次の「書く」と「読む」、「話す」と「聞く」につながっていきます。
 カーヴァーの『隣人』は短いながら読むたびに何らかの発見があります。私なんか、それが楽しみで読んでいるくらいです。先日読んでいて、おやっと思ったのは、向かいの住まいの留守番を頼まれた夫婦が、その隣人宅に入る時には別々に入り、二人で一緒に入ったり、その中に居ることはない――あるいは書かれていない――ことでした。

*でありながら、ではなくなってしまう(好きな文章・01)

 であって、でない
 であって、ではない
 でありながら、ではなくなってしまう
 ……であって、……でない
 ……であって、……ではない
 ……でありながら、……ではなくなってしまう
     *
 たぶん、私はこういうリズムというか言葉の身振りが好きなのです。自分のなかにある「何か」、自分に流れている「何か」と、ともぶれ(共振)している気がします。
 ミステリーのなかにもこういう展開のストーリーがあります。はらはらどきどきしますね。
 今回紹介する蓮實重彥の文章では、作品全体ではなく、センテンスレベルで、こういう展開が見られるのです。
 蓮實の文章のなかでも、小説について書かれたものは比較的読みやすいと思うので、安岡章太郎の小説を論じたものから引用します。できるだけ、短く引用するので、お付き合いくださればうれしいです。

*マナとマナマナ(反復とずれ・07)

*音の反復:「マナマナ」という歌のように、意味不明の音がくり返されている。意味が分からないために、たとえそれが「声の連続」であっても、鳥のさえずりや雨音のように、人にとっては「音の反復」なのではないか。
*声の連続:「ケセラセラ」という歌のように、外国語の歌として聞いている分には、意味が不明であっても、「これは言葉なのだ」という意識が支えとなっている以上、「音の反復」というようりも「声の連続」と言えるのではないか。(なお、反復と連続の使い分けに大した意味はなく、逆であってもかまわない。)
*文字の羅列:「マナマナ」も「ケセラセラ」も耳にする分には音声であるが、そのありようを論じる場合には――たとえばこの記事でやっているように――、文字として記される。つまり、反復の見られる文字列であり「文字の羅列」だと言える。音や声を観察し論じるためには、音や声を文字化しなければならない。
 文字は簡単にできる見える化。ごちゃごちゃしていたり、不可解で不気味であったり、意味不明のものは、とりあえず文字にすれば安心できる。ちょろいものだと錯覚できる。
 文字は錯覚製造装置。声化や言葉化だけでは手ぬるい。文字化は世界を名づけて手なずける第一歩。文字は手軽に複製できるし拡散できるし保存できるし引用もできるし継承もできる。
 ネットがあれば、世界中のみんなと錯覚を楽しめるし、安心できる。

*小説の偽物っぽさ(小説の鑑賞・07)

 絵画は、たったひとつ感がもっとも強い。そのために複製で鑑賞されるのが一般的であっても、その複製を偽物だとはまず感じない。つまり、絵画は複製の偽物っぽさがきわめて薄い。
(なお、「偽物っぽさ」という言い方が気になる方は「別物っぽさ」、あるいは「本物っぽさ」と読み替えてください。以下同じです。)
 楽曲は、できれば生で聴きたいと思う人が多い。その残念感のために、複製で鑑賞されるのが一般的であっても、その複製を偽物だと見なす気持ちにはなかなかなれない。つまり、楽曲は複製の偽物っぽさがそこそこ薄い。
 小説は、複製としてしか存在できない文字の組み合わせであるために、複製で読んでなんぼという、きわめて希(レア)なもの。つまり、小説は複製の偽物っぽさが皆無。
 どんな小説も複製で読むのですけど、なにか?
 偽物っぽくない偽物というものがあるとすれば、それは小説である。

*トイレ同盟

 トイレでの「ぼけっー」や物思いというのは、寝際の夢うつつに類似した心地よいものです。排泄という人間にとっての基本的ないとなみが、心身ともに人を素の状態に近づけてくれるような気がしてなりません。
 昼間において、夜間の寝床のように無防備になれる空間はトイレ、それも個室のトイレではないでしょうか。
 私はトイレの壁やドアの染みや模様を眺めているのが好きです。そんな時にはいろいろな形を頭の中で描くのですが、そのとりとめのなさはひとさまには絶対に説明できません。
 おそらく自分だけに通じるイメージでしょう(ひょっとすると自分にも通じていないのかもしれません)。だからこそ、そのイメージは愛しいのです。自分だけのものですから。
 トイレで頭に浮かぶ思いや姿や形や風景が人に理解されるなんて根っから諦めています。
 他者のいない世界とでもいいましょうか。でも寂しくはありません。他人への気遣いの必要のまったくない夢想だからこそ快いのです。ほっとするひとときです。

*『コインロッカー・ベイビーズ』その1(好きな文章・02)

 センテンスには読点がありませんが、読みやすく感じます。リーダビリティが高いのは、漢字とひらがなのリズムが絶妙だからだと思います。
 目を細めて見てください。綺麗な模様を描いていませんか? まさか村上龍が美大に在籍していたからだとは言いませんが、文章をいわば絵や模様として見ているのではないかと言いたくなる字面をしています。
 会話が鉤括弧でくくられていません。とはいえ、作品全体がこう書かれているわけではありません。
 気まぐれに鉤括弧をつけたり、外したりしている印象を受けます。上の漢字とひらがなのリズムでも言えるのですが、即興、アドリブ、ジャズなんて言葉で形容したくなるほどです。
 鉤括弧なしの会話といい、読点のないセンテンスといい、自分でやってみると難しいのに気づきます。テクニックなのでしょうが、この作品をものしたときの年齢を考えると、村上龍の場合には天性のものではないかと思わずにはいられません。

*『コインロッカー・ベイビーズ』その2(好きな文章・03)

 日本の小説の英訳を読みながら原文の日本語を再現しようとしたことがあります。翻訳家を志していた頃の話です。文章修行のつもりでやっていました。いちばんよくやったのが、『英文版 コインロッカー・ベイビーズ』をつかっての逆翻訳です。
 好きな部分を段落ごとに英語から日本語に訳していって原文と対照するのですが、そのたびに村上龍の描写力に驚嘆して自分の力不足に意気消沈したのを覚えています。
『コインロッカー・ベイビーズ』の文章は私にとって、いまも行き詰まった時に参照する規範であり続けています。読んでいると勇気づけられるのです。文章にはいろいろな仕掛けがあることに気づかせてくれもします。
 みなさんも、お好きな日本の作家の英訳で試してみませんか? 一冊まるごとやると大変なので、好きな箇所だけやるのがコツです。大げさな言い方になりますが、言語観や日本語観が変わりますよ。

*プライベートな場所、プライベートな部分

 他人の家に入るとわくわくするとか、どきどきすることがありませんか? よその家に足を踏み入れた瞬間に、その家独特の匂いがしたり、自分の住まいとは違う湿度を感じたり、何か見てはいけないものと出会う予感がして、どぎまぎすることがないでしょうか。
 私の場合には、思わず身構えている自分がいます。緊張するのです。なぜか、後ろめたい気もします。
 店や公共の施設に入るのとは違った気持ちがするとすれば、それは私たちの遠い祖先が感じていたであろう、他人のテリトリーを侵犯する際のスリルに似た感覚が呼び覚まされ、刺激されるからではないでしょうか。
 こうなるとスリルというよりも、恐れや警戒心と言うほうが適切かもしれません。恐れや警戒心というのは、まず皮膚的な感覚として生じる気がします。気配というやつです。

*ヒトは動物園にいない

 あらゆる一般化は、ある特定のローカルな言語をつかって、つまり、ある特定のローカルな言語の枠内で一般化をめざさなければならないと言えます。
 ある言語で、言葉をついやして語れば語るほど、記述すれば記述するほど、その言語の言葉の綾にとらわれることになります。つまり、「一般(化)」とか「普遍(性)」とか「客観(性)」からどんどん離れていくのです。
 そのさまは「ボロが出る」という言い回しに似ています。滑稽なのです。
 一般化をめざしながら、一般化ではなくなってしまう。
 一般化という言葉がありながら、一般化について語られることはない。
 こうなると、居直るしかありません。忘れた振りを装うのです。演技・遊戯・演奏・賭け(play)と割り切るのです。ただし、忘れた振りを演じていることを忘れたくはありません。自覚していたいです。

*「私」を省く

 古井由吉の短編集に『水』があります。表題作の『水』は、その後の古井の小説に繰り返し登場することになる情景やイメージに満ちていて興味深い作品です。
 たとえば、開腹手術のために入院した語り手が、音と気配と想像で病院内の様子を探る場面があるのですが、これは何度も後の作品で変奏されて出てきます。
 反復ではなく変奏ですから、同じ病気ではないし、同じ年齢の人物ではなく、同じ病院でもありません。でも病室のベッドにいわば目をふさがれたような形でいて(仰向けの場合もうつ伏せの場合もあります)、病院内や病院の外の様子にあれこれと思いをめぐらすのですが、その筆致がじつに濃密で、ときとして不穏かつ不気味に感じられることさえあります。
 そうした作品を読むたびに既視感を覚え不思議な気分になります。ああ、まただ、とか、あれっ、たしかこれは……という感じです。

*「ない」に気づく、「ある」に目を向ける

 私の考える文学では、「ない」ものに気づき(気配かもしれません)、「ある」ものに目を向ける(これは体感です)ことも含まれます。
「ない」も「ある」も「ある」からにほかなりません。文学とは、文字として「ある」ものと「ない」ものに等しく目を向けることではないかと考えています。
 ただし、ここで述べている「ない」ものとは、「ある」ものの向こうに見える、意図とか思想とか伝記的事実ではないことは言うまでもありません。
 とはいえ、「文字として「ある」ものと「ない」ものに等しく目を向ける」は、私がそうありたいと思っている読みのスタンスであって、現実には私は「ある」ものの向こうに、そこには書かれていない「何か」を見てしまいます。
 これは、人であるかぎり当然でしょう。

*小説は絵に似ている(小説の鑑賞・08)

 小説は直線である。これは物としての小説の特性だと私は思います。
 小説が直線状の物、つまり物質であり物体であるというのは、じつは人にとっては抽象だという意味です。
 具体的な物が抽象でもあることはよくあります。抽象絵画という具体的な物がいい例です。いまのは半分冗談なのですが、抽象とか具象というのは言葉の綾なのではないかと最近よく思います。
    *
 小説を前にした人にとって、目の前にある小説は直線であり、同時に点であり線であり面でもあるという気がしてなりません。
 人が小説を読むときには、文字と文字列を、目の前の文字と文字列として見るのではなく、文字と文字列の向こうを見ているからです。
 これが「読む」なのです。読む人は「ここ」にはいなくて、「向こう」というか「どこか」にいるとも言えます。
 心ここにあらず、とか、うわの空と言えば、分かりやすいかもしれません。

*「移す」代わりに「映す・写す」

 なお、谷崎も川端も乱歩も、MだのSだのHだのも、その作品の傾向がです。ご本人については知りませんので、誤解なきようにお願いいたします。
 作品だけを前にして、その作品を書いた人について語れるわけがありません。騙るなら別ですけど。
 つまり、「谷崎潤一郎」も「川端康成」も「江戸川乱歩」も、「言葉」であり「記号」なのです。それでしかありえないのです。
 あなたも私もそうだと言えます。noteという場にいる限りにおいては、生身の人間ではないわけです。
 私はあなたに触れることはできません。でも、あなたの言葉(文字)になら「触れる」ことができます。それ以上でもそれ以下でもありません。
 それ以上とそれ以下にかかわるのが、「読む」であり批評であり文学研究なのでしょう。この文章もそうです。

*痛みをつたえる名文(好きな文章・04)

 スティーヴン・キングは状況や設定で読ませます。痛みというよりも広義の苦しみや恐怖が描かれている作品で傑作だと思うのは、長編では『ミザリー』、中編の『超高層ビルの恐怖』、短編だと『第四解剖室』です。
 村上龍は身体に訴えるパワフルな描写で読者を圧倒します。痛みと苦しみに焦点を当てるなら、お薦めは『コインロッカー・ベイビーズ』、『イビサ』、『トパーズ』(短編集)、『イン ザ・ミソスープ』です。
 江戸川乱歩は奇想と何げない文章で読者を悪夢にさそいます。肩に力が入っていないようで凝っているとか、巧まないようでじつは巧んでいる文体が特徴です。痛いよりも切なくて苦しいが得意だと思います。『鏡地獄』『踊る一寸法師』『芋虫』『人間椅子』といった短編が読みやすいです。

*意味を絵で見せる漢字、意味を音で奏でる仮名(好きな文章・05)

 漢字は意味をともなった形がダイレクトに目に入ります。有無を言わせずに入ってくるのです。いっぽう、平仮名はじっさいに声に出さなくても、心のなかで音読して体に染み入ってくる気がします。目で文字をなぞって撫でながら、その音色を聞いているのです。
 こうも言えるでしょう。漢字では意味が視覚的に飛びこんでくる。ひらがなは意味を奏でる。
 漢字は意味を目で感じる。意味を目で漢字る。
 かなは意味を音で奏でる。意味を音で仮名でる。

*くり返される身振り(好きな文章・06)

 このところ吉田修一の小説を読みかえしているのですが、再読するのはぞくぞくするからです。わくわくよりもぞくぞくです。どんなところにぞくぞくするのかと言うと、吉田の諸作品に繰りかえし出てくる動作とか場面にぞくぞくします。
 反復する、つまり複数の作品に共通して見られる身振りや風景があって、そこに差しかかるとため息が出ます。もちろん、全体のなかの細部、つまり全体のごく一部という意味です。
 たとえ、部分だとしても、同じような、似たような細部をあれだけ何度も何度も書いているのは、書き手側に何かこだわりがあるにちがいありません。意味や意図があると言うよりも、それはほぼ無意識の癖だという気がします。
 書き手が書くときの癖に惹かれて、そこが読みたいから読んでいるというのは、読み手の側にも似たような何かがあるにちがいありません。

*くり返すというよりも、くり返してしまう

 同じことを繰り返すことで、人は安心するのでしょう。子どもがブランコやシーソーやメリーゴーランドの単調な動作や風景の繰り返しが好きなように。そうした、ぶらぶらゆらゆらぐるぐるとした世界では、主体などなく、あるのは動きと景色ばかりだという気がします。
 その意味で、創作活動と読書体験(作品の鑑賞)は夢に似ています。創作と読書と夢に耽っているとき、人は似た場所にいるという意味です。あえて共通点を述べるなら、そこ(創作、読書、夢)では、自分以外の何かに身をまかせている、身をゆだねていることでしょうか。
 だから、くり返してしまうのです。くり返すのは自分でありながら自分を超えたものに支配されている気がします。振り付けされていると言えばわかりやすいかもしれません。ただし、誰かによってというより、何かよってだという気がします。
 自分以外の「何か」とは、言葉や文字なのでしょうが、楽曲におけるコード進行とか旋律に相当する「流れ」だと言えば分かりやすいかもしれません。大切なことは、快い方向へと流れていくことです。すると、それが筋や型になります。

*書いた言葉はどこに行く

 自分が消去した文章が宇宙のどこかでぷかぷか浮いている気がする――。そんな意味のことを書いていた作家がいました。
 一回じゃなくて、四、五回くらいですが(いや、もっとかな?)、noteを退会して投稿した記事をぜんぶ削除したことがあります。自分なりに、のっぴきならぬ事情があってやったことなのですけど。
 それはさておき、一瞬のうちに全記事が消えます。あっけないですよ。頭も空白になります。二、三日は魂が抜けたようにぼーっとしていました。
 後味が悪いだけでなく、悲しいのです。自分の書いた言葉たちが消えるということは、人にとって大きな喪失感をともなう出来事であり、個人的には事件なのかもしれません。
 公開している記事を削除したいなら、全記事のバックアップを取っておくことをお勧めします。小心者の私のように。

*言葉は魔法(言葉は魔法・01)

 書くことは自分ではないものに身をまかせる行為なのです。自分ではないものとは言葉にほかなりません。
 猫という言葉は猫に似ていますか? それなのに、猫としてつかっているのが猫という言葉です。
 そんなとんでもないものと、人は付きあっているのです。

 言葉は誰にとっても借りものであって、代々受け継がれてきた共有物です。誰にとっても、生まれたときに既にあるものです。自分から出たものじゃありません。
 誰もがまわりの人たちを真似ながら言葉を身につけます。生まれたときに既にあった制度でありルールですから、自分ひとりでどうこうできるたぐいのものではありません。
 他人がいて言葉があるのです。自分が口にしたり文字にする言葉は他人との関係で揺れます。ブレます。

 言葉は自分ではないもの。
 言葉はとんでもないもの。
 言葉と言葉が指すものはぜんぜん似ていない別物。
 言葉は外部。

 言葉は揺れ。
 言葉は揺れる。
 言葉はあなたと私のあいだで揺れる。
 あなたと私がいるから言葉が揺れる。

*相手に知られずに相手を見る(する/される・01)

 川端康成の『雪国』(1948年・完結本出版)の一つの場面と、『眠れる美女』(1961年・出版)のあらましを取りあげましたが、その二つの作品のあいだでどのようにエスカレートが起きたかを簡単にまとめてみます。
     *
 一方的に相手を見る、一方的に相手の声を聞く。
   ↓
 一方的に相手を見る、一方的に相手の声を聞く、一方的に相手のにおいを嗅ぐ、一方的に相手に触れる、一方的に相手の体内へ自分の体の一部を差し入れる。
 これをエスカレートと言わないで何と言えばいいのでしょう?
 ある特定の作品の一場面に見られるある身振りと、ある特定の作品に見られる複数の身振りを強引に結びつけただけの、きわめて粗雑な図式で恐縮ではありますが、この見立てで連載を進めていきます。

*古井、ブロッホ、ムージル(その1)

 私が注目するのは「横たわる」が、なんらかの形で死に結びついていたり、死を想起させる(眠ることをふくめて)身振りであることです。
 生命の停止である死と親和性があるにもかかわらず、この「横たわる」身振りが作品の生命を促して維持したり、言葉を呼び寄せて蘇生させるとすれば、それはまさに蓮實的な言葉の身振りでもあると言えそうです。
 死と親しい身振りでありながら、生を呼び寄せてしまう。
 死んだ振りを装いながら、生きている振りを演じている。
(生きていなければ死んだ振りも生きた振りもできない・人)
(生きていないから死んだ振りも生きた振りもできる・文字・言葉)
 蓮實重彥の「横たわる漱石」を読んでいると、そんな言葉の動き(身振り)に注がれる蓮實の眼差しを感じないではいられません。
 それだけではありません。いま述べた身振りは、私のなかでは古井的「存在」の身振りと重なるのです。

*見る、見られる(する/される・02)

 現在、目は至るところにあります。カメラの目のことです。従来のカメラだけでなく「スマホのカメラ」のことです。
 テレビのニュースやネットでの配信(プロだけはなくいわゆる普通の人も自前の端末から投稿と配信ができる時代です)という形で、私たちは被害者、被災者、避難民の映像を目にしています。
 逆に言うと、誰もが「見られる側」「映される側」「写される側(複製されて拡散される側」に転じる可能性のなかで生きているのです。
 さらに言うなら、誰もが「移される側」に置かれる可能性のなかにいます。避難(難民としても含みます)や移送(生きて移送されるとは限りません)のことです。しかも、現在そのさまを見られ、映され、写される可能性は高いです。

*人というよりもヒト(する/される・03)

「されている」を知らない、あるいは意識していない、または物言えない相手や対象を、一方的に「する」――。
 いま述べた行為や行動は、川端の作品だけに言えたり見られるのではありません。物語や話や小説だけでなく、演劇や漫画や映画やテレビドラマといった広義のフィクション全般についても言える仕組みだという気がします。
 さらには、現在誰もが日常的に体験している、「する」と「される」、とりわけ「見る・見られる」「聞く・聞かれる」という状況についても言える仕組みだと私は考えています。
 ぶっちゃけた話が、人類のやっていることなのです。他の生きものや生きていないものに対してだけでなく、人類同士でも、です。

「古井、ブロッホ、ムージル(その2)」

 小説で物語の進行をとどこおらせて、長々と描写を重ねたり、細かい描写をつづけると、綴られた言葉(文字)が異物めいた印象のものに見えてくる。そんな気がします。
「ごつごつ、ぎくしゃく。事物の姿と形がそのままはっきりと見えるままで異物に変貌する。異物感。異和感(古井の好む表記です)・違和感。」
     *
 文字として書いてあるのですから、「事物の姿と形がそのままはっきりと見えるまま」なのです。描写が細かければ細かいほど見た目には、はっきりします。
 見た目にはっきりくっきりするのと、それがすんなりと頭や心や身体に入ってくるのとは別です。すんなり入ってこないのは、その人にとって異物だからにほかなりません。
 頭も体もそれを受けつけないと言えばお分かりいただけるでしょうか。私の言う「異物感。異和感(古井の好む表記です)・違和感。」とはそういう意味です。

*葉子を「見る」「聞く」・その1(する/される・04)

 ようするに、小説は夢に似ているのです。
 小説を読むさいには、人は夢のように「あれよあれよ」と読みすすむしかありません。小説の書かれ方やストーリーをとりあえず受け入れて読むしかないのです。
 ただし、小説の場合には、気に食わなければ、読むのをやめればいいのですが、夢から「降りる」のはきわめて難しいでしょう。それが小説と夢の違いです。
「そして十年が過ぎた。」と書かれていれば、「ああ、そうですか」と受け入れるしかない。または「ああ、あほらしい」と読むのを中断すればいい。これが小説です。
 いっぽうで、夢を自分の意志で中断するのは、不可能に近いのではないでしょうか。意志を働かせた瞬間に、夢から覚める気がします。

*ひとりで聞く音

 mountain と hill がどう違うのか、どう同じなのか、つまり重なる部分と重ならない部分がどうなっているのかを調べるのには、英和辞典の解説を読むのがいちばんです。
 英和辞典に載っているのは英単語の意味ではありません。
 ある英単語の日本語訳なのです。ただし、この傾向はしだいに薄れてきて、新しい英和辞典では日本語訳に加えて、見出しの単語についての解説に当てられているスペースが大きくなっています。
 とくに最近の中学生や高校生向けの英和辞典は、とてもよくできています。単語についての説明が懇切丁寧で、辞書を引くというよりも辞書を読むことの大切さが実感できます。

*知らないものについて読む

 蓮實重彥の映画批評はその文芸批評と同じように読んでいて心地よいのですが、両者にはちょっとした違いがあります。
 ちょっとした違いとは、文芸批評の場合には、論じてある作品をある程度知っていたり読んだことがあるにもかかわらず――もちろん知らないこともありますけど――映画の場合についてはまず知らないということです。
 もちろん、その作品そのものを見たこともありません。たとえば、ジョン・フォードとか小津安二郎なんて、名前だけでしか知らないのです。調べる気もありません。
 ようするに、批評の対象について無知なのに批評を読んで楽しんでいるということです。それがじつに気持ちがいいのです。何について書いてあるのか知らないだけに快感が増します。
 比喩ですけど、めまいを覚えてくらくらするほど、「これはいったいどういうことなのか」状態に至ります。読んでいる言葉の表情や仕草や運動に酔うという言い方もできそうです。
 その言葉が指し示すものを知らないのに、その言葉の身振りや目くばせを楽しむ喜びがあるのです。抽象ではなく具体的な体験として心地よいのです。これは、何かがわかるとか発見するといった知的な行為ではないことは断言できます。対応物を欠いた言葉には純粋な表情と動きがあると言えば、おわかりいただけるでしょうか。

*短いけれど長いもの(辞書を読む・01)

 短いけれど長い――。不思議です。分かるようで分からない。
 英和辞典をぺらぺらめくってみてください。電子辞書ではなく紙の辞書ですよ。短い単語ほど説明が長いのです(その理屈は上で述べたとおりです)。「短いけれど長い」が体感できます。
 英和辞典ほどの迫力はありませんが、国語辞典でもだいたいそうです。めくりながら、読むのではなく目を細めて見るのがコツです。読まないほうが見えます。
「短い」と「長い」が同時に起こっている――。
「短い」と「長い」があっけらかんとそこに同居している――。
 目を細めたほうが見えるものがあるみたいで、不思議です。目を閉じたほうが見えるものがあっても、不思議ではなさそうです。見ているのは目ではないのかもしれません。

*書くべきものを書いてしまう人たち

 自分に書けるもの、おそらくこれは漠然とした思い込みという意味での可能性です。
 自分が書かなければならないもの、たぶんこれは義務や運命という名の思い込みです。
 自分の書くべきもの、これはきっと必然なのだろうと私は思います。運命ではなく必然です。
 天賦のもの(gift)かどうかは別にして、もし才能(talent)というものがあるのであれば、自分の書くべきものを「書いてしまう」人たちに備わったものではないでしょうか?
 くり返すのではなく、くり返してしまう人が、書くべきものを書いてしまうという気がしますが、この「してしまう」は楽そうでけっして楽ではなさそうです。
「だらだらとしてしまう」とか「ついやってしまう」のではない。これだけは確かなようです。たぶん邪念なしに無心で「してしまった」「結果」なのでしょう。

*『雪国』終章の「のびる」時間

『雪国』の冒頭では、葉子が島村から一方的にその姿を見られ、声を聞かれる対象になっています。今回は、この作品の終章で、葉子が島村から見られるシーンを見てみます。
 興味深いのは作品最後の葉子の状態です。島村から一方的に見られている点では冒頭の汽車の場面と同じなのですが、ラストのシーンで葉子は火事の起きた繭倉の二階から落ちて気を失っている点が異なります。
 ここで、ある連想が起きます。
 この意識のない状態で島村に一方的に見られている少女葉子は、のちの『眠れる美女』で眠らされたまま老人から見られ触れられる少女たちと重なります。重なるというよりも、予告しているとも言えそうです。

*figureというタイトルの詩(辞書を読む・02)

 もともとないものを心に浮かべるのは、空(くう)を「なぞる」に近い気がします。見えないけどなぞる。そこにはないけどなぞる。ひまつぶしになぞる。ぼんやり見えるものをなぞる。
 なぞっているうちに何かが見えてくる。見えてきたものを逃さないために、さらになぞる。
 空をなぞる。これがつくる、でっちあげるの一歩手前の身振りなのかもしれません。ただし、次の一歩は長い気がします。なぞるが無数に繰りかえされて、たぶんいま創作や文芸と呼ばれるものがあるのではないでしょうか。
     *
 空(くう、そらやからでもいいです)をなぞる――これが私の figure のイメージです――の次の一歩は永遠の途上にあるのではないでしょうか。
 何をなぞっているかは人には不明。なぞっているうちに形があらわれる。その形にうながされて、ものやことを「つくる」。
 だから、なぞる。人はなぞりつづける。
 英和辞典の figure に並んでいる言葉たちを見ているとそんな気がします。見ていて飽きません。

*異物を定義する(異物について・01)

 この連載のテーマである「異物」を定義します。
     *
 文字どおりに取ってくださいーー。
 猫とはぜんぜん似ていないのに猫であるとされて、猫の代わりをつとめ、猫を装い、猫の振りをし、猫を演じている。そんな不思議な存在であり、私たちにとってもっとも身近な複製でもある異物。
 いま、あなたの目の前にある物です。

*異物の異物性(異物について・02)

 豊崎光一先生は、いわゆる哲学書とか思想書と呼ばれていた著作(たとえば、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ、ジャック・デリダの著作)を、文字として、文字からなる作品として丹念にその言葉の綾をとくというよりもほぐしていく(解くというよりも解していく)読みを実践なさっていました。
 思想ではなく、言葉としてであり、文字としてです。
 哲学書と呼ばれている、言葉からなる作品を、詩や小説を読むのとどうように、その言葉の綾のレベルで読みほぐしていらっしゃったと言えば、お分かりいただけるかもしれません。
 どんなレッテルを貼られているテキストであれ、文字と文字列として見ながら読む、という読み方を教えてくださった先生でした。残念ながら故人です。

*「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」(連想で読む・01)

「雪国」とは、もはやこの作品を指す固有名詞と言えます。
 国語辞典で「雪国」を引くと、「雪国(作品名)」というぐあいに別の見出しがあるくらいです。
 そのために、普通の名詞として雪国という言葉をつかったとしても、川端康成の作品のイメージが付きまとうにちがいありません。
 それにしても、「雪国」という二文字に自分の生きた刻印をのこすなんて、うらやましい話です。

*言葉は約物(言葉は魔法・02)

 昔々の日本の文章には句読点がありませんでした。句読点以外の約物ももちろんありませんでした。
 見てきたようなことを言っていますが、国語や歴史の教科書とかテレビなんかで古文書を見た時には、たしかに「、」や「。」や「」や『』や「――」や「……」を目にした覚えはありません。
 そもそも古文には段落もなかったというか(そもそもセンテンスという概念もなかったのか?)、段落に分かれることなしにだらーっと書いてあったらしいです。そう言えば濁点「゛」もなかったとか……。ないないづくしじゃないですか。
 どうやって意味を取っていたのでしょうね。たしかうーんと集中して読んで、「ないもの」を頭の中で補うのですよね。それともでっちあげるのかな。補うというのは、いまだから浮かぶ発想です。
 たとえば、そもそも句読点のなかった長い長い時代には(句読点がある時代よりも長いという意味です)、句読点で補うという発想はなかったはずだし(もともとないものを補えますか?)、句点読点を省くという発想すらないかったはずです。
 いま「ないもの」と書きましたが、「ない」のに昔の人はたぶんちゃんと読んでいたのですから、いま「ある」のが不思議です。

*letterからなるletters

 私は内容やストーリーにはあまり興味が行かない読み手です。その分どう書いてあるかには敏感に反応します。
 私にとって川端康成の『少年』という作品の魅力は、コラージュ性というか、パッチワークのようにさまざまな文章(テクストとかテキストと言ってもいいです)が織り込まれていることです。
 過去の日記、現在の日記体の文章、手紙、詩(歌)、随想や手記として読めそうな文章、原稿(草稿)からの引用――。
 当然のことながら、さまざまな時間が入りまじります。しかも、他人の文章の引用が含まれているので、テクストとしてはかなり錯綜します。
 注意しないと訳が分からなくなりますが、それでもかまいません。その混乱と惑乱を楽しんでいる自分がいるのです。
 異なる要素、異なるテーマとトピック、異なる時空、異なる文体、異なる「人格」、異なる空気と湿度と温度――、そしてなによりも虚実が錯綜するのです(内容を鵜呑みにはできません)。
 作品の構成は、異と和が織りなす異和という感じがして、古い言い方ですが「前衛的」とも言えると思います。

*人が物に付く、物が人に付く

 板に憑かれていて、板に疲れていない。
 ボードに憑かれていて、ボードに疲れていない。
 画面に憑かれていて、画面に疲れていない。
 スマホでも、パソコンでも、ゲームでも、音楽でも、お芝居(劇場の舞台を「板」と言うそうです)でも、スポーツでもかまいません。広義の板やボードや画面に当てはめてみてください。
 板やボードや画面に取り付いた人間は、憑かれていて、疲れていないようです。まだまだ憑かれている(熱中)が続くだろう、プレイは継続するだろうという意味です。

*【レトリック詞】数学の修辞学、数学という修辞学

「似ている」かどうかの世界で生きている人は、「同じ」かどうかを思いえがく、思いうかべる、そして夢見ることができそうです。じっさい、そうしているようです。それが数学なのかもしれません。あと、物理学もそうなのかもしれません。
 数字を見た人はいても(数字は「何か」の代りにある文字であり物です)数学を見た人はいません(数学という文字を見たひとはいますが)。つまり、数学は物ではなく抽象だという意味です。見たことのないものは思うしかなさそうです。
 その意味で、数字と数学は、文字と文学に似ています。
     *
「似ている」は「同じ」に似ています。わくわくするほど似ています。「同じ」は「似ている」とは違います。がっかりするほど違います。
「同じ」のほうが「似ている」より格が上なのです。かっこいいし整然としているし信頼がおけるし、美しいのです。
 似ているを見ながら同じを思う、似ているに同じを夢見る。同じを見ている振りをする。同じを見ているを演じる。これが数学という修辞学なのかもしれません。

*【モノローグ】視覚は体感を裏切り、裏切るという形で体を導いている

 長方形の車体が、長方形の組み合わせである道路を前方へとすべっていく。前方に進みながら、ときにはかなり急なカーブを進む。ヘアピンカーブでは数秒前と逆の方向に走ることもある。
 曲線を細かく見ていくと直線になるとかいう学校で習った話を思いだします。円もそうでしたっけ? 地球の地平線や水平線を考えるとそうかもしれません。体感ではそんな気がします。
 体感と知識の食いちがいに唖然としないではいられません。とくに図形や図形を成りたたせている要素は、体感を裏切って自然界や宇宙に存在している気がします。その意味では抽象なのかもしれません。
 図形は体感できるものではなく頭で理解するものなのではないか、という意味です。その意味で、視覚は体感を裏切り、裏切るという形で体を導いている気がします。「ちがう、そうじゃないよ」というふうに。
 視覚が抽象への扉に思えてきました。

*【小話集】似ている、そっくり、同じ

「同じ」と「同一」は学習の成果だとも言えるでしょう。赤ちゃんにとって「似ている」という印象はあっても「同じ」かどうかは知りません。たぶん。
 わからないというより、知らないのです。「同じ」かどうかは教えてもらうのです。誰もがそうやって育ってきました。「同じ」かどうかは、知識や情報として「教わるもの」なのです。学校とは「同じ」かどうかを学ぶ場と言えるでしょう。
 たとえば、柴犬とキツネが動物という点では同じでも同じ種類ではなくて、ドーベルマンとポメラニアンが同じく犬なのは(人が勝手に名付けた結果である分類であれ、遺伝子レベルで機械やシステムが「はかった」結果であれ)、教わって知ったのです。

*【レトリック詞集】人間の「人間もどき」化、「人間もどき」の人間化

 私たちは「似たもの」としての世界に生きている「似た者同士」ではないでしょうか。
 あなたのいだく「似たもの」と私のいだく「似たもの」と、人の集まりである社会や集団がいだく(決めたということです)「似たもの」は似ているけど、異なるはずです。ズレがあるのです。
 それが個性ではないでしょうか。それがユニークさであり、掛け替えのなさではないでしょうか。
 私たちひとりひとりは同じではなく、似ているのです。

*あいまいでやさしい境

 見れば見るほど、国と国の境が直線で区切られているのは不自然な気がします。もともと人間が不自然で反自然だと考えれば不自然ではないのですけど。
 その不自然さは、コンビニや量販店にずらりと並ぶ商品の大半が四角であるのと似ています。人がつくるものは四角いのです。
 たぶん、規格化された製品を大量生産にするためには、直線で切って四角いものをつくるやり方が適しているのでしょう。処理や作業がしやすいにちがいありません。
 さもなければ、あんなに整然とした角(かど・かく)があって四角い物たちがあんなにたくさん存在し、それが直方体の箱たちに詰められて運ばれたりはしません。
 とはいっても、専門家ではないので、見て思っただけです。印象にすぎません。
 直線、角、四角、長方形、立方体といったものは、ぜんぶ学校で習ったもの。文字といっしょに習ったもの。これは確かです。

*ドナドナ

 足踏みという言葉とイメージが好きです。えんえんと足踏みをしている。前には進んでいない。
 べつに踏ん張らなくてもいい。えいえんにわからないまま。はかっても、わけても、わからない。
 たぶん、わかることを放棄している。ふんでいるだけでいい。ふむ……。
 自分の人生みたいで親しみを覚えるのです。

*目まいのする読書

 かつて日本文学の英訳を見ながら、それを日本語にする練習をしていたことがあります。翻訳家を志していた頃の話です。文章修行のつもりでやっていました。大学生の頃に東京の翻訳家養成学校にも通っていたのですが、そこで教えていらっしゃった高橋泰邦先生から習った方法なのです。
 高橋先生は川端康成の『雪国』とその英訳(エドワード・G・サイデンステッカー氏の訳業です)の二冊をテキストにして、英訳を生徒に自分の力で訳させ、さらにそれを川端の原文と比べさせて、川端のすごさを知り、その文章の秘密をさぐるというユニークな勉強法を提唱なさっていたのです。
『雪国』の冒頭を暗唱している方は多いでしょうが、いったんそれを忘れて、以下のサイデンステッカー訳を日本語にしてみてはいかがでしょう。それを原文と比べると、ひょっとすると日本語観が変わるかもしれませんよ。当時大学生だった私には衝撃的な経験でした。
 ただし、原文はあくまでも参考であり、到達点であっても正解ではないので誤解なさらないようにお願いします。

*言葉は嗜好品(言葉は魔法・03)

 言葉が降りてくるとか、言葉が降ってくるとか言う人がいますが、その気持ちも分かる気がします。降りるとか降るは、天や空を意識した言い方ですね。
 言葉が出てくるとか、言葉が湧いてくるというのも、よく耳にします。自分の中に言葉が眠っているとか、住んでいるというイメージでしょうか。なかなか能動的で素敵な考えだと思います。
 自分を超越した存在から言葉をいただく、あるいは自分の中にある言葉を出してやる。いずれの場合にも、何らかのきっかけが必要だということでしょう。
・言葉を呼ぶサインや笛が必要になる。
・言葉を呼び出す/呼び込む、きっかけやスイッチが要る。
・言葉は魔法だから。

*描写、物語、小説

 意外に思われるかもしれませんが、『夢十夜』を書いたときの夏目漱石は、このことにきわめて意識的であった節があります。夢日記の形を取りながらも、あの作品が夢の再現では断じてないからです。細部に見られる優れた描写に目を注げば一目瞭然なのです。
 つまり、目で見たことがない事物でも描写できます。たとえば、思いでも、です。その意味で、なぞるという行為は、必ずしも対象を見ているわけではありません。
 むしろ、影(言葉のことです)そのものの世界に入ってのいとなみなのです。影には影の文法があるようです。現実とは異なる文法にしたがって描かれるし書かれるのです。
 絵を描いているとき、もはや対象から離れて、絵を成りたたせている素材と細部、そして絵を描くための道具の「論理」と「文法」にしたがって描かれるのと似ています。
 影は自立しているとも言えます。影には影の論理と文法があるのです。影(言葉のことです)をよく見てください。その現物とされているものとの類似は驚くほど少ないのです。別物と言ってもいいでしょう。というか別物なのです。

*エッセイ、一人称の小説、三人称の小説

注目したいのは、
・古井由吉作のエッセイ「雪の下で」の「私」、
・古井由吉作の小説『雪の下の蟹』の話者である「私」、
・古井由吉作の小説『杳子』の視点的人物である「彼(S)」の視点から記述された杳子、
 この三者が共通して、力を感じ取る存在として描かれていることです。
 その力を感じ取るさまが、エッセイと二編の小説において、よく似た「言葉の身振り」として演じられているのです。というか、私にはそのように感じられます。
     *
 上に並べた「私」、「私」、「彼(S)」、「杳子」――とは言葉であり文字です。これは確かです。人間でないことも確かです。
 とはいうものの、私たちはそれらの言葉と文字を人だと見なすことで、文章を読んでいることもまた確かだと言えるでしょう。
 生きていない物(文字)に生きている人や物の身振りを見る。さらにその身振りに触れて自分も振れる(場合によっては狂れる)。これが読むという行為ではないでしょうか。

*音の名前、文字の名前、捨てられた名前たち

 Aという言語からBという言語へと「うつす」のが翻訳だと単純に考えられがちですけど、翻訳では「うつせないもの」があります。翻訳をしても「伝わらない」ものもあります。
 たとえば、「Lolita」 を「ロリータ」と移しかえただけでも、うつせないものがあります。この場合には、音と文字です。
 ただし、いま述べたのは、あくまでも一般論です。誰が何を翻訳しても「うつらない」が必ず起きるし、「うつらないもの」が必ずあるという意味です。
 他の例を挙げます。
 Franz Kafka、František Kafka、Кафка, Франц、弗朗茨·卡夫卡、فرانس كافكا、フランツ・カフカ、ฟรันทซ์ คัฟคา
 意外に思われるかもしれませんが、音と文字は「うつせないもの」であり、ひょっとすると「うつしてはいけないもの」なのかもしれません。
 多言語に通じ、言語をまたいで創作活動をしていたウラジーミル・ナボコフは、「うつせる」と「うつせない」にきわめて敏感であったと私は考えています。
 ナボコフは、小説『ロリータ』の作者だけではありません。断じて、そうではありません。それよりも、誰かが貼ったレッテルで小説を読むのはやめませんか?

*直線上で迷っているネズミがいた。

 直線上で迷っているネズミがいた。ネズミは自分が前に進んでいると思っていた。深くは考えなかった。

*ネズミは長方形の乗り物に乗っていた。

 直線上で迷っているネズミがいた。ネズミは長方形の乗り物に乗っていた。ネズミには自分が直線上を進んでいるという、ぼんやりとした思いがあった。

*正方形と長方形で悩む夜

 そもそも角(かど・かく)があるものは人がつくったから、そうなっている気がするのですが、角があるほうが測りやすく細工がしやすいのではないでしょうか。
 家屋や建物一般が直線と四角で成りたっているのも、測りやすかったり、作業がしやすかったり、運びやすいからであり。建設とか建造とはそうした行為の繰りかえしであり組み合わせなのかもしれない。そんなふうに想像します。
 もしそうであれば、うまくできているのですね。素人がひとりで勝手に納得。
     *
 なんと言っても部屋は、立方体をほどよく直方体にした感じがいちばん落ち着くのではないでしょうか。長細すぎる部屋だと廊下みたいで違和感を覚えるにちがいありません。
 ようするに、床と天井と壁が適度に長方形の部屋のほうがしっくりくるし、居心地がいいのだろうと思います。げんに、いま私がいる居間がそうです。
 この部屋は和室なのですが、引き戸も長方形、サッシの窓も長方形、あと壁のカレンダーも、テレビとそのリモコンも、テーブルも、パソコンの画面も、ティシューの箱も、本も新聞も棚も枠に収めた写真も、ぜんぶ長方形です。
 長方形やその立体である直方体には、人を安心させる、なにかがあるように思えてなりません。

*VRで自分に会いにいったその帰りに

 スマホで自撮りが可能になった気がしたとき、「自分が見えない」という不可能性の沼のなかにいる人間は歓喜したと思われます。「ついにやった!」と。
 水面や鏡に出会って自分の姿が見えないという事実に気づいた人間は、写真に出会って一時的に歓喜したものの、すぐに失望し、つぎに映画や個人フィルムにもがっかりし、現像の要らないポラロイドにも意気消沈し、デジタルカメラと三脚をつかっての撮影にも落胆し、スマホカメラの登場でリベンジを果たそうとして張りきったのはよかったのですが、やがてその空しさにしょげこむ事態となりました。
 ついにリベンジしたかの喜びは一時的かつ一過性のもので終わりました。「やっぱり見えなかった」「こんなはずじゃない」「こんなものか?」「話が違う」
 欲求や欲望は目的や対象を失っても空回りするそうです。

*「写る・映る」ではなく「移る」・その1

 相手の目が閉じていること、(相手の目が開いていたとしても)見ている自分を相手が見ていないこと、相手が物を言える状態ではないこと――この三つがきわめて重要な条件である気が私にはします。
 さきほども言いましたが、川端康成は自分が相手に見られていると感じると萎縮します。自分を見ていない相手をじっと見つめることで筆がさえる書き手なのです。
 たとえば、『雪国』冒頭の汽車の場面では、島村と娘(葉子)が一時は息のかかるほど接近しながら、声はもちろん視線を交わしません(娘は島村をぜんぜん見ない、さらに言うなら娘が島村を見ているところを省略した筆致ではない、という意味です)。
 こうした不自然とも言える「没交渉」を設定しないと、この書き手は見る対象である娘を仔細に描写できないのです。

*「写る・映る」ではなく「移る」・その2

「生きて眠るかのようにうつってもいる。」の「うつっている」は、私には「写っている」というよりも「移っている」に近い意味合いに感じられます。
 生きて眠るかのようにうつってもいる。
 生きて眠るかのように写ってもいる。
 生きて眠るかのように映ってもいる。
 生きて眠るかのように移ってもいる。
 写真の話ですから、現在の標準的な表記では、「写っている」と書いてもいい文です。「映っている」の場合には、目に映っていると取られるかもしれません。
「移っている」と書かれているとすれば、「乗り移っている」とか、「魂が移っている」というニュアンスで受けとめられるかもしれません。
 私は、そうした意味合いの「移っている」を「うつっている」という開かれたひらがなの表記に感じます。ひらがなでは、意味が「開かれている」のです。

*直線上で迷う

 私たちは長方形に囲まれていませんか?
 生まれたばかりの赤ちゃんは、囲いというか長方形の枠の中にいます。そのあともたいていほぼ長方形の枠の中にいつづけます。家、建物、道路、乗り物、PC、スマホ……。人が亡くなると長方形の棺という枠に入ったまま長方形の炉という枠の中でくべられ、骨壺(これを入れる箱は縦に長細くないですか?)とか墓という枠に収められます。
 人は自分(あるいは自分の中にあるもの)に似たものをつくり、しだいにその自分のつくったものに似てくる、似せてくる、とつねに感じているのですが、人は「自分のつくったもの」に「自分もどき」を見て初めて、「自分そのもの」に気づくのではないか、なんて考えてしまいました。
 そのひとつが長方形の枠ではないでしょうか。

*直線上で迷っているペンギンがいた。

 直線上で迷っているペンギンがいた。ペンギンは、タイルを一列に敷きつめた道を歩いていた。

*ガラスをめぐる連想と思い出(言葉は魔法・04)

 ところで、鏡の中にいる自分は自分なのでしょうか? いまだに私は確信が持てないでいます。自分の像であるとは思いますけど。
 自分と自分の「影」を区別するのはとても大切です。とりわけ、「似ている」と「同じ」とが混同されている時代には。
 鏡の中の像が自分だと感じるためには、鏡の存在を忘れなければ、あるいは忘れた振りをしなければなりません。
 文字に似ていませんか? 文字を見るためにではなく、文字を読むためには、文字の存在を忘れなければ、あるいは忘れた振りを装わなければならないのです。
 その意味で鏡と文字はよく似ています。そっくりなのです。
 文字を文字だと思っていては文字は読めないし、鏡を鏡だと思っていては、そこに映っている像を自分だとは思い込めない(信じることができない)のです。
 時計も、そうだという気がします。針の形(アナログ)や数字(デジタル)に見入っていては、時が読めません。

*長いトンネルを抜けると記号の国であった。(連想で読む・02)

 鉄道ー線路、信号ー点滅、映画ーフィルム、小説ー文字・文字列。
 こうしたものは、構成単位が列(train)をなすことで人にとって意味をなし、その機能を果たします。時間という流れ(推移)の中で成立するものだからでしょう。
 信号で言えば、点滅、つまり点いているか滅しているかで意味をなします。on と off です。その点滅は時間の差(ずれ)であると同時に、人にとっては線状の列として認識されます。
 時間の推移(流れ)を空間的なもの(線形)に変換しているとも言えるでしょう。
 映画も小説も時間の芸術だと言われるのは、時間をかけて見るもの(読むもの)であるからだろうと理解できます。だから、映画と小説には(おそらく音楽にも)始まりと途中と終わりがあるのです。
 フィルムのコマが列をなし、文字が列をなす。このように、直線上に最小単位が並ぶわけです。それを人が銀幕に映写したり、あるいは紙の上やモニター画面上に並べたものを、時間の推移の中で見たり読むという理屈です。

*木の下に日が沈み、長い夜がはじまる

 樹の下に陽が沈み、長い夜がはじまる。机に向かい鉛筆を握る。目の前には白い紙だけがある。深い谷を想い、底にかかる圧力を軀に感じ取り、さとい耳を澄ませながら白を黒で埋めていく。
 目を瞑ると、そうやって夜明けを待つ人の背中が見えます。
 本日、二月十八日は古井由吉(1937-2020)の命日です。
 合掌。

*人が映画の夢を見るように、映画が人の夢を見る

 人は夢を真似て映画の撮影術を発達させ、より精緻で洗練されたものにしてきた。それと並行する形で、映画を真似て夢を見るようにもなってきた。そんな気がします。人は意識的にあるいは無意識に自分に似たものをつくり、そのうちに自分のつくったものに似てくるのではないかとよく思うのですが、映画もそうかもしれません。
 夢を真似て映画をつくる。映画を真似て夢を見るようになる。こう書くと、何だかありそうに思えてきます。現実を真似てお芝居をつくる。お芝居を真似て、日常生活で演技をするようになる。現実を真似て歌う。歌を真似た声や叫びを日常的にするようになる。

*ペンギンは右の翼に板をくくり付けていた。

 直線上で迷っているペンギンがいた。白地に黒の模様のあるタイルを一列に並べた道を歩いていた。
 うつむいて歩くペンギンは右のフリッパーに板をくくり付けていた。その格好が板に付いていた。

*有名は有数、無名は無数

 有名は有数、無名は無数。
 有数の有名、つまり、たくさんあるわけではない有名な名前の力はきわめて強大です。
 無数にある無名、つまり星の数ほどある無名の名前が束になって掛かってもかなわないのです。

*有名は無数、無名は有数

 複数されるという事実に注目すると、有名とは無数または星の数、無名とは有数(つまり少数)、またはたった一つの実物であるということになります。
 有名は無数、無名は有数。有名は多数、無名は少数。有名はメジャー(major)、無名はマイナー(minor)。

*病室の蛍

 夜の病室で親に付き添いながら眠っているときに、ふと目を覚まして見た神秘的とも言える光景を、いまもよく思い浮かべます。
 患者の生命を維持するために置かれた機器のことです。その器械に付いているいくつもの小さなランプの点滅――。それが青だったか、黄色だったか、緑だったかまでは覚えていません。ただ蛍に似ていると思ったことは覚えています。
 病室で蛍に囲まれているという、あのときに見た荒唐無稽な幻想(寝ぼけていたにちがいありません)が、どうやら私の心象風景になっているようなのです。その光景の中では決まってそばに母がいます。

*わける、はかる、わかる

 今回の記事は、十部構成です。それぞれの文章は独立したものです。
 どの文章も愛着のあるものですが、とくにお薦めしたいのは「「鏡・時計・文字」という迷路」です。古井由吉作『杳子』の冒頭での二人の出会いの場面について書きました。
 あと、「山川草木」も読書感想文です。川端康成の小説と、カズオ・イシグロの小説の邦訳に共通して出てくる「山」という文字に注目して、「まったく同じもの」について考えた文章です。

*顔

 自分に会ったことがあるかどうか、と尋ねられると返事に困りますよね。哲学的な問いにもおふざけや冗談にも感じられますが、言葉の綾だとかレトリックだと言って一笑に付すこともできます。たしかに意味ありげな問いを真に受けると馬鹿を見ます。
 自分を見たことがあるがあるかと尋ねられれば、「ありますよ。毎日鏡で見ています」という答える人が多そうです。
 自分を直接肉眼で見たことがあるかと聞かれると、ちょっと困りますよね。私なんか、もじもじしながら「いいえ」と答えそうです。鏡や写真以外で、自分を直接目にした記憶がないからです。
 私にとって、自分とはまだ見ぬ人だと言えそうです。

*鏡、時計、文字

 鏡と時計と文字を目の前にする行為は「いま、ここ」と出会う体験です。
 ただし、「いま、ここ」を「まともに目にする」のは人にとって過酷な体験であるため、人は目を開いたまま「思いに沈む」ことでその体験を回避する。そんなふうに考えています。
 人は「何か」と「出会う」ことを避け、迂回し、振れつづけ、迷路で迷うことを選ぶのです。
 鏡を前にしての見えない自分の「顔」とのあやうく不穏な出会い、時計という「顔」との刻々と更新されるしかない不可解な出会い、「いま、ここ」には会えず「かなた」をのぞむしかない文字という「顔」とのいかがわしい出会いは、いずれも避けるほうが人として賢明な選択だからかもしれません。

*話しかける、話しかけられる(かける、かかる・01)

 掛詞、歌、唄、謡、詩、詞、譬えといったものでは「かける」の働きが大きいのだろうと想像します。かけ離れたもの同士をかけてつなぐのです。かけてどうなるかは分からない。その意味では「かけ」です。
 かけたところで、それが相手につうじるかも分からない。その意味でも「かけ」です。かけてかかるかはかけ。宙ぶらりん。宙吊り。
     *
 思いつくままに言葉をならべたり、辞書を見ながら言葉をひろって言葉をつらねていくとき、これは「かける」というよりも「かかる」ではないかと感じることがあります。
 人が言葉をつかっているのではなく、言葉が勝手に出てきて勝手にならんでいくような印象を覚えるのです。
 かけるというよりもかかる。
 言葉の夢、夢の言葉。夢のような言葉、言葉のような夢。人が言葉の夢を見るように、言葉が人の夢を見る。
 人は言の場。言の葉が集い、そこで舞いまどう場なのです。 

*「ない」文字の時代(かける、かかる・02)

 今は「書く」が「映す」と「写す」の時代になっています。
 おもに紙の上に筆やペンで「書いていた」文字が、キーボードを指で「叩く」、あるいは画面上の模様に指で「触れる」ことで同じ画面に「映る」ものとして存在し、さらにそれが瞬時に「写る」、それと同時に「拡散」され「保存」されるのが当たり前になっているのです。
 しかも、たちまち増えるのです。複製という意味です。でも、その増えた文字は「ない」のです。影だから増えても「ない」のです。
 文書をふくむ情報の量(単位)をあらわすカタカナ語が、形だけのものに見え、むなしく響きます。
 それだけではありません。
 この数年間に自分の「書いた」文章が一行も、いや一字も印刷された「物」になっておらず、デジタル化された「情報」としてネット上のどこかに「存在」しているらしいことに気づき、がく然とするのです。
 二十年前には予想していなかった事態です。

*「かける」と「かける」(かける、かかる・03)

 古井由吉の作品では、小説の冒頭やその近くに失調があって作品が書かれていきます。この「失調」は、たとえば『杳子』でも何度かもちいられている言葉なのですが、古井は「失調」に意識的な書き手だと推測できます。
 失調とは、たとえば次のような形を取ります。
 発熱、うなされる、身体の不調、疲弊・疲労・消耗、渇き・脱水、入院・闘病、時間や方向感覚が失われる・迷う、誰かが亡くなる・葬式・法事、入眠・寝入り際・寝覚め・意識の混濁や喪失、旅。
 こうした「欠ける」「失う」「無くなる」「足りない」「少ない」「ない」という出来事や事件があり、それが切っ掛けになって、狂いが生じます。
 古井由吉の小説では、その狂い(失調)を引きずりながら、作品が進行し展開していくのです。

*蝶のように鳥のように

 空を駆ける馬(車)。空に架かる橋。
 虹。天空を貫く大蛇(「漢字源」(学研)より)。arc-en-ciel。 空にかかるアーチ。rainbow。雨あがりの弓。
 虹と arc-en-ciel と rainbow は「似ていない」。
 虹と虻と蛇は「似ている」。
 虹と arc-en-ciel と rainbow は「同じ」。
 似ていないものどうしを同一視する、つまり混同する仕組みであり装置、それが文字。
 目の前にある文字を文字として見ないことから、すべての学問は始まる。
 目の前にある文字を文字(letter)として見ることから、おそらく文学と文芸(letters)が始まる。

*雨、濡れる、待つ

 人が濡れるということをもっとも感じされてくれるものは目ではないでしょうか。
 目を見ると濡れています。間近で見るとよく分かります。瞳も濡れていると、そこに自分がいるのがよく見えます。
 濡れて、そこに映るのです。そして、そこに写り、移る。
 ここからそこに、こちらから向こうに、容易には移れません。困難な「移る」の代わりに、容易な「映る」と「写る」があるのでしょう。
 おそらく、「映る」と「写る」は「移る」の代償行動なのです。カメラやスマホを思い浮かべるとよく分かります。
 川端康成は「うつる」の多義性に敏感な作家だったと思います。「写る」と「映る」の世界にいながら「移る」をつよく求めていたのではないでしょうか。狂おしいくらいにです。

*描写・反描写

 私はレトリックだらけのエッセイの他に小説を書くことがあります。
 小説ではレトリックは極力避けるのですが、小説っぽさ、文学っぽさというやっている感に満ちた自分の文章に嫌気がさすことがあります。 
 小説の小説、文学の文学になっているのです。先行する作品の「かたち」だけを真似ていると言えば分かりやすいかもしれません。「かたち」はあるが空洞という感じ。
 こういうことは素人の小説を読みなれた編集者なら見抜きます。これまでの乏しい経験から言っているだけですが、編集者の中には恐ろしい目をした人がいます。

*多層的で多元的なもの同士が、ある一点で一瞬だけつながる世界

 こじつけや掛け詞や駄洒落や比喩は、言葉と世界をレトリックつまり綾でつなぐという点では同じ仕組みだと思います。
 言葉どうしをからませることで、言葉と言葉が指すものをからめ、言葉と世界をからめ、ひいては世界と世界をからめる。
 これが可能なのは、言葉も世界も多層的で多元的であるからでしょう。だから、言葉の音、形、意味、イメージの類似という一点だけ(複数の点の場合もあります)で、懸け離れたもの同士を一瞬つなげることができます。
 多層的で多元的なもの同士が、ある一点で一瞬だけつながる世界――はかない美しさを私は感じます。まぼろしなのかもしれません。きっとそうです。
 つながってなどいません。そう見えるだけ思えるだけ(ヒトにはそう見えるだけで確認や検証ができているわけではないという意味です)です。

*隙間だらけの器

 逆説的な言い方になりますが、文字や映像に奥行きや深みを見るためには、板の厚みを忘れる必要があります。
 板に深さと奥行きを求める人にとって、板は厚みを欠いた平面でなければならず、その厚みを忘れる必要があるのです。板とは、こういうややこしい仕組みであり仕掛けだと言えます。
 平面上でしか、立体という錯覚とまぼろし(抽象のことです)――まぼろしと抽象は「映す・写す・映る・写る」と親和性があります――を効率よく効果的に見ることができないからです。この平面を抽象空間と名付けたくなります。

*薄っぺらいもの・01

 紙はぺらぺらしていますが、そこに文字がのっかると、とたんに厚くなります。重くもなります。
 文字がのっかっている紙を厚いとか重いと感じるのは、おそらくヒトだけですが、これはインクの厚みや重みのせいだけはないと考えられます。
 なにしろ、文字ののっかっている紙を人が飽きもせずに眺め、大切に保存し、写しを取り、あちこちに配っているのですから、薄っぺらいだけではないことは確かでしょう。
 厚いどころか、きっとぶ厚いのです。人にとっては。
 重厚と言ってもいいでしょう。薄くてぺらぺらしたものをただ眺めたり大事にするほど、人は暇ではないと思われます。とりわけ現代人は。

*ぺらぺら(薄っぺらいもの・02)

 軽薄短小という言い方がありますが、軽くて薄くて短くて小さいものは、効率よく「伝える」ことができるのではないでしょうか。
 だから、身の回りには、人の作った薄っぺらいもの、ぺらぺらしたものがいっぱいあるし、世界は薄っぺっらいものに満ちているのでしょう。
 空間的にも時間的にも、そして時空を超えて「伝えたい」=「(相手と)つながりたい」――ヒトのこの欲求や欲望のあらわれが「ぺらぺら」という形態であり、その欲望や欲求の具現化された「器官=象徴」が舌だという気がします。舌は性器に匹敵する重要な「器官=象徴」ではないでしょうか。
 ほら、鰭(ひれ)も羽・翅(はね)もぺらぺらじゃないですか。ひれもはねもないヒトにはぺらぺらした舌があります。

*LRT―舌の位置をめぐる話(薄っぺらいもの・03)

 アート・ガーファンクルの歌い方を見ていると、つくづく口は楽器だと思います。
 上下の唇、舌、口蓋、歯に注目し観察しながら、ぜひ動画を見てみてください。いちばんいいのは、口の動きを真似ながら歌うことです。自分が口になったような気分が味わえますよ。
 映る、写る、移る、です。つまり、画面に映っている表情や動きが、自分の中で転写されて、「何か」が移ってくる(伝わってくる)のです。表情と動きは、話し言葉(音声)や書き言葉(文字)と同じく言葉だと言えます。
 唇、舌、口蓋、歯の動きや位置を意識して真似るのです。何だかエロいことをしているような感覚になればしめたものです。そうなのです。口は楽器だけでなく性器でもあるのです。

*薄っぺらいものが目立つ場所(薄っぺらいもの・04)

 知識や情報は抽象ですから、物に写したり映すという形で載せることができます。「写す」と「映す」という言葉から分かるように何にもまして視覚的な情報なのです。
 視覚的な情報を口頭で伝える、つまり聴覚的な情報(音声・話し言葉)に変える(変換する)ことも、もちろん可能です。
 いずれにせよ、情報はさまざまな軽薄短小な形態の物(物体・物質)に変えて効率よく伝える(拡散・継承する)ことによって、その目的を果たしていると言えるでしょう。

*立体、平面、空白(薄っぺらいもの・05)

 蓮實重彥は、言葉の音の一致や類似に注目したいわゆる掛詞を避けますが、言葉の身振りに目を注いで「掛ける」書き手だと言えそうな気がします。
 ミシェル・フーコーもジル・ドゥルーズも広義の掛詞をあまり用いない書き手だったという印象を私は持っていますが、『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』において「デリダ論」に費やされたページが突出して多く、「フーコー論」と「ドゥルーズ論」を合わせたほどになるのはとても興味深く思えます。
 音の類似や一致による掛詞をレトリックとして多用した感のあるジャック・デリダの著した『グラマトロジーについて』をめぐっての「Ⅲ叙事詩の夢と欲望」に感じられる、もどかしげな(あるいはいらだたしげな)蓮實の筆致(あくまでも私の印象ですけど)について、いつか書いてみたい気がします。

*共鳴、共振、呼応(薄っぺらいもの・06)

 梶井基次郎の『愛撫』では、ラストの目蓋(身体の表面・平面)から眼球(身体の内部・立体)へという官能的なまでの展開が象徴的です。意表を突く鮮烈な展開で鳥肌が立ちます。
 この描写を頭の中で視覚化してみてください。書きようによっては猟奇的で下品に(場合によっては滑稽にも)なりそうなのですが、ぜんぜんそうではありません。
 映像ではなく、言葉だから文字だからこそ可能な技なのです。こうした技を使える書き手は限られていると思います。
 眼球が肉球によって「愛撫」(パフ)されるーーぞくっとするイメージではないでしょうか?

*書物の夢 夢の書物

 ジャズのアドリブのように、ぽんぽん言葉を投げていく。骰子を振って遊ぶ。ジャズのように言葉をつづりたい。文章をつづりたい。言葉は踊る。

 文章と書物は、踊る文字たちを収めた箱。
 書物は生き物。
 
 書物は夢を見る。
 書物は書物の夢を見る。
 
 言葉は夢の書物。
 言葉は書物の見る夢。

*出す、出さない、ほのめかす(『檸檬』を読む・01)

「檸檬=黄色」――あくまでも「檸檬という文字・言葉」と「黄色という文字・言葉」の組み合わせという意味であってそれぞれが指ししめすもの同士の組み合わせではありません――という紋切型を作者は拒否しているのではないか、と考えたくなるほど、檸檬を指しての「黄色」という言葉が出ないのですが、ラストの「私」の「想像」の中で、とつぜん色が登場します。
「丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛て来た奇怪な悪漢が私で」というフレーズに出てくるその色の中に「黄」がちらりと見えて、私はあ然としないではいられません。その手があったのか、と。
 決まり文句と紋切型のイメージに染まった私の頭も「粉葉みじん」に砕けてしまうかのようです。
「神」という言葉を使わないで、神を書いてみないか? 家族を登場させないで、家族を描いてみないか? ――こんなことを言った人を思いだします。「白」という言葉を使わないで雪の話を書いてみたくなりました。 

*タブロー、テーブル、タブラ(『檸檬』を読む・02)

 読み手は自分が読んでいるものが文字(言葉)であることを、つい忘れてしまいます。
 これは、書き手が書きつつあるとき、自分が相手にしているものが文字(言葉)であると常に意識しなければならないのと対照的です。
 ただし、誰もが読み手になり書き手になれることを忘れてはなりません。
 小説とは、あくまでも文字(言葉)を組み立てて作る作品なのです。それ以上でもそれ以下でもありません。
 目の前にある文字を文字として見ないことから、すべての学問は始まる。
 目の前にある文字を文字(letter)として見ることから、おそらく文学と文芸(letters)が始まる。

*細部を読む(『檸檬』を読む・03)

 伏線とは、読者にサービスしながら興味や関心を宙吊りにする形で維持する、つまりサスペンスを盛りあげる技巧ですから、少なくとも小出しにしながら色をそえることで、読者がいだくであろう檸檬への関心をつなぎとめているとは言えるでしょう。
 ミステリーとは異なり文学作品の場合には、伏線は明確なものではなく曖昧な形で読者を宙吊りにします。きちんと回収される伏線よりも、曖昧に放置される宙吊りのほうがずっと快いかもしれません。
 推理小説に不可欠な伏線とその回収は、文学作品にはないと思います。文学作品にある伏線とその回収があるとすれば、それには正解はありません。個人的なものだからです。
 作品に謎や秘密や不思議があるとしても、それは各人が個別に抱えるものでしょう。

*「読む」と「書く」のアンバランス(薄っぺらいもの・07)

 最近、人の世界を支配しているのは文字だという気がしてなりません。
(おそらく映像もそうです。文字と映像の共通点は薄っぺらいことです。実体がないのではなく、ただぺらぺらなのです。人の作るものは人に似ている。人は自分の作るものにますます似ていく。)
 確かにヒトは増えていますが、それよりも文書の数がヒトとは比べものにならないほど増加しているもようです。なにしろ、入力と投稿と複製と拡散と保存が同時にしかも一瞬に起きている時代なのです。
 いまや、文字が文字を育てて、文字を増やすようになってもいます。ヒトはもう要らない。自分で増えていく。文字は殖えているのです。きっと主導権は文字にあります。人は文字を書いているのではなく、文字に書かされているのです。
 人は未だに自分と文字との関係を総括もしていないし清算もしていない。たぶん文字を目にしていても見ていないし見えていないのです。それが「ぺらぺらしたもの」のいちばん恐ろしいところだと思います。
(人は内なる意識だけがぺらぺらですが、人の外にある文字の場合には、内も外もなく(ぺらぺらはその定義からして内も外も深さも奥行きも前も後もありません)、文字そのものがぺらぺらなのです。)

*錯覚を起こして楽しむ(錯覚について・01)

 自ら錯覚を起こす(『檸檬』)、あるいは、鏡と化した窓による錯覚だと分かっている現象を意識したうえで(『雪国』)、その錯覚を楽しむというのは、幻想や幻覚と呼ばれるものよりもずっと軽度であり健全だとさえ思えてきます。
 以上は、文学作品の例ですが、現実をそのままにして(幻想や幻覚ではないという意味です)、その現実に自分なりに意味なり風景を重ねるという形で「二重写し」の錯覚を起こし、その錯覚を楽しむのであれば、ひとさまに迷惑も掛からないし、自らを深刻な事態に追いこむこともないはずです。
 意外とこういうマイルドな形で、ある種の現実逃避をしている人は多いのではないでしょうか。

*錯覚を生きる(錯覚について・02)

 小説とは見るものなのです。文字および文字列の形と姿と有り様を見ながら、読むものに他なりません。小説とは時間の芸術であるとよく言われますが、それに加えて視覚芸術だと私は受けてとめています。
 蝶という文字は蝶というものに似ていますか? それなのに蝶なのです。
 これは錯覚ではないでしょうか? 
 言葉による錯覚、文字による錯覚です。いや、言葉でしか、文字でしかできない錯覚だと言いたくなります。
 文字を読んで楽しむというこの甘美な錯覚を学習の成果であるとか、文字を体系化された錯覚製造装置である――確かにその通りなのですけど――という身も蓋もない話で片づけたくありません。

*「めずらしい人」(錯覚について・03)

 ドラマやお芝居や映画というのは、集団で人違いをすることで成り立っている芸術ではないでしょうか。
 突飛な考えですが、歴史物だと分かりやすいかもしれません。たとえば、源義経はこれまでにさまざまな場でさまざまな演出と俳優によって演じられてきたはずです。同一人物を、です。
 別に歴史上の人物でなくてもかまいません。演じる「別人」をみんなでもって、ある人物だと思いこむのが劇です。「演じる」とは別の誰かになりきる行為であり、お芝居を観るとはそのなりきりを集団で共有することなのです(現実=世界という「お芝居」もそうだとは言いませんが)。

*相手の言葉に染まる(錯覚について・04)

 たとえば、誰かが自分についてある言葉をつぶやいたとします。「あなたは○○な人ですね」と。
 それが切っ掛けになって、化ける人がいます。私もこれまでに見聞きしてきました。「あなたは○○な人ですね」とはあくまでも言った人の主観的な評価であり、思い込みなのにもかかわらず、です。
「あなたは○○な人ですね」という形での客観的な評価というのはあり得ないと思います。でも、その「あなたは○○な人ですね」という言葉と、その言葉が喚起するストーリーが自分にとって魅力的なものであれば、その言葉とその物語に寄り添ってもいいのではないでしょうか?
 相手の言葉と話に染まるのです。
 それで自分の進むべき方向が見えた気がして、それに向けて頑張ってみる切っ掛けになるとすれば、それは好機であり、その言葉は自分への贈り物ではないでしょうか? そうやって「化ける」のです。やってみる価値はある気がします。
 さらに言うなら、別に「あなたは○○な人ですね」でなくてもいいのです。映画、小説、物語、テレビドラマ、音楽、ひいては「現実世界というドラマ」――世界には自分像を作り上げるさいのモデルには事欠きません。
 とはいえ、自分の出てくる話を直接相手から聞くことほどのインパクトはないかもしれません。他でもない自分の登場する、いわば「生身の話」はそれくらい貴重なのです。
 なにしろ、世界にたった一つの自分についての言葉であり物語です。オーダーメードの服のようなものであり、大量生産された既製服ではありません。

*みんなでいっしょに見る(錯覚について・05)

「ごっこ」、「真似る」、「演じる」、「代わり」、「装う」、「振りをする」、「仮面を被る」、「役になりきる」が、生身の人間たちによるパフォーマンスから、描かれた物たち、映った物たち、写された物たちによるパフォーマンスへと徐々に移り変ってきて、現在はその頂点に達したかのような気がしてなりません。
 主役は代理である物(影)たちなのです。薄っぺらい面や板の上で物たちが振りを演じる影(文字・像)のパフォーマンス(影絵)を人がひたすら観るのが現在の「ごっこ」だと言えます。
 その影絵は蜃気楼のようであっても蜃気楼ではありません。ヒトが影に蜃気楼――おそらくこの蜃気楼はヒトの中にあります――を演じさせている絵だと言うべきでしょう。
 そうした影たちが蜃気楼という役を演じる場が薄っぺらい面や平たい板であるのは興味深い事実です。面ですから、たいてい表と裏があります。つまり、面は人に似ているのです。本物の蜃気楼に裏と表があるでしょうか?

*交尾の出てこない『交尾』

 鳥肌が立つくらいにどきりとする箇所です。「私」の目の前で雌の頸に雄が齧りついているというすっぽんの様子が、人間の食事に重ねられているからです。
 いわば小動物の性事とヒトの食事とが二重写しにされている感があります。言い換えると、同じ種同士のいとなみに、異種であるヒトとすっぽんの「食う・食われる」を重ねているのです。
 ヒトと動物の接触や交流を描くさいに、こうした異化的な手法を用いるのが梶井基次郎はとてもうまいと思います。『愛撫』における「猫の手の化粧道具」と、同じく『愛撫』のラストで人間の眼球が猫の肉球によって「愛撫」される描写が好例です。

*見えないものを描く、見えないものが描く

 作品とは誰にとっても「見えないもの」なのです。それは作品が誰に対しても開かれたものとしてあるからにほかなりません。
(誰にでも見えるものだからこそ、誰にも見えないもの、それが作品です。さらに言うなら、誰にも見えないもの(作品)を描いているのは人ではなく言葉であり文字だと思います。つまり、見えないものが描いている、見えないものが書いている――。)
 作品とは、たとえばこの「その一」の冒頭に出てくる「蝙蝠」のように、その姿は見えなくて、その姿ではない別のものによって、一人ひとりが感じ取り、思い描くものなのかもしれません。

*音読・黙読・速読(その1)

 文字には、頭に働きかけるだけではない要素や側面があるのではないでしょうか? 
 ひらがな(音 ⇒ 音楽・旋律・流れ・音色) 
 漢字(形 ⇒ 文字の顔や表情・文字の肌触りや匂い) 
 文字(音・形 ⇒ 聴覚や視覚だけはなく、他の知覚に訴える作用)
 たとえば、文字には、意味だけでなく、また音だけというよりも、音楽や旋律(音の流れ)や楽器の音色に似たものを感じさせる面があると私は思います。
 いま述べたのは、速読とは真逆の話です。

*音読・黙読・速読(その2)

「作家」と呼ばれる個人、つまり一人の書き手が文章をいじくりまわして作る小説という形式は、比較的新しい(novelな)ジャンルだと言われています。
 小説は書き手が書き言葉をいわば「物のように」彫琢することが可能なジャンルなのです。たとえば、ギュスターヴ・フローベールのように、です。
 複数の人によって口承という形で語り継がれてきたり、何種類もある写本で伝わってきた物語とは大きく異なるわけです。
「作品」とは基本的に単一かつ単数のもので、それを複製していくことで複数にそして多数にそして無数になるのですが、そうした観念は、「基本的に一人の作家が書いて完成させる形式のジャンルである小説」――粗雑な言い方で申し訳ありません――と共に誕生したと言えます。

*音読・黙読・速読(その3)

 井上究一郎訳のプルーストの文章が読みにくいのは、枝葉が茂って飾りが多いからにほかなりません。しかも、プルースト小説の文章では飾りがこれでもかというふうに異常に多いのです。
 その飾りを律儀に日本語に訳した井上訳は日本語特有の生理に逆らって作文をしたとも言えるでしょう。
 センテンスが長くて、込み入っていて、読みにくくて、不自然な日本語であって、音読しにくい。でも、私は井上究一郎訳のマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』は素晴らしい文章だと思います。大好きです。

*音読不能文について

 音声化できない要素が用いられている音読不能文とは、特殊なものではぜんぜんなく、印刷物でもネット上でもありふれたものになっています。
 とりわけレイアウトやタイポグラフィ的な多様性となると、ネット上にあふれているのではないしょうか。あと、さまざまな言語の文字と約物を駆使した絵文字による創意も忘れてはなりません。
 noteでも、特に詩歌におけるユーザーさんたちの工夫と創意と情熱の結果としての多様性には目を見張るものがあり、私はその豊かさを楽しんでいます。こうした傾向は小説でも同じで、そのレイアウトと表記は印刷物とは比べものにならないほど多様です。

*立体人間と平面人間

 とりわけ平面である自分を感じるのは、読書の最中です。なにしろ、目の前には平面上に写ったり(印刷物)映っている(液晶画面)文字しかありません。
 その文字や文字列を眺めながら、「いまここにあるもの」から「いまここにないもの」を思い浮かべたり、思い描いたり、思い出すことで、奥行きや高さや距離や動きのある像や風景をこしらえる――これが読むといういとなみだと言えるでしょう。
(大切なことは、奥行きや高さや距離や動きのある像や風景の「奥行きや高さや距離や動き」は、あくまでも思いの中で(思いとして)「こしらえたもの」であるという点です。立体の振りをした「何か」です。写真や絵や動画みたいなもの。立体に見えたとしても立体ではありません。)
 熱中している時にはそうでもないのですが、ふと我に返った瞬間に、自分は平面の世界にいる、あるいは自分は平面の世界に入り込んでいる、平面から立体を思い描いている、という不思議な気持ちをいだくことがあります。

*人間椅子、「人間椅子」、『人間椅子』

 捏造された空白である表題が埋まることによって、人間がいるはずだった椅子の内部が空になる。同時に人間椅子という「現実」が「人間椅子」という文字=小説に転じる。letter(手紙・文字)が letters(作品)になる。
 私たち読者の目の前にある、江戸川乱歩の『人間椅子』はこうした仕掛けになっています。

*表、目、面

 文字や絵や図のかかれている紙面や画面という表面を前にして、かかれているものを上下と左右に目で追うことは容易にできます。錯覚を利用することで平面上に捏造された高さや奥行きや深さに視線を注ぐことも簡単にできます。
 ところが、裏側を見るためには、視線の動きは有効ではありません。対象を裏返すか、裏に回るという形で自分が物理的に動かなければ、対象の裏側を見ることはできないのです。
 蓮實重彥の『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』は、いま述べたことに十分意識的であり、その前提に立って、紙面を束ねて綴じた立体物である書物について論じている書物です。反復した言い方になりますが、『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』は「立体としての書物」をめぐっての「立体としての書物」だと私は思います。

*とりあえず仮面を裏返してみる(断片集)

 絵を見ることで絵のように現実を見るようになる。写真を見ることで写真のように現実を見るようになる。映画やテレビや液晶画面上の映像を見ることで、映画やテレビや液晶画面上の映像のように現実を見るようになると言えば分かりやすいかもしれません。
 俯瞰が好例でしょう。立体の世界の住人である人間は、平面上で捏造されている俯瞰ができません。そもそも平面と立体は別の物です。
 人は平面上に捏造された俯瞰を目にし、それを見たときの多幸感や全能感を立体である現実でも味わいたいために、現実でも自分が世界を俯瞰できるような錯覚に容易におちいります。
 人の捏造した俯瞰があちこちに見られる環境がさらにその錯覚を助長し、人は捏造された俯瞰と自分の視界との区別ができなくなっているのです。
 平面上で捏造された左右、上下、奥行き・深さ、中心、周縁、枠、余白・空白――についても事態は同じだろうと私は思います。そもそも平面と立体は別の物だからにほかなりません。

*あやしい動きをするもの

 眠れぬ夜によく考えることがあります。定番は、地動説を体感できるかとか、脳が脳を思考するとはどういうことか、です。最近では、具象と抽象とか、具象と抽象を行ったり来たりとか、です。頭がさえて眠れなくなることもあります。
 先日は、外と中について、考えていました。あっちとこっちと同じく、相対的なものです。向こうから見れば、中が外になります。
 こそあど。こっち、そっち、あっち、どっち。here、there、where。
 こういうのも不思議でよく考えます。言葉の綾と言葉の抽象と言葉の具象の間を行ったり来たりするのです。そのうちに眠くなります。
「そと」と「なか」だけなら、まだいいのですが、「よそ」と「うち」を加えて考えるとまた眠れなくなります。
 上下もそうです。「うえ」と「した」ならいいのですが、「かみ」と「しも」を考えるととたんに目がさえてきます。邪念や雑念や妄念――こういうのは言葉の綾という名の抽象ではないかと睨んでおります、いや踏んでおります――でいっぱいになります。

*読みにくさについて

・猫は猫にぜんぜん似ていないのに猫としてまかり通っている――。
 いまのセンテンスは次のように言い換えられます。
・猫という文字は猫というものにぜんぜん似ていないのに、猫としてまかり通っている――。
・「猫という文字」は「猫というもの」にぜんぜん似ていないのに、猫としてまかり通っている――。
「猫としてまかり通っている」とはみんなでそれを猫の代わりとして使うと決めたという意味にほかなりません。これは、ねこでもネコでもnekoでも、catでも、犬でも同じです。
「猫は猫にぜんぜん似ていないのに猫としてまかり通っている。」という文がもし読みにくいとすれば、それは猫という文字と猫というものを区別する習慣がないからだと考えられます。というか、それが普通であり人情というものです。私も普段は区別して生活していません。

*読みやすさについて

 社会や共同体の上下左右に広がり染みこんでいる分かりやすい通念が、あたりのいい言葉とイメージで、物分かりがいい人を作るのを助長しているというのも分かりやすい話だと思います。
 それだけではなく、あたりのいい言葉とイメージが、物分かりのいい扱いやすい人たちからなる社会をさらに固めて補強し強化していく――「しやすい」と「あたりがいい」には親和性がありそうです。
 言葉とイメージの通じやすさと分かりやすさが優先される社会では、コストパフォーマンスが重要視されているとも言えます。現在はこの傾向に拍車がかかっているようです。
「しやすい」と「あたりがいい」のはびこる社会に欠けているのは「迷う」だと私は思います。物分かりが悪くて迷ってばかりいる人がいても、いいではないですか。

*「ここには何もない」という「しるし」

 いまみなさんがご覧になっている液晶画面上には、「空白・区切り・余白」があるはずです。それは、立体としてある現実界の「空間」(宇宙空間の一部とも言えます)とは異なります。人が作ったものだからです。
 たとえば、絵や写真の「空白」は、文書の「区切り」や「余白」や「空白」に似て、「ここには何もない」という「しるし」なのです。「しるし」は目に見えます。「空白」と呼ばれているし、「空白」というものとして目に見えているのです。
「しるし」ですから、辞書にもその語義が載っています。「区切り」も「余白」も「空白」も辞書に載っているはずです。これは「無意味」が辞書に載っているのと同じです。
「無意味」というのは、「意味がない」という「しるし」の言葉であって、「無意味」という言葉・文字が指し示している「何か」ではないと言えば分かりやすいかもしれません。

*名づける

 名前、名札、レッテル。

 名付けることで名指されたものが空白になる(すり替わる、なりすましが起こる)。
 名前・名札・レッテル・代理 ⇒ 名指されたもの・そのもの・何か

 空っぽになる。ぺらぺらになる。
 からから。薄っぺらいもの。
 空=殻が「何か」の代わりになって、中は「ない」同然に「なる」。
 空=殻が「何か」になりすます。
 人はその空=殻が「から」であることを忘れる。だから、空=殻が「何か」だと思いこむ。空=殻の中に「何か」が入っていると思いこむ人もいる。すりかえに気づかない、から。

*何も言わないでおく

 ヒトは自分に備わった枠に合せて、枠のあるものを作っている。枠のないものをヒトは扱えないのです。たとえば、無限、無意味、無、空間(空白ではなく)は、ヒトにとって絵に描いた餅(つまり絵です)でしかありません。
 ヒトに備わった枠と、それに合せてヒトの作る枠は、時間的なものであると同時に空間的なもの(とりわけ平面的なもの)なのですが、要するに期限(寿命)であり、果て(縁・ふち)であると言えます。
 だから――飛躍と短絡をしますが――、ヒトは名づける、つまり、名前を作るのです。
 名前にも、その言葉と文字としての長さ(始まりがあって終わりがある)のほかに枠があるではありませんか。期限(寿命)とローカリティ(局所性)のことです。
     *
 人は一度に一つの言葉しか口にできない、あるいは一つの語しか書けない――。
 これが人にとって、基本的な「枠」なのかもしれません。だから、短い言葉と文字にこれだけ執着するのです。
 人にとって究極の枠、それは名前でしょう。最期の一息で口にできるのも名前です。普通は……。普通でないのも人生にちがいありません。

*うつす、ずれる

 ヨーロッパでの諸言語では、聖書にある名前をもらうという形の命名があります。
 調べてみると、英:Michael(マイケル)、仏:男性名・Michel(ミシェル)、女性名・Michelle(ミシェル)、独:Michael(ミヒャエル)、西・葡:Miguel(ミゲル)、伊:Michele(ミケーレ)、露:Михаи́л(ミハイル)……という具合です。もっとあるようですが、割愛させていだだきます。
 つまり、「ずれる」のです。音(発音)も文字(綴り)も、です。
 写すと、ずれる。
 筆写、書写、写本、写経、書道、文字の練習、引用、翻訳、コピー機、文字の撮影には、程度の差はあれ、かならず「ずれ」が生じます。この「ずれ」には、誤りやノイズだけでなく、訛りや規則に従った変更や変換があるということです。
「規則に従った」というのは、個々の方言や言語の文法であったり、正書法・正字法(語を綴るさいの規則)であったりしますから、この「ずれ」を誤りやノイズと見なすことは不適切だと思います。
 いずれにせよ、ずれることで豊かになるとは言えそうです。

*まなざし、目差し、眼差し

 私は言葉を転がすのが好きです。眠れない夜とか、昼間にぼーっとしているときにやっています。具体的に言うと、次のように連想にうながされる形で言葉を並べていくのです。
 まなざし、目差し、眼差し、なざし、名指し、名付ける
 よく記事の中でも、言葉を転がしています。あれは、記事を書きはじめたり書きつづけるために、取っ掛かりを探しているのです。見切り発車で記事を書くので、どうしてもそうなります。
 言葉に詰まって、「えーっと、えーっと」と唸っているのと変わりません。お恥ずかしい限りです。

*辺境にいる 辺境である

 二つの言語、外国語と母語、古い母語と今の母語、漢文と日本語、言葉の中にある言葉、言語の中にある言語――。異なる言葉のあいだに生きる。それは異なる言葉の境をこえた「夢の言葉」に身を置くような気がします。
 夢や夢うつつで、なにやら不明な言葉を話したり書いたりすることがあります。年を取ってきたせいか、不思議な夢を見たり、日中に荒唐無稽で不可思議な夢想にふけることがよくありますが、そのさなかに「言葉」が浮かぶのです。
 その「言葉」は、私の場合だと日本語(和語と漢語と方言)であったり英語であったりフランス語であったり、あるいは何語なのか分からなかったりするのですが、そうした「夢の中の言葉」がひょっとして「言葉の夢」ではないかと思う瞬間があります。
 つまり、私が言葉の夢を見ているのではなく、言葉が私の中で夢を見ているのではないか、と。そんなときの私は縁(ふち)にいるのでしょう。きっと辺境にいるのです。そして私自身が縁なのでしょう。
 縁(ふち)は縁(えん)とも読みます。縁(ふち・辺境・端っこ)にいるからこそ、縁(えん・関係・つながり)が生じるのです。ど真ん中にいては縁はうまれないのかもしれません。

◆このnoteについて


 このnoteは、以下のサイトにある一連の記事の続編として書いています。どれも愛着のある文章ですので、よろしければご覧ください。


※ヘッダーの写真は、もときさんからお借りしました。


#note


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