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人が物に付く、物が人に付く

 今回は「付く、附く、着く、就く、即く」(広辞苑より)について書きます。人と物との関係について考えたのです。

 まず、古井由吉のエッセイで「付く」という言葉がつかってある興味深い一節があるので引用します。記事の最後では、川端康成の小説で出会った、警句のような趣の掛詞も紹介します。どちらも、物がキーワードです。

 人が物に付く、物が人に付く。


「椅子の上にも十年」

 机やテーブルは仕事や食事や談話、つまりいとなみに付く﹅﹅のにひきかえ、椅子は人に付く﹅﹅ものであるらしい。たとえば空家に置き去りにされたテーブルからは、かつてそれを囲んだ人たちの声のさざめきが聞こえるかもしれないが、ぽつんとひとつ残されたのが椅子だとすると、これは、いささか鬼気せまるものがあるだろう。
 椅子は、長いことそこに坐りついた人間の姿を浮べさせる。いや、いく分かはこの人間の存在と、肉体と、化している。人が椅子に付く、とさえ言えるかもしれない。
(古井由吉「椅子の上にも十年」(『山に行く心 全エッセイⅢ』作品社)所収・p.143)

 タイトルから察せられるように、古井由吉が職業として作家を選んでから十年が経った年に書かれた文章です。

 前後にもぞくぞくするような記述があるのですが、古井の物――物体という意味の物――に対する感覚が出ていてはっとします。 

 古井の小説を読むときのヒントになりそうな細部もあります。

 古井の小説では「物」が物ではないようなたたずまいや不可思議な表情を見せることがあり、そうした箇所を読むさいに手がかりになるものがないかと、つねに目を光らせているからにほかなりません。

 つまり、小説の手がかりや手引きになるものを探すという邪念を持って、私は古井のエッセイを読んでいるのです。

     *

 このエッセイは、作家という職業を選んだ古井が、仕事部屋である自室で慣れ親しんでいた椅子と机について語ったものです。

 椅子と机(とりわけ椅子)という特定の「物(物体)」に対する古井の思い入れだけでなく、古井が小説でえがく「人と物」のかかわり方についても、さりげなく触れている興味深い文章だと私は感じています。

ともぶれ


 ともにふれる。
 ともぶれ、共振れ、共振、共鳴、シンクロ、同期、同調。

 私が古井由吉の小説が好きな理由の一つが、ともぶれなのです。

 人と人、人と物、人と事・現象、人と世界――とのあいだで、人が相手や対象とともに「ふれる」。

 そのさまが、じつにリアルに描写されます。私はその筆致にふれたくて古井の作品を読むと言っても言い過ぎではありません。

 ふれる、振れる、震れる、触れる、狂れる。ぶれる。ゆれる。

     *

 人と物については、古井の「物に立たれて」という文章に、古井の「ともぶれ」がよく出ていると思います。

 物に立たれそうな、目つきをしたものだ。枯木の幹が何かに見えたのではない。ましてまばらな雪が、物の姿をうかべたわけでもない。(……)
 物に立たれたように、自分が立つ。未明の寝覚めとかぎらず、日常、くりかえされることだ。
(古井由吉「物に立たれて」(『仮往生伝試文』講談社文芸文庫)所収・p.268・丸括弧による省略は引用者による)

 断片として抜きだすと誤解を招きやすい箇所ではありますが、「物に立たれたように、自分が立つ。」に、物と「触れ・振れ・震れ・狂れ」「合う」身振りを、私は感じてしまいます。

「ように自分が立つ」から分かるように、あくまでも人間の側の勝手な身振りであって、超常現象とか神秘体験とは隔たっているというのが、私の理解です。

 人のほうが勝手に物にふれているわけですが、それでいて、それがふれあいだと感じられ、双方向的な身振りとして描写されるのが、古井の文章の特徴と言えます。

六枚の板


「物に立たれて」ではいろいろな物が出てきますが、私が興味を惹かれるのは海外で偶然目にした棺を売る店の描写です。

 注文だけがのこることもあるだろう。しかし百年のかぎり、帳面から抹消しない。それはそれで生き続けていてくれなくでは、長期にわたるあんばいに狂いの出る恐れがある。
(p.268)

 上のように終わるのですが、「早桶と違って」(p.266)、生前に注文を受けて、「手間をかけて造る物だろうから」(p.266)とある店なのです。

 早桶にしろ特注にしろ、棺は棺です。

 天地、左右、頭と足に付く六枚の板からなる箱です。人に先立って造られ、人に先立たれ、人とともに旅立ちます。辞書を引くと分かりますが「先立つ」には四つほどの語義があり、例文を見ながら考えこむことがあります。

 物が人に先立つ、先立たれる、ともに旅立つ――。

『仮往生伝試文』では「物に立たれて」がいちばん好きです。とても読みにくい作品ですがお薦めします。

する、される


 目を向ける・見入る、耳を傾ける、嗅ぐ、ふれる・なでる、味わう・食感を楽しむ――。

 視覚、聴覚、嗅覚、触覚・触感、味覚・食感のうち、視覚、聴覚、嗅覚では対象との間に距離が必要です。

 触覚・触感と味覚・食感では、相手と接触していなければなりません。「する」側にも「される」側にも、「する」と「される」が同時に起きています。つまり、双方向的なのです。

「触れる・撫でる」と「味わう・食感を楽しむ」最中となると、もし相手に意識や意思があれば、されている相手は「されている」と感じているはずです(残酷な話で、申し訳ありません)。

人と物


 上の「する・される」という見出しの文章は、これまでに私が川端康成の作品について書いた文章から引用したものです。⇒ 「「移す」代わりに「映す・写す」」

 なぜ、ここで引用したのかと言いますと、人と物とのあいだの「ふれあい」とか「かかわりあい」とか「つきあい」について考えてみたいからです。

 ふれあい
 かかわりあい
 つきあい

 以上の三つの言葉を二つに分けてみましょう。

 ふれる  あう
 かかわる あう
 つく   あう

 前の動作にも、後ろの動作にも、二つのものが必要です。

「ふれる」で考えてみます。

 AがBにふれる
 BがAにふれる
 AとBがふれる
 AとBがふれあう

 こうなります。双方的な身振りは、視点によってその描写(記述)の印象ががらりと変ります。

     *

 物を主語にして物の視点から描くのを擬人とも言えそうですが、そんなに単純なものではなく、そもそも、ふれあう対象と感じるものを、人は擬人している、人に擬したものしか、人はふれあいの対象としないと、私は考えています。

 人が言葉で描くものすべてが、擬人されたものだという意味です。さらに言うと、人は手なずけるために名づけ、飼いならすために名を与え、その名を呼ぶのです。

 呼びかける(名づける)ことは話しかけることであり、人はその対象を人に擬しているのです。名のないものは恐怖と不安の対象でしかないからです。

     *

 言葉にならない、言語化できない、沈黙しなければならない。

 なんていうもの、そうやって言葉にして(寿限無にくらべれば短いですが名づけているのと同じです)、沈黙という名の多弁とまでは言いませんが(書きましたけど)、「言い知れぬ」恐怖と不安を解消しようという努力のあらわれなのです。

 こうした言葉(長い名前)を口にするときの人はどこかうれしそうに見えるのは私だけでしょうか。たぶんほっとしているか、チョロいものだとひそかに高をくくっているのかもしれません。

 言葉にできないはずのものを言葉で名指しているのですから。

     *

 言葉にできないはずのものを言葉にして口にする、または文字として書く。
 意味を知らない、意味の分からない難しそうな言葉を口にする、または文字として書く。

 そんなときにも、人はどこかうれしそうな顔をします。そこはかとなく得意そうな顔にも見えます。

 ある言葉を知っているとその言葉の指ししめすものを知っているのとは別なのに。言葉と文字が複製だからでしょう。誰もがやすやすと引用できます。いまでは機械という物でさえもすらすらと引用します。

 言葉と文字はみんなのもの。人と物を含めたみんなのもの。たしかに平等です。自由、平等、博愛。

 複製の引用は偉大です。恐ろしいくらいに偉大だと言うべきかもしれません。

     *

 名指す、名付ける。

 名(レッテル)を付けている(貼っている)のですね。ようするに、付けているのです。においを付けるのと似ています。

 マーキングの一種かもしれません。人にヒトを感じる一瞬です。唾を付けるという成句を思いだします。

 しるす、しるし、しる。
 知る、領る。

つく、つかれる


 話をもどします。

 冒頭で紹介した古井由吉のエッセイからの引用で、大切なところをくり返します。

 椅子は、長いことそこに坐りついた人間の姿を浮べさせる。いや、いく分かはこの人間の存在と、肉体と、化している。人が椅子に付く、とさえ言えるかもしれない。
(古井由吉「椅子の上にも十年」(『山に行く心 全エッセイⅢ』作品社)所収・p.143)


「つく」というと、「付く、附く、着く、就く、即く」(広辞苑より)なんていう書き方があって思わず辞書に読みふけってしまいます。

「つく」のイメージとしては、英語の on (接触)と off (分離)の on に似ています。漢語だと、「執着」「愛着」「密着」の「着(く)」という感じ。

 和語とは言え澄ました語感である「つく」は、「くっつく」とか「ひっつく」というふうに崩すと、オノマトペっぽくなり、すっと入っていくる気がします。頭にではなく身体に、です。魂に、でもいいです。

     *

「つく」には「突く、衝く、撞く」(広辞苑より)という系列もあって、こっちは「つっつく」とか「つんつん」という感じでしょうか。

 くっつく(ひっつく・ねちねち)
 つっつく(つんつん)

「く」と「つ」が違うだけでずいぶん異なった印象になります。

 つっつくは瞬間、くっつくは短期から長期。そんな気もします。

 ということは、「つきあい」とはべたべたした付き合いもあれば、ぺたぺた突き合いもあるということでしょうか。私は相手の体温が感じられる「ふれあい」がいいです。

     *

 とにかく「つく」のですが、何が何につくのでしょう?

 物が物に、人が物に、物が人、人が人にでしょう。

 物が物にくっつく。
 人が物にくっつく。
 物が人にくっつく。
 人が人にくっつく。

 それぞれの場合を想像して頭のなかで絵にすると、なかなか興味深い絵になります。

 関係性というものは複雑でぞくぞくします。物や人よりも、ぞくぞくします。

     *

 話をもどします。

 AがBにくっつく。
 AとBがくっつく。

 こうすると「くっつく」が、とどのつまりは双方向的なものだという気がしてきます。ひとつ(ひとり)では、くっつけないわけです。

 相手がいないとくっつけない。

 たしかにそうです。

     *

「くっつく」のは物と人だけではない気がしてきました。事や現象なんて要素を考えると、じつにややこしくなってきて、目まいが起きそうです。

 場所に「つく」もありますね。地縛霊なんて、そうじゃないでしょうか。地(面)に付くのではなく、縛り付けられているとすれば、あわれにも感じます。

 地縛、自縛、字縛、辞縛、なんてあるかも……。お察しのとおり、こんな文章を書いている私のことです。

 話を少し変えます。

板に付いてきた人間


 人がうつむき加減に板に見入る。この格好が板に付いてきたようです。スマホのことです。

 もともと人が手本の文字をまねてまなんでいくときの体勢ですから、読み書きするのに適した姿なのかもしれません。

 読み書きには平面が必要なのです。手っ取り早い面が板でしょう。持ち運びもできそうです。

     *

 うつむくのは、手にした本を読んで世界を知った気分になるときの姿勢でもあります。文庫なら世界が手のひらに載り、つかむこともできます。

 天をあおぐのではなく、うつむく。これで世界と宇宙を知る。というか、知った気分になるのです。

 知る、領る、痴る。酔い痴れる。

     *

 話は少し飛びますが、人と板(ボード)の親和性というか、人と板(ボード)との相性はかなりいいようです。

 板、ボード、盤、版。

 スキーや、スケートボードや、サーフボードや、ボードゲーム(囲碁や将棋やチェスも含むことがあるそうです)を思いだしてください。あと、キーボード、ブラックボード(黒板)、石盤(昔はこれで文字の読み書きを覚えたそうです)、画板も。

 どれも板に付いていませんか? 板と体の一部が、です。人は板にくっつくのが好きなのです。

     *

 いまのあなたも板に足をくっ付けていませんか? 床や畳も板です。

 それから、あまりくっ付く感じではありませんが、画面も板でしょう。

 壁、銀幕、スクリーン、テレビ画面、液晶画面のことです。

 こっちは密着というよりも、執着や愛着ではないでしょうか。なかなか離れられないのです。

プレイ


 板・ボード・画面と、プレイ(play)との親和性も無視できません。

 play という身振りは、見る側や相手がいて成立します。

・play、プレイ、演じる、演奏する、遊戯する、競技する、賭ける。
・play、プレイ、演技・芝居・上演・放映、演奏・旋律、遊戯・戯れ・ゲーム、競技・競争・パフォーマンス、賭け・博打。

 ようするに、振りをしているのです。振りを、流れや筋や進行と言い換えることもできるでしょう。

     *

 振りは見る人や相手がいて、その振りに反応することではじめて振りになります。その反応とは、いっしょに振れる、ともに振れる、ことにほかなりません。

 見ている側(振れている側)の身体が、振れを見て、それに合わせて振れる、揺れる、ぶれるのです。

 その振れるに必要なのが、板であり、ボードであり、画面なのです。よく考えてみてください。

 板とボードと画面という物が媒介であり触媒である、つまりあいだに立ったり介する役目を果たしています。

 こうした物を介して、または物とともに、人は振れるのです。

 上で触れた、ともぶれです。

 じつは、人が勝手に振れているだけですけど。

新しい板との付き合い方


 話を変えます。

 犬は人につき、猫は家につく。そんな犬と猫に対して失礼な決めつけがありますが、人は板に付いているのではないでしょうか?

「板に付く」というより、「板に憑く」かもしれません。

 板が人に付くとか憑くと言うのは、板に対して失礼だと思います。板は物が言えませんから、一方的だという意味です。

     *

 話をもどします。

 いずれにせよ、人がうつむき加減に板に見入る格好が板に付いてきたのは確かなようです。

 人類の歴史では比較的新しい板との付き合い方です。

 そういう私もいま板に付いていますが、この格好が板に付いてきようだと喜んでもいます。

 いっぽうで、不安も感じています。

憑かれていて疲れていない


 川端康成の『名人』を読んでいて、あっと声をあげてしまった箇所があります。

 川端には珍しく掛詞になっているだけでなく、その掛詞があまりにも的を射た掛詞なので、不意を突かれて感動してしまったのです。

「川端先生、すごすぎます」という感じ。まるで警句のようなのです。

『名人』はドキュメンタリーとかノンフィクションというジャンルに入れられているようですが、作者の観察、考察、洞察の鋭さに驚かされます。

 それだけでなく、ひょっとして作者が意識せずにぽろりと漏らしてしまったのではないかと感じられる細部が随所にあって、とてもスリリングな読み物だと私は思います。淡々とした筆致で綴られた文章も好きです。

『雪国』や『伊豆の踊子』や『眠れる美女』の川端とは違う川端に会えるのではないでしょうか。

     *

 話をもどしますが、さきほど述べた掛詞がどうすごいのかをお話しします。なお、私は内容を説明するのが苦手なので、以下の引用箇所の文脈的な意味については、原文をお読み願います。

 碁の天分は十歳ごろに現われ、そのころから勉強しないと、ものにならないと言われているにしても、私には大竹七段の話が異様に聞こえた。碁にかれて、まだ碁に疲れていない、三十歳の若さであろうか。家庭も幸福なのにちがいないと思えた。
(川端康成『名人』新潮文庫・p.15・太文字は引用者による)

 囲碁をボードゲームに含める考え方があるそうですが、それに沿えば、「碁盤に憑かれて、まだ碁盤に疲れていない」とも読めます。

 一般化するなら、愛着や執着している対象に取り憑かれていて、飽きしないしまだまだ疲れてもいない、という感じでしょうか。

     *

 次のようにも言えるでしょう。

 板に憑かれていて、板に疲れていない
 ボードに憑かれていて、ボードに疲れていない
 画面に憑かれていて、画面に疲れていない

 スマホでも、パソコンでも、ゲームでも、音楽でも、お芝居(劇場の舞台を「板」と言うそうです)でも、スポーツでもかまいません。広義の板やボードや画面に当てはめてみてください。

 人は

憑かれていて、疲れていない

ようです。

 まだまだ憑かれている(熱中)が続くだろう、プレイは継続するだろうという意味です。

 私はこの薄っぺらい板に少々疲れてきましたが。

薄いのに厚い


 粘土板、竹簡、パピルス。かつて、こうした薄い板に人は見入っていたそうです。

 薄いものには利点があります。切り分けたり巻いたりできるのです。

 巻物、綴じた書物・本、帳面・ノート。小さなものから大きなものまであります。

 衝立(ついたて)・スクリーン、屏風、銀幕、ブラウン管、液晶画面、スマホ。

 どんどん進化し洗練されてきました。

     *

 薄いのに見入るわけですから、人にとっては厚いにちがいありません。

 見つめながら、かっかしたりぽかぽかする場合もありますから、熱いし暑いし、さらには篤いとも言えそうです。

 薄いは厚いだけでなく深いでもあるようです。さもなければ、あんな薄いものをあんなに飽きずに見つめません。

 遠近法という魔法錯覚もありますが、薄いには奥行きがあり奥深いのです。

     *

 薄いけど厚い。

 この錯覚ギャグは猫にはぜんぜん通じないようです。板に見入っていると、とつぜん板を攻撃してくることがあります。

 こっちも巻き添えを食います。イタっ! 

 イタに見入っているヒトに対する猫の行動は、このホシに棲む生きものとしては、ごく自然でまっとうな反応だと賛同せずにはいられません。

 本能によって注意したり警告してくれているのかもしれません。板にうつつを抜かすなにゃん、そのうち痛い目に遭うぞ、うちらみんなが……。

 この星でいっしょに生きている仲間を、巻き添えや道連れにしてはならないという意味です。いろいろな意味で。


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