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異物の異物性(異物について・02)

 今回は、異物(文字)の異物性についてお話しします。


異物を入れる


 入れるのに苦労します。小さいころから多大な時間と労力を費やして、入れる道を作るのです。脱落する子もいます。そもそも不自然なものですから、自分に入れる道を作る機会を奪われている子もたくさんいます。

 入れるというか入ってくる道ができてきても、容易には入りません。入ったはずなのに消えていると思われる場合があります。ザルやふるいにホースで水を掛けているようなものだと自己嫌悪におちいる人もいるようです。

 私がそうでした。いまもつづいています。

異物を出す


 出すのに苦労します。なかなか出てこないので、嗜好品と呼ばれるもの、たとえばコーヒーとかお茶とか煙草を使用して出てくるのを促す人がとても多いのです。

 ルーティンとか儀式をおこなって出そうとする場合もよく耳にします。「出てこい」みたいな、おまじないもあるようです。

 自分の中から出すわけですが、空から降ってくるとか、ご降臨なさるとか、湧いてくるとか、乗り移ってくるなんて、考えている人も少なくありません。

 とにかく、容易には出てくれないのです。なだめすかすとか、誘いだすとか、呼びだすとか、みなさんいろいろな方法をもちいて苦労なさっています。

多幸感、依存性あり


 お酒やある種の薬物をもちいる方もいるようです。嗜好品や薬物をもちいて、それとは別の最強の嗜好品や薬物を手に入れるようなものです。

 なにしろ、出てくるとめちゃくちゃ気持ちがよかったり、すっきりしたり、しゃきっとしたり、多幸感を覚えたりします。

 お察しのとおり、嗜癖しますし依存します。これが入ったり出たりするときに脳内何とかという物質が分泌しているにちがいありません。

 言葉のことです。詳しく言うと文字のことです。

私が異物


 この記事をお読みの方なら、上で書いたことが痛いほどお分かりいただけるはずです。なにしろ、みなさんはいま文字を読んでいらっしゃるのです。

 誰に頼まれたのでもなく、ここに来ていらっしゃるのではないでしょうか。ここが、文字がたくさん読める場所(サイト)だからです。

 ちなみに、私は文字です。いまご覧になっている私が、異物です。正真正銘の。ちがいますか?

 半分冗談はさておき(半分は本気です)――みなさんがいまご覧になっている私は文字ですよね? 

     *

 私 ← これは文字です。This is a letter. 

 例の「これはパイプではない」(Ceci n'est pas une pipe)と同じです。

 私はletterです。

 レターといっても手紙ではありません。いや、一字からなるメールかもしれません。「私」から「私」への……。私信とも言います。

これはパイプではない


 私は大学生時代に、上の訳書のもとになる授業に出たことがあります。

 訳者のひとり、豊崎光一先生は、いわゆる哲学書とか思想書と呼ばれていた著作(たとえば、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ、ジャック・デリダの著作)を、文字として、文字からなる作品として丹念にその言葉の綾をとくというよりもほぐしていく(解くというよりも解していく)読みを実践なさっていました。

 思想ではなく、言葉としてであり、文字としてです。

 哲学書と呼ばれている、言葉からなる作品を、詩や小説を読むのとどうように、その言葉の綾のレベルで読みほぐしていらっしゃったと言えば、お分かりいただけるかもしれません。

     *

 どんなレッテルを貼られているテキストであれ、文字と文字列として見ながら読む、という読み方を教えてくださった先生でした。残念ながら故人です。

 豊崎先生は、福永武彦先生の愛弟子でもあったのですが、お二人ともあまりにも早く亡くなりました。長生きしてもっともっとお仕事をしていただきたかったと悔まれてなりません。

当然と言えば当然、不自然と言えば不自然


 話をもどします。

 私は文字です。私が異物です。

 半分冗談はさておき(半分は本気で言っています)、生身の人間ではないことは確かです。おそらくあなたに直接お会いしたことはないと思います。

 パソコン、スマホ、各種端末といった広義の板とその画面で文字を読み、文字を書く。これが日常化している世界に私たちは生きています。

 有難いと言えば有難い、恐ろしいと言えば恐ろしい、当然と言えば当然、不自然と言えば不自然。

 慣れは恐ろしいということです。

必然性がないのに、ころりとだまされる


 異物を入れることも出すことも、大変なことは確かでしょう。一つ言えそうなことは、文字はわざわざ入れる必然性も、したがって出す必然性もないのです。

 とはいうものの、入れて出すのが当然と思われている現在から見ると必然だと感じられそうですけど。

 というか、当然と必然と自然と整然は、人の中では近いのでしょう。

 どれも文字で見ると似ていますから(一字違いです)。

     *

 人にとっては、文字どおりの見た目が大切なのです。ころりとだまされます。

 猫とはぜんぜん似ていないのに猫であるとされて、猫の代わりをつとめ、猫を装い、猫の振りをし、猫を演じている。そんな不思議な存在であり、私たちにとってもっとも身近な複製でもある異物――。

 猫があるのは猫がいないしるし――。

忘れっぽさと認識上の欠陥


 前回のおさらいでした。私はすぐに忘れるのです。そのため、ころりとだまされてしまいます。

 人間は不都合なことはすぐに忘れますが(だから打たれ強いのですが)、文字はそうした人間の失念しやすいという特性につけ込んでというか、その特性の間隙をくぐって存在しているのかもしれません。

・忘れっぽい(都合の悪いことを)からめげない
・目の前に見える文字(具象)
・文字の指ししめすもの(抽象)

 文字の存在と存続は、人間の忘れっぽさと、文字と文字の指すものを一度に(同時に)認識しづらい、または認識できないという特性(欠陥とも言えますがピンチをチャンスに変えているのかもしれません)に支えられている気がしてなりません。

・猫にぜんぜん似ていないものを猫とする
・A(そんなものがあればの話ですけど)の代わりにAとは別のもの(人が自分でわざわざつくったものです)で済ませて澄ましている
・Aと、その代りをつとめるAと別のものについては不明なままの見切り発車
・猫にぜんぜん似ていないものを猫だと決めて学習し拡散し伝承する
・猫にぜんぜん似ていないものを複製して拡散し保存する

 そういうことなのでしょう。さもなければ、錯覚に支えられたこんな不思議なこと(曲芸)がまかり通るわけがありません。

人の外部にありながら、自分を出し入れさせる


 必然性はないけど(いや、あるようにも思えてきましたが……)、人間は文字を、

出し入れする、
出し入れしてしまう

そして、

ころりとだまされてしまう

のです。

     *

 おそらく出し入れしようという気持ちはないと思います。

 気がついたときには、出し入れしてしまっているのです。気がついたときには、だまされてしまっている感じ。完了形なのです。

 早い話が(飛躍と短絡をしますが)、文字は異物なのです。魔物でもあるでしょう。

 人間の外部にありながら(だから異物なのです)、自分を人間に出し入れさせているのですから(具象と抽象のあいだを行き来することで)、文字は魔物だとしか思えません(半分冗談です)。

 つぎに、異物(文字)の異物性を列挙してみます。

異物(文字)の異物性


*文字の習得には、とほうもない時間と労力がかかる。

*学習障害として文字の読み書きだけができない人がいる。

*人類には無文字社会という選択もあった。

*話し言葉、書き言葉(文字)、表情、身振り、しるし・記号・標識を言葉と考えた場合に、文字がいちばん遅く出てきた。個人レベルでも、文字の習得が後になりがち。

*文字(しるしも)は消えない(音声、表情、身振りは発したとたんに片っ端から消えていくという意味です)、しかも残る(もちろん消さない限りという意味です)。

*複製として存在し広まり継承される。

*複製としてしか存在できないため、つかった瞬間に引用になる。ちなみに、固有名詞は最軽最薄最短最小でありながら最強の引用であり、その指ししめすものを知らなくても簡単に引用できるし、相手と自分をだませる。

*起源のない引用。引用の引用、引用の引用の引用……。文字の起源やお手本のお手本をたどるのは現実的ではない(文字のユーザーである人類には無理)という意味です。

*現物や実物のない複製。複製の複製、複製の複製の複製……。文字の現物や実物をたどるのは現実的ではない(文字のユーザーである人類には無理)という意味です。

*文字は、人が外部につくる複製である。外部にあるから、人のあいだで互いに確認し共有できる。

*文字は、固定し、増やし、広め、残し、伝えるためにつくられる。ただし、何を固定し、増やし、広め、残し、伝えているのかは、おそらく人には分かっていない。

*人は文字というもののありようがつかめていない。おそらくつかめない。つかめないようにできているのかもしれない。

*澄ましている。どういう経緯でそこにいるのか(あるのか)、見当もつかない。出自と素性が不明。

*うさんくさい。

*表情、身振り、しるし・記号・標識、話し言葉につづいて、スーパースターとして最後にあらわれた。それでいて、いまでは、いちばんでかい顔をしている。

*ありとあらゆるものが最終的に文字化され保存されている。経典、聖典、法典、百科事典、辞典、史書、法螺話、夢物語、寝言、年表、文学全集、公文書、私文書、契約書、誓約書、条約、約款、メモ・覚え書き、落書き。

*文字(異物)は文字(異物)を産む(増えるのではなく殖える)。産み続ける(殖え続ける)。おそらく自立している。 

     *

 以上、思いつくままに並べてあり、まだ整理してありませんが、いまのところはそんなふうに受けとめています。

 文字の異物性を感じ取っていただけたでしょうか? 推奨も勧誘もしておりませんが。

異物は澄ました顔をしている


 上の「異物の異物性」を書いていて既視感を覚えました。以下の記事にある「小説の鑑賞のされ方の特異性」と似ているのです。

 似ていて当然です。小説は文字と文字列からなるものですから。

     *

 そこで、上の記事とそれにつづく記事(連載なのです)を見ながら、「異物(文字)の異物性」のリストに加筆しました。この連載をつづけるためネタも見つけました(連載をはじめたもののネタに困っていたのです)。

 ところで、その加筆にお気づきになりましたでしょうか?

 他人が気づくわけがありませんよね。書いた本人ではないという以前に、文字は、とりわけ活字は、澄ました顔をしているからです。加筆訂正改ざんをしてもふつうは分かりません。これはすごいことです。

*澄ましている。どういう経緯でそこにいるのか(あるのか)、見当もつかない。出自と素性が不明。

*うさんくさい。

 うさんくさい――。これは私みたいですね。そういう自覚はあります。文字が文字だなんて、うさんくさい者でなければ、ふつうはわざわざ記事に書きません。

粗忽者


 最終的に文字、とくに活字にされるまでには、ああでもないこうでもない、ああだこうだがあるはずです。ふつうは誰もが苦労して文字を(文字からなる文章)を書きます。

 でも、活字になれば(手書きだと難しいです)、そんな痕跡は消せます。加筆(いわゆる改ざんも含まれます)が容易だという意味です。

 いまは印刷に頼ることなく、PCやスマホで誰もが簡単に活字が利用できます。

 だから、ころりとだまされるわけです。恐ろしいとも思います。

 フェイクなんとかという言い回しが流行っていますが、何を今更という感じです。フェイクなんて、いまはじまった話ではないのです。

 文字は、似たもの、似せたもの、似せもの、偽物、贋物、別物。

 いま「文字は、似たもの」なんて書きましたが、これは嘘です。フェイクなのです。というか、レトリックのつもりだったのです。語呂合わせをしていただけなのです。ごめんなさい。

     *

 文字は偽物であり別物でありますが、似たものではありません。

 猫が猫に似ていますか? それなのに、猫としてあつかわれているのです。

 やっぱり文字は異物です。魔物です。本気で驚いて腰を抜かしても罰は当たらないと思います。と短絡したくなります。

 いや、文字が異物というよりも、人間が粗忽者だという気がしてきました。人間って意外とぼんやりしているし、うっかりしてもいるようです。きっと思い込みが激しいのでしょう。

 まさに私のことです。ひとりで納得。

 粗忽者 ひとりで笑い 猫が鳴く

(つづく)

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