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まばらにまだらに『杳子』を読む(06)


たつ、たもつ、もつ


 古井由吉の『杳子』を読んだ人が共依存という言葉を口にするのを何度か聞いた覚えがあります。

 依存、たよる、もたれる、よりかかる。
 共依存、たよりあう、もたれあう、よりかかりあう。

 たしかに、この小説全体にそうした身振りが満ちています。そして、その身振りの象徴として、作品の冒頭で杳子の目に映ったケルンがあるのではないか。私にはそう思えてなりません。

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 いつのまにか杳子は目の前に積まれた小さな岩の塔をしげしげと眺めていた。それが道しるべだということは、その時、彼女はすこしも意識しなかったという。どれも握り拳(こぶし)をふたつ合わせたぐらいの小さな丸い岩が、数えてみるとぜんぶで八つ、投げやりに積み重ねられて、いまにも倒れそうに立っている。その直立の無意味さに、彼女は長いこと眺め耽(ふけ)っていた。

(『杳子』p.19『杳子・妻隠』新潮文庫所収、丸括弧内は原文ではルビ、丸括弧も太文字も引用者による、以下同じ)

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 道しるべとしてのケルンでなければ、「目の前に積まれた小さな岩の塔」は杳子の目にどんなものとして映っていたのでしょう。上の引用箇所につづく部分を見てみましょう。

ところが眺めているうちに、その岩の塔が偶然な釣合いによってではなくて、ひとつひとつの岩が空にむかって伸び上がろうによって、内側から支えられているように見えてきた。
(p.19)

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 ここまでの引用文で私がほどこした太文字の部分を抜きだし箇条書きにしてみます。

・倒れそうに立っている
・直立
・釣合い
・伸び上がろう
・力
・内側から支えられている

 積み上げられた小さな岩のしるしとしての意味や意図やメッセージが問題になっていないのは明らかです。問題なのは、それらがかろうじて立っている姿であり、静止していながら、そこに力が働いていて支えられていると杳子が感じ取っていることではないでしょうか。

 ここで、とくに重要な身振りは「たつ、立つ」だと私は思います。

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 たつ、立つ、たもつ、保つ、もつ、持つ、もちこたえる、もちつづける。
 たつ、立つ、建つ、起つ、発つ。

「たつ」という姿勢(体勢)は、力が「たもたれている」のであり、ものを「もちつづけている」状態なのです。「持つ」には「持続する」という意味があります。

「たもつ」には「手(た)持つ」(広辞苑)という語源の説明があり、興味を引きます。

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「たつ」も「もつ」も動作としては静的ですが、バランスを取りつづけ、力をいれつづけなければならないという意味で、杳子の目に映っているように「内側から支えられている」状態であると言えそうです。

 いずれにせよ、杳子にとってケルンは「道しるべ」というしるしではないことが明らかでしょう。つまり、人がしるしたものではなく、そこに物(物体)としてあり、そのありようが感じとられているように見えます。

 杳子が感じとっているのは、それがそこにある意味ではなく、そのありようなのです。

座る、立つ、歩く


 人は生まれて横たわる。やがて立ち、歩き、ときどき横たわり、最後に横たわる。

 人の人生を体勢(姿勢)という点で要約するなら、以上のようになりそうです。

 もちろん、走るも座るも、跳ぶも泳ぐもあります。ただし、横たわったままで一生を過ごす人たちもたくさんいることを忘れてはなりません。

 いずれにせよ、「立つ」は不自然なのです。放っておけばいつか倒れ、気を抜くとたちまち倒れることにもなります。

 まして立って歩く、つまり直立二足歩行は生き物のなかできわめてまれな動作だと言われています。横たわっているとか、四つん這いになって移動するほうが、自然なようです。

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 赤ちゃんが初めて立ち上がり、さらには歩くようになるさまは感動的です。お祝いをすることもあります。

「よくできました、ぱちぱち」みたいに、立っている姿は、様になるし格好いいのです。

 人が誰かに拍手するさいには、もちろん例外もありますが、相手はたいてい立っています。横になっている人に拍手したり賞賛したり喝采することは、まずないのではないでしょうか。

 スタンディング・オーベーションという最大級の賞賛も、立っている人に対して、座っている人たちが敬意を表して立ちあがり、なんども手を合わせる身振りだと言えそうです。

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「立つ」姿勢は不自然、つまりうんと踏んばらないと保てない体勢です。ちょっとでも気を抜くと倒れてしまいます。つまり横になってしまうのです。

 こう考えると、横になっているのが人にとっては楽であり自然な状態だというのが、よくわかると思います。もちろん、立つのが当たり前の動作であり、立つに慣れた現在の人類にとっては、ずっと寝っ転がっているのは楽ではないでしょうが。

 当然と自然は重なるようで、ずれてもいるようです。

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 I can't stand it. 我慢できないよー。

 英語のstandに「我慢する・もちこたえる・保つ」の意味があるのは、とても興味深いです。 

 とはいえ、ここでは私の母語である日本語をもちいて、その綾を楽しんでいるのであり、言葉で普遍を語ろうとか、別の言語との比較研究をしているわけではありません。

 どんな言語もローカルなものです。ローカルなものに普遍や全体を語らせるのは荷が重すぎると考えています。

 ローカルな(局部的・局所的・部分的な)ものが普遍性や全体を目指したり志すのはじゅうぶん理解できますが、しるす(記述する)のはどだい無理な話だという意味です。

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『杳子』に話をもどします。

 立つ、歩く――これが作品の冒頭における「彼」の動作であり、座っている――これが一貫した杳子の姿勢と言えます。

 具体的に見てみましょう。

 杳子(ようこ)は深い谷底に一人で坐(すわ)っていた。
(p.8)

 これが作品の冒頭の一文です。つぎは、杳子が立ち上がり、そして歩き出す場面です。

 それから女は立ち上がり、立ちくらみしたように、彼の左肩に顔を近づけてきた。
(p.24)

 彼が右肩をさし出すと、杳子は自然に彼の右腕につかまってきた。彼は黙ってすぐに歩き出した。杳子は軀をすこしこごめて、ぬかるみを踏むような足どりで歩いた。
(p.24)

 視点的人物の「彼」の行動の描写の途中に、杳子の話が伝聞として挿入されるとはいえ、単純に言って、座っていた杳子が歩き出すまでに、これだけのページが費やされているのです。

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 以下は、p.21からの部分的な引用ですが、どれもが伝聞による杳子の話、つまり杳子の視点から語られています。

人間であるということは、立って歩くことなんだなあ、と杳子は思ったという。

 そこへ足音が近づいてきて、彼女のすぐ上のあたりで止んだ。

 岩屑(いわくず)のひしめきが傾き上がっていくその中に、男がひとり立っていた。

 時系列に並べましたが、この展開は興味を引きます。ずっと座りつづけてケルンを眺めていたらしい杳子が、「立つ」と「歩く」という姿勢と動作について、どう考えていたか、どう見ていたかが言葉になっているからです。

 とはいうものの、以上は、かなり、はしょった引用ですから、この前後の細部をぜひ読んでいただきたいと思います。

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 石化という言葉とイメージがありますが、見つめている対象である積み上げられた小さな岩にまるで同化したかのような姿を保っていた杳子が、「人間であるということ」に文字どおり立ちもどって、「立って歩くこと」を再開した。その契機になったのが、「足音」であり、男の立っている姿であった。

 この展開に興味を引かれずにはいられません。さらに、杳子がじっと眺めていたのが「いまにも倒れそうに立っている」「積まれた小さな岩の塔」であったことも興味深いと言わざるをえません。

 いつのまにか杳子は目の前に積まれた小さな岩の塔をしげしげと眺めていた。それが道しるべだということは、その時、彼女はすこしも意識しなかったという。どれも握り拳(こぶし)をふたつ合わせたぐらいの小さな丸い岩が、数えてみるとぜんぶで八つ、投げやりに積み重ねられて、いまにも倒れそうに立っている。
(p.19)

 整然と立っているのではありません。「いまにも倒れそうに立っている」のです。

 ところが眺めているうちに、その岩の塔が偶然な釣合いによってではなくて、ひとつひとつの岩が空にむかって伸び上がろうと力によって、内側から支えられているように見えてきた。
(p.19)

 杳子は立っているケルンの姿を見ていたというよりも、立っているケルンの放つ力を感じとっていたのではないでしょうか。

もたれる、もたれあう


 見ていたのではなく、感じとっていた――。

 そんな感じがするのですが、何を感じていたのかと言えば力であり、力の関係と言い換えるとわかりやすいかもしれません。

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 上で述べた部分を、ここに引用します。

 依存、たよる、もたれる、よりかかる。
 共依存、たよりあう、もたれあう、よりかかりあう。

 たつ、立つ、たもつ、保つ、もつ、持つ、もちこたえる、もちつづける。
 たつ、立つ、建つ、起つ、発つ。

 これらの動詞を眺めていると、何かが何かに、誰かが誰かに、何かが誰かに、誰かが何かに、力をかけているさまが感じ取れる気がします。

「凭れる・もたれる」は「持たれる」、つまり相手に所有されるとも読めます。「凭れあう・もたれあう」は「持たれあう」、おたがいに所有されるとなりそうです。

 いずれにせよ、もたれるやもたれあうには力を要し緊張がつづきそうですから、ストレスで胃がもたれる状態や関係だと言えるかもしれません。冗談ではなく。

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 物と物、人と人、人と物とのあいだに――一方的であったり、双方向的でったりするでしょう――働く力です。

 この作品では、「二」という章以降に、双方的に働く「もたれる・凭れる」関係が一貫して「もたれる・持たれる」、つまり「たもたれる・保たれる」ように感じられます。

 もたる、もたれる、もたれあう。
 もつ、たもつ。

 もたれあう状態が、たもたれる。

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 この関係は、ともぶれ、つまり、ともにふれること、と言い換えることもできそうです。

 ともぶれについて述べた「まばらにまだらに「杳子」を読む(05)」から引用します。

 ともぶれ、共振れ、共振、共鳴、シンクロ、同期、同調。
 ふれる、振れる、震れる、触れる、狂れる。ぶれる。ゆれる。

 上に引用した場面では、いま述べた「ともに」「ふれる」関係が、今後に杳子と「彼」のあいだで起こる前触れとして描かれている。そんな気がします。

意味ではなく、力


 ふれ(る)がふれ(る)を起こす。
 振りが振りを呼ぶ。

 言葉の身振りとして具体的に、「ふれ(る)」が波のようにくり返されるのが、言葉で書かれた作品ではないでしょうか。読むという行為は、その波(力)に身をまかせることなのかもしれません。

 その時に人がふれているのは、意味ではなく、力なのです。杳子のように、です。

(……)いまにも倒れそうに立っている。その直立の無意味さに、彼女は長いこと眺め耽(ふけ)っていた。
(p.19)

 この「いまにも倒れそうな」無意味な直立という身振りが、『杳子』ではさまざまな形に変奏されながら、くり返しくり返し描かれていきます。キーワードは「釣合う・釣合い」です。

(つづく)

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