読みにくさについて
ある記事を書こうとしていて、ある部分が長くなってきたので、そこだけを記事にすることにしました。以前なら多少長くなっても強引に記事にしたのですが、このところ体力が落ちているので、無理をせずに別の記事にします。
文章の特徴
蓮實重彥の文章を読んでいて感じる特徴はいくつかありますが、なかでも私が目を惹かれるのは以下の四つです。
1)音声化できない文章の要素である約物の使用。
⇒「立体、平面、空白(薄っぺらいもの・05)」&「「「かける」と「かける」(かける、かかる・03)」
約物は音読不能(⇒「音読不能文について」)ですが、視覚的に目立つ要素なので、文章を読まずにその字面を眺めるだけでも、その有無が確認できます。蓮實の文章は多いほうだと思います。特に目立つのは圏点(傍点・脇点)です。
蓮實の文章においては約物の役割がきわめて大切であり、約物を無視したり、看過することでは文意はつかめません。「人間椅子、「人間椅子」、『人間椅子』」でも引用した、二種類の鉤括弧を無視しては読めない以下の文章が好例です。
また、センテンスが長いことも蓮實の文章の特徴です。約物の使用とセンテンスの長さのために、蓮實の文章が読みにくくなっているとも言えます。
なお、引用にさいしては、『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(河出文庫)を使用していますが、この著作は講談社文芸文庫でも読めます。
2)「AであってAではない」「AであってBである」という流れの展開。
⇒「でありながら、ではなくなってしまう(好きな文章・01)」
こうした展開――そのような流れの展開があると私が思いこんでいるのかもしれません――が蓮實重彥の文章を読みにくくしている最大の理由とみることもできそうです。
いくつかの変奏がありますが、もっとも分かりやすいのは、たとえば「「自由」という名の「不自由」」といったフレーズでしょう。
以下の引用箇所では、このような流れになる、いわば理由を説明している感があるという点で興味深いと思います。
私が蓮實重彥の文章に感じる「AであってAではない」、または「AであってBである」という流れは、後述する「4)位置関係による意味づけをしない。」とかかわってくると私は考えています。
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ところで、「AであってAではない」と「AであってBである」という場合の「A」と「B」は言葉であり文字です。
言い換えると、「Aというもの」、「Aという言葉や文字で名指されているもの」、「Bというもの」、「Bという言葉や文字で名指されているもの」ではありません。
「A」も「B」もレッテルであり、名札なのです。名札が貼られている対象である「何か」ではない点が重要です。両者は別物なのです。名札とは、名前がぺらぺらした札(ふだ)であり、それ以上でもそれ以下でもありません。
その名札だけを見て、それが「正しい」「適切である」「名は体をあらわしている」「名札はそれが貼られた「何か」と同じ・等価・そのものである」と言えるでしょうか?
そう決めることならできます。というか、そう決めたのです。
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猫は猫にぜんぜん似ていないのに猫としてまかり通っている。
いまのセンテンスは次のように言い換えられます。
猫という文字は猫というものにぜんぜん似ていないのに、猫としてまかり通っている。
「猫という文字」は「猫というもの」にぜんぜん似ていないのに、猫としてまかり通っている。
「猫としてまかり通っている」とはみんなでそれを猫の代わりとして使うと決めたという意味にほかなりません。これは、ねこでもネコでもnekoでも、catでも、犬でも同じです。
「猫は猫にぜんぜん似ていないのに猫としてまかり通っている。」という文がもし読みにくいとすれば、それは猫という文字と猫というものを区別する習慣がないからだと考えられます。というか、それが普通であり人情というものです。
私も普段は区別して生活していません。
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名札は薄っぺらいがゆえに、記号化された情報を載せて効率的に運ぶ、つまり乗せるのに適しています。つまり、コスパがすこぶるいいのです。⇒「薄っぺらいものが目立つ場所(薄っぺらいもの・04)」
薄っぺらい名札を、やはり薄っぺらいにもかかわらずそこそこの厚みがあり、顔と表情に似ているという意味で人に多大なインパクトを与える仮面にたとえてもよろしいかと思います。
名札にしろ仮面にしろ、名札であれば貼り付けたり、仮面であれば借りてきて仮に被ったものにすぎないのに、まるで貼られた「何か」や、被った「何か」の一部であるかのように錯覚するのが人情です。
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次の文章には「錯覚」という言葉が使われています。蓮實の文章を読むさいにヒントとなりそうです。
引用箇所では、「では……のか」、「つまり」、「では……のか」、「……ためである」、「それなら……のか」、「すなわち要約すれば……のだ」、「そして……ている」、「……のは、そんな……である」という具合に、前のフレーズを受ける形で畳みかけ、言い換え(変奏し)、噛んで含めるような流れになっています。いわば「教育者」として「教育」しているかのような言葉の身振りです。私はジル・ドゥルーズの言葉の身振りを思いだします。
「「ある」ものと「ない」もの、「見える」ものと「見えない」もの、「密着」と「距離」、「作品」と「人間」、「言葉」と「精神」、すなわち要約すれば、「未知」と「既知」とがいたるところで混同視されているのだ。」という部分がいちばん図式的で要約的だと思います。
勝手な思いでしかありませんが、私は「猫という文字」と「猫というもの」を感じます。「猫という文字」は目の前にありますが、「猫というもの」は目の前にはないものであり、猫という文字の「起源・実体・実物」とされているものであり(「そのもの」ではありません)、「猫という文字」は「猫というもの」ではなく「文字」という目に見える物であるという意味で「知り得ないもの」である一方、「猫というもの」は誰もが頭の中で思い浮かべたり思い描くことができるという意味で「知っているもの」だと言える気がします。
私の特技は誤解です。いま述べたことは誤読による誤解だという自信があります。
なお、上の引用箇所でのキーワードは「錯覚」と「夢」だと私は思います。
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以下は、同じく蓮實重彥の『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』からの引用です。
「運動」と「矛盾」と「夢」が、この引用文のキーワードだと私は感じます。
夢においてはそこで起こる(見える・感じられる)すべてが肯定されることが大切なイメージでしょう。夢では固定はなく、移ろう動きが、矛盾という現実界にはびこる名札とは無縁なままに「ある」「見える」「感じられる」と言えるでしょう。私は夢をそのようにとらえています。
この文章にかぎらず、蓮實重彥が「夢」という言葉を使っている箇所は刺激的で読んでいてわくわくするのですが、その「夢」を自分のイメージする夢と重ねることができる時にもっともわくわくする気がします。
蓮實の書く「夢」については、別の記事で書いてみたいです。
3)掛詞が使われない。
掛詞については、拙文「「かける」と「かける」(かける、かかる・03)」で書きましたので、興味のある方はお読みください。
掛詞とは言えませんが、1)で引用した文章にある「机」と「絵画」についても、もしそれらがそれぞれ「table」と「tableau」であるとすれば、そのことに触れてもいい気が私にはするのですが、「Ⅰ――絵画・図表・絵」の中では暗示はされても直接言及されていません。
掛詞大好き人間であり、たとえば「タブロー(tableau)、テーブル(table)、タブラ(tabula)、タブラ・ラサ(tabula rasa)、タブレット(tablet)」というふうに、記事で何度も書いている私には物足りなく感じられます。⇒「表、目、面」&「タブロー、テーブル、タブラ(『檸檬』を読む・02)」
掛詞をしたり、同源の言葉を紹介しないまでも並置すらしない蓮實の文章を読んでいると、そうした言葉の不在が目立ってならないのです。こういうのを無い物ねだりと言うのでしょう。
そもそも縦書きによる日本語の文章にアルファベットで表記した原語を挿入することも、蓮實はめったにしません。註や地の文でほんの短い原語があったり、地の文ではない表題の脇に著者名や著作名や短い引用文が原語で出てくる(たとえば『批評 あるいは仮死の祭典』(せりか書房))くらいです。
『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』では「Ⅲ叙事詩の夢と欲望――ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』を読む」の p.172 に、やむを得ない感じで三箇所、ほぼ連続してフランス語の単語が出てきますが、これは例外的な字面のページと言えるでしょう。
そのおかげで、ジャック・デリダによる「フランス語にあっては許しがたい綴字法の侵犯」である「畸型的造語」および「新語」が、フランス語での一種の掛詞であることが見て取れます。
4)位置関係による意味づけをしない。
ここで言う位置関係とは、方向も含む意味での、上下、左右(「並置」というべきなのですけど)、裏表なのですが、この「位置関係による意味づけをしない」については、現在記事を書いているところです。
その執筆中の記事のタイトルは、「sense・意味・方向、order・秩序・序列、space・空間・空白」とする予定でいます。触れた以上、説明します。
1)英語の sense には「意味」という意味と「方向」という意味がありますが、蓮實の文章では位置関係や方向をあらわす、「上」「下」や「左」「右」や「裏」「表」という言葉に、意味性や象徴性を担わせていないのではないか。
この点については、『批評 あるいは仮死の祭典』(せりか書房))において、ジル・ドゥルーズの文章における「と」という接続詞についての蓮實の指摘と(おそらく)共感とかかわっている気がします。⇒「アンチ・アンチ」
単純化すると、「AとB」というフレーズでの「と」という言葉は、前後の言葉やフレーズを並置しているだけで、両者の間には序列や優劣や主従や帰属といった関係を示唆しているわけではないということです。何らかの関係を認めるのは、言葉ではなく人の勝手であり都合である(つまり抽象であり観念でしかない、私の好きな言い方だとヒトの頭の中にしかない)とも言えるでしょう。
「そもそも縦書きによる日本語の文章にアルファベットで表記した原語を挿入することも、蓮實はめったにしません」とさきほど書きましたが、以下は珍しい文です。
2)英語の order には「秩序」という意味と「序列」という意味がありますが、本来知覚や思考に秩序をもたらすためにある(整理するためにある)とも考えられる、位置関係や方向をあらわす「上」「下」や「左」「右」や「裏」「表」という言葉に、蓮實の文章では「序列」や「優劣」や「主従」や「帰属」という意味性を担わせていないのではないか。
3)英語の space には、立体と知覚されている現実界における「空間」という意味と、平面である人工の紙面や画面における「空白」(スペース)という意味があります。蓮實の文章では、ミシェル・フーコーの『言葉と物』を受ける形で、「空白」という言葉を、自然界(現実界)にはない捏造されたものとして使用しているのではないか。
ご覧の通り、広義の掛詞を使って書いています。私は言葉を掛けることで取っ掛かりを作らないと文章が書けないために、常にこういう書き方をしているのです。
だからこそ、「めったに」言葉を掛けない蓮實重彥の文章に惹かれるのかもしれません。
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以上のような話をとりあえず書くつもりでいます。あくまでも「とりあえず」ですので「見立て倒れ」になって(「見掛け倒れ」なのはもちろんのこと)、挫折するかもしれません(私は記事執筆での挫折が得意です)。なにしろ、私は行き当たりばったりで書く癖があるため、こればっかりは書いてみないことには分かりません。
なお、この「sense・意味・方向、order・秩序・序列、space・空間・空白」という仮題の記事は、蓮實重彥の『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』と『「私小説」を読む』の読書感想文のつもりで書いています。
『「私小説」を読む』には、蓮實が文学作品を読むにあたって、上下、左右(「並置」というべきなのですけど)をどう処理しているかが具体的に書かれています。場合によっては『夏目漱石論』も参照したほうがいいのかもしれません。
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というわけで、冒頭で触れた「ある記事」とはその見切り発車で執筆中の記事のことであり、「ある部分」というのが、本記事なのです。
とにもかくにも、本記事を先に書き上げて投稿しましたので、体調と相談しながら、「sense・意味・方向、order・秩序・序列、space・空間・空白」を書いていこうと考えています。
キーワードは、「二」という数字と、「選択」と「動き・運動・身振り」と「装う・演じる」になる気がしますが、これも書いてみないことには分かりません。
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ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
みなさんも、どうか体調を崩さないように気をつけてお過ごしください。
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