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立体、平面、空白(薄っぺらいもの・05)

 今回は、蓮實重彥著『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』のうち、「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」をめぐっての読書感想文です。

  この「フーコー論」は、「薄っぺらいもの」というシリーズを始めるきっかけになった文章の一つでもあります。初めて読んだのはずいぶん前のことですが、以来私にとって気になる文章であり続けています。


引用文の余白に書く


*「顔と視線との離脱現象」

 顔を奪われた視線をたどりつつ視線を奪われた顔の位置を標定すること、そしてその機能について語りうる基盤を顔と視線との離脱現象のうちに捉えようとすること。ミシェル・フーコーの『言葉と物』と呼ばれる書物が読むものに要請しているのは、そうしたきわめて具体的な体験にほかならない。
(蓮實重彥「顔と視線の離脱」「Ⅰ――絵画・図表・絵」「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(河出文庫)所収・p.21)

 ミシェル・フーコーが、『言葉と物』(Les mots et les choses)というタイトルの著作の冒頭でベラスケスの『侍女たち』の分析をおこなっていることは興味深く、また『言葉と物』というタイトルをテーマと取るなら、ある意味で当然にも思えます。

 また、蓮實重彥がフーコーの『言葉と物』を論じた著作を、上の引用文の二センテンスで始めていることも、ある意味で納得できる気がします。

 引用文から気になる言葉とフレーズを抜きだして、連想する言葉を並べてみます。

・「顔と視線の離脱」:平面、視覚、見る
・「Ⅰ――絵画・図表・絵」:平面、視覚、見る
・「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」:書物、平面、文字、読む

・顔:平面、視覚
・視線:方向、運動、点と線、視覚、まなざし
・位置:方向、立体、平面
・標定:測定・「はかる」、数値化
・機能:動き・運動・働き
・基盤:記述、論述
・(顔と視線との)離脱現象:平面、運動、立体
・書物:文字・活字、平面、言葉、始まりと途中と終わり、枠
・読むもの:読者、読む、測定
・要請:作業
・具体的な体験:思い、思考、物、知覚、感覚

     *

 二センテンスからなる上の引用文の余白に書く感想文というよりも個人的なメモとして、お読みいただきたいのですが、事物と言葉という異なるもの、つまり別個の存在を論じるに当たって、一つの取りうる方法は、平面をいかに立体に見えるようにするかという仕掛けと仕組みに目を注ぐことだと思います。

 ただし、目を注ぐ対象が平面である書物と絵画であることを忘れてはなりません。平面に視線を走らせながら、平面と立体の違いと関わりについて思いをめぐらすという作業をおこなうわけです。

 思いをめぐらすさいには、頭の中で平面だけでなく立体的な像も思い浮かべることになるのは言うまでもありません。思いはたぶんに視覚的なイメージとしていだかれると想像できます。

 たとえば、引用文を読みながら私はこれまでに自分が体験した、文字を見て読むという行為、そしてまなざしの描かれている肖像画を見るという行為を思い出したり、思い浮かべたり、思い描いたりします。

 出す、浮かべる、描く――どれも視覚的なイメージです。

 そのさいにもっとも苦労するのは「顔と視線との離脱現象のうちに捉えようとすること」です。この「具体的な体験」を「要請している」のが、ミシェル・フーコーの『言葉と物』だと蓮實重彥は言っていると読めます。

 正直言って、宙吊りにされた気分です。

 その宙吊りされた気分を引きずりながら、引用文以後の文字を目で追っていくしかありません。

*「考古学」

「人文科学の考古学」と副題された『言葉と物』のはしからはしまで万遍なく視線を移動させてみても、実際、この「考古学」一語をめぐる定義が語られているページはどこにも見当りはしない。すでに前著『臨床医学の誕生』が「医学的視線の考古学」と呼ばれてもいたのだから、この一語こそがフーコーの言述にとっては中心的な概念となっていようことは間違いなかろうが、いま問題になっている『言葉と物』には「『考古学』によって提示される方法の問題は、次の著作で検討されることになろう」といういかにもそっけない註が、「序文」に認められるにすぎないのだ。
(蓮實重彥「中心の欠落、そして空白の特権的二重化」「Ⅰ――絵画・図表・絵」「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(河出文庫)所収・pp.25-26)

 上の引用文も、視覚的な言葉とイメージが目立ちます。

・はしからはしまで万遍なく視線を移動させてみても
・どこにも見当りはしない。
・認められるにすぎない

 ここで「輝ける空白」とも呼ばれている「考古学」という言葉に注目しないわけにはいきません。

「前著『臨床医学の誕生』が「医学的視線の考古学」と呼ばれてもいた」ことも気になります。

 以下は拙文「病室の蛍」からの引用です。

     *

 フーコーは、決して長かったとは言えない生涯を通じて「視線」に注目しつつ思考を重ねた人でした。

 印象に残っているフーコーの本で、『臨床医学の誕生』 神谷美恵子訳(みすず書房)があるのですが、その原題はNaissance de la clinique、そして副題が une archéologie du regard médical 、つまり「医学におけるまなざしの考古学」なのです。

「考古学」なんてレトリックをフーコーはつかっていますが、ようするに医学において「まなざし」がどのように機能し変化したかを丹念に歴史的に分析しているのです。以下の資料で目次をご覧ください。

 日本語でも「みる・見る・観る・診る・視る・覧る・看る」と表記できるように、視線と「やまい」とのかかわり合いが見て取れますね。

 医学・医療・病院、刑務所・刑罰・法といった、「隔離」および「排除と選別」を前提とする、人間のいとなみや施設の構造を論じたフーコーの文章に、視線やまなざしという言葉とレトリックが頻繁にもちいられているのです。

 詳細はきれいさっぱりと忘れましたが、「視線」を重視した人だったことは確かだと思います。

     *

 拙文からの引用は以上です。

 なぜ「考古学」という言葉をフーコーが使っていたのかですが、私は単純に「歴史学」への皮肉かなと想像していました。

 どういうことかと言いますと、これは私が蓮實重彥の著作をとおしてという間接的な方法でミシェル・フーコーの著作を見てきたことからの短絡なのです。

 歴史学は文書つまり文字にこだわり、考古学は物にこだわる。蓮實重彥は抽象を避け具体的な物(たとえば文字であれば文字の手触り可能な物質性)にこだわる――。

 私にはこうしたオブセッションに近い勝手な思い込みがあるのですが、それは蓮實の『魂の唯物論的な擁護のために』という著作からの安易な印象ではないかという気がします。

 さらに言うなら、フーコーの言う「考古学」も、蓮實の言う「唯物論」も比喩ではなかったのかという感じもします。

 印象であり、気がするであり、感じがするだけです。

 ようするに勝手な思い込みで、私は蓮實重彥の著作を読んできたわけですが、思い込みついでに言わせてもらいますと、蓮實は視覚的な言葉とイメージを多用する書き手だという印象を私は持っています。

 もし蓮實が視覚に傾く書き手であるとすれば、それは蓮實が文学のほかに映画や野球に関心をいだいてきたのとも無関係ではないという気もします。

 映画と野球では、物であれ人であれ、その動き、身振り、方向、形に視線を注がなければなりません。視覚的に鑑賞する対象なのです。とりわけ、視点と方向に対する感覚を動員しなければならないジャンルだと言えます。

 蓮實の文芸批評や広義の書物を対象とした著作には、視覚的な言葉が目立ちます。もっとも頻繁に出てくるのは「身振り」と「方向」と「視線」でしょう。

*視覚に訴える記述


 蓮實重彥の著作から、視覚に訴える記述を感じる部分を引用してみます。

・まなざしによって触知する

 そしてそのとき、沼の水は藤枝的風土における大地の表層をたくみに模倣しながら微妙に畸型化し、溶けた表層の氷が酷寒の大気に陽光を拡散させる。藤枝的「存在」とともにその度重なる彷徨に従ってきたものにとって、藤枝的「作品」とは、この「太陽の熱で薄く膜状に解け」てしまった氷、いまはすでに失われていながら、その不在ゆえに光の多様な反映を許す空間と空間のありえない一点にうがたれた負の陥没地帯でなかったか。いま、この瞬間、ここにはないものとして人目を惹きつけ、注がれる視線から言葉を奪って「華やか」にあたりに散乱させるもの。それじたいはどこまでも冷たく、熱を帯びる表層を無力に乱すしかなく、それでいて溶けた氷と溶けきらぬ部分との越えがたい距離を全的に解放せんとするもの、それこそが藤枝的「作品」の在りようだといえはしまいか。
(蓮實重彥「藤枝静男論 分岐と彷徨」(『「私小説」を読む』中央公論社)所収・p.172)

 蓮實に特徴的なさまざまな要素が詰まっている箇所を選びました。「氷」と「水」に注目しましょう。固体である氷は溶けることによって、立体から平面の広がりへと転じるものとしてあります。

「地表」⇒「拡散」⇒「彷徨」⇒「薄く膜状に解け」⇒「その不在ゆえに光の多様な反映を許す空間」⇒「空間のありえない一点にうがたれた負の陥没地帯」⇒「いま、この瞬間、ここにはないもの」⇒「あたりに散乱させるもの」⇒「どこまでも冷たく、熱を帯びる表層」⇒「溶けた氷と溶けきらぬ部分との越えがたい距離を全的に解放せんとするもの」

 以上の変奏は、平面の変奏および変容とも言えるでしょう。大切なのは、この平面に注がれる触知するまなざしです。

 そのまなざしが、「いま、この瞬間、ここにはないものとして人目を惹きつけ、注がれる視線から言葉を奪って「華やか」にあたりに散乱させるもの。」と変奏されているさまがじつに興味深いです。

 まなざしと視線という無形の運動が、いったん溶けはじめた平面としてある水が再び凍って固まり氷になるのを必死に回避しようとしているかのような言葉の身振りに見えます。

 この文章には表層を触知するイメージと身振りが感じられますが、触知とは視線を注ぐ行為に似て、つぎつぎに消えていく瞬間を追いかけることではないでしょうか。その痕跡が言葉と文字からなる平面なのかもしれません。

・約物の使用

それには「二」が統禦する「主題」群に、いま一つの系列が介入することが必須である。それ自体としては非=時間的な構造におさまっている「主題」群が、なお時間的な言葉の連鎖をも統禦しうるとしたら、それは、すでにその「主題」論的な機能に言及してある「反復」が、第一、第二の系列の共時的な循環性﹅﹅﹅を、継起﹅﹅発展﹅﹅の通時的な運動へと変容せしめる契機となっているからである。茶屋の二階の座敷の机の上で、「類似」、「比較」、「選択」の主要モチーフが時間的﹅﹅﹅に「反復」され、その運動が「快」=「不快」、「緊張」=「弛緩」、「上」=「下」といった「双極性」の系列へと発展して行ったように、「反復」は、『暗夜行路』と呼ばれる言葉の磁場に交錯しあう「主題」の諸系列に、一つの方向を指し示す役割を果たしている。したがって「作品」は、読む意識がその有機的な連繫ぶりに触れえた瞬間のみに、構造としておのれを顕示することになるだろう。読﹅﹅とは、その一瞬を逃さず不意撃ちするという、敏捷さが問われる冒険なのだ。
(蓮實重彥「廃棄される偶数 志賀直哉『暗夜行路』を読む」(『「私小説」を読む』中央公論社)所収・pp.22-23)

 引用文では、句読点だけでなく、ルビを利用した傍点、鉤括弧、等号という約物が使用されています。こうした視覚的な要素は音読されることを前提としたものではありません。

 私は約物もまた文字だと考えていますが(拙文「言葉は約物(言葉は魔法・02)」「ルビと約物と字面」をご覧ください)、この引用文を音読する人がいるでしょうか。

 仮に音読されたさいに失われるものの多さを考えると、音読するべきではないとさえ思わずにはいられません。句読点さえ、音読のさいの「間(ま)」で片づけられないものがあります。

 約物とは、それを声にすることのできない徹底して見るためだけにそこに「ある」記号であり文字なのです。約物とは音声化されない影とか、声として反映されない言葉の影と言えます。

 趣も意味あいもまったく異なりますが、井上究一郎訳のマルセル・プルースト作『失われた時を求めて』を音読する人がいないのと同様に、蓮實重彥を音読する人はいないだろうと想像します。

     *

・身振り、動き・運動に注がれるまなざし

 以下は、拙文「でありながら、ではなくなってしまう(好きな文章・01)」でも引用した文章です。

 こうして安岡的「存在」の多くは、避けようとする身振りそのものによって、避けるべき対象と深く戯れてしまうというパラドックスのさなかに生きることになる。『月は東に』の冒頭のジェット機は、なんとか逢わずにいたい男が間違いなく待ち受けているはずの羽田空港へと、一直線に太平洋を越えてゆくではないか。だから、真に安岡的風土に置かれた存在は、逃げていたはずのものによって執拗に視界を立ちふさがれれるので、その目の前の風景の遠近法はたえず狂っていることしかない。そのときそこで息をつめ、瞳をふせ、足音を殺していることは、無防備のまま世界へと埋没していく溺死志願者の仕草にほかならなくなる。存在を希薄にする試みは、一変して外界の諸要素が最も深く体内に浸透する格好の身振りとなり、逃げるための足ならしは、かえって世界の中核部へと一挙に突入する準備運動になってしまうだろう。
(蓮實重彥「安岡章太郎論 風景と変容」(『「私小説」を読む』中央公論社)所収・p.176)

「避けようとする身振りそのものによって、避けるべき対象と深く戯れてしまうというパラドックス」という箇所に、小説の登場人物の身振りと言葉の身振りを重ねるという蓮實特有の「掛ける」身振りが見られます。

「逃げていたはずのものによって執拗に視界を立ちふさがれれるので、その目の前の風景の遠近法はたえず狂っていることしかない。」ここでは視覚に訴える言葉によって、方向感覚と距離感覚という必ずしも視覚によって統御されない感覚を記述する身振りが見られます。

「存在を希薄にする試みは、一変して外界の諸要素が最も深く体内に浸透する格好の身振りとなり、逃げるための足ならしは、かえって世界の中核部へと一挙に突入する準備運動になってしまうだろう。」ある身振り(運動)を、別の身振り(運動)に掛けながら論を進めるという蓮實的な「掛け詞」を感じます。

 拙文「「かける」と「かける」(かける、かかる・03)」「蝶のように鳥のように(断片集)」でも書いたことなのですが、蓮實は、言葉の音の一致や類似に注目したいわゆる掛詞を避けますが、言葉の身振りに目を注いで「掛ける」書き手だと言えそうな気がします。

 ミシェル・フーコーもジル・ドゥルーズも広義の掛詞をあまり用いない書き手だったという印象を私は持っていますが、『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』において「デリダ論」に費やされたページが突出して多く、「フーコー論」と「ドゥルーズ論」を合わせたほどになるのはとても興味深く思えます。

 音の類似や一致による掛詞をレトリックとして多用した感のあるジャック・デリダの著した『グラマトロジーについて』をめぐっての「Ⅲ叙事詩の夢と欲望」に感じられる、もどかしげな(あるいはいらだたしげな)筆致について、いつか書いてみたい気がします。

*「距離感も方向の意識も」

 蓮實の「フーコー論」から視覚的な言葉とイメージが顕著に出ている数ある細部から一部を引用します。

 では、顔はいかにして視線の前に再び姿を見せるのか。いうまでもなく、絵画空間の崩壊という、顔と視線の離反にも似た事件の到来と同時に顔は顔となる。空間の表層に生じた亀裂がその全域に及び、顔たちの顔﹅﹅﹅﹅﹅視線たちの顔﹅﹅﹅﹅﹅﹅の配置が分散の力学に引き裂かれるとき、生きた人間の表情がその裂け目をぬって顔をのぞかせるだろう。(……)そしてその構図は、当然のことながら、眼差しと盲目とにまたがる領域で標定されるべき顔の位置と密接な相関関係をとり結んでいる。事件は、可視と不可視の星座群的配置図を変容せしめ、それと同時に顔を隠し、顕示し、あるいはそれとは別のやり方で、可視と不可視の問題体系から、顔を跡かたもなく葬りさることになるかもしれない。
(蓮實重彥「顔と視線の離脱」「Ⅰ――絵画・図表・絵」「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(河出文庫)所収・pp.23-24・丸括弧による省略は引用者による)

 引用箇所のほとんどが視覚的および空間的な言葉とイメージです。これは対象とする文章が、ベラスケスの絵画、とりわけ視線が主要な主題になっている『侍女たち』をめぐってのものだからとはかならずしも言えません。

     *

 同じく『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』の「ドゥルーズ論」から引用してみます。

 洞窟の淀んだ湿りけがなにやら不吉な重みとして肩に落ちかかり、肌にまといつく黒々とした冷気となって迫ってくるあたりで思わず足をとめ、全身をこわばらせにかかる暗さをぬぐい落とすように瞳をこらすと、わずかにしなやかさをとどめていたはずの視線までが、周囲の薄明にようやく馴れはじめていたというのに、もうそこからさきはもののかたちを識別する機能を放棄してしまって、距離感も方向の意識も見失ったまま曖昧に漂いだすばかりで、だからそんなとき、目の前にぽかりと口を拡げた暗黒の深淵に対して、ひたすら無気力な対応ぶりしか示すことができない。
(蓮實重彥「黒さの深まりと浮上」「Ⅰ――洞窟の怪物」「Ⅱ「怪物」の主題による変奏――ジル・ドゥルーズ『差異と反復』を読む」『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(河出文庫)所収・p.75)

 まず、この一センテンスを三つに分けてみます。

・「洞窟の淀んだ湿りけがなにやら不吉な重みとして肩に落ちかかり、肌にまといつく黒々とした冷気となって迫ってくるあたりで思わず足をとめ、全身をこわばらせにかかる暗さをぬぐい落とすように瞳をこらすと、」:ここまでの主語は、非人称的な人物というか人格でしょうか。この段落でのちに出てくる「人はそのとき」(p.76)の「人」とも取れそうです。

・「わずかにしなやかさをとどめていたはずの視線までが、周囲の薄明にようやく馴れはじめていたというのに、」:この部分の主語は「人」の「視線」でしょう。

・「もうそこからさきはもののかたちを識別する機能を放棄してしまって、距離感も方向の意識も見失ったまま曖昧に漂いだすばかりで、」:「識別する機能を放棄してしまって」とあるので、「人」あるいは、「人」の「視線」が主語だと取れます。蓮實にとって視線とまなざしとは、いわば触知する器官なのです。ドゥルーズとの相性の良さを感じます。

・「だからそんなとき、目の前にぽかりと口を拡げた暗黒の深淵に対して、ひたすら無気力な対応ぶりしか示すことができない。」:ここも、「人」あるいは、「人」の「視線」が主語だと取れそうです。これを「視線と化した人」、または「人と化した視線」と呼ぶとすれば、蓮實的「存在」にぐっと近づく気がします。

 つぎに、視覚、立体、動作、平面、視覚を除く知覚(とくに触感・皮膚感覚)という見出しで分けてみますが、厳密に分ける目的はなく、ただ各細部の傾向とか方向性という感じでおおまかにとらえていきます。そのため重複があります。

・視覚:黒々とした、暗さ、(しなやかさをとどめていたはずの)視線、薄明に、そこからさきはもののかたちを識別する機能を放棄してしまって、距離感も方向の意識も見失ったまま、目の前にぽかりと口を拡げた暗黒の深淵に対して、

・立体:洞窟、あたり、周囲の、そこからさきは(もののかたちを識別する機能を放棄してしまって)、距離感も方向の意識も見失ったまま、目の前にぽかりと口を拡げた暗黒の深淵に対して、

・動作:足をとめ、ぬぐい落とす、無気力な対応ぶりしか示すことができない

・平面:

・視覚を除く知覚(とくに触感・皮膚感覚):淀んだ湿りけ、不吉な重み、肩に落ちかかり、肌にまといつく、冷気、迫ってくる、全身をこわばらせにかかる、瞳をこらす、しなやかさをとどめていたはずの(視線)、馴れはじめていた、距離感も方向の意識も見失ったまま、曖昧に漂いだすばかりで、無気力な対応ぶりしか示すことができない。

 以上の記述では、「平面」の項が空白になっていますが、これは空白ではなく、むしろ、このセンテンスが文字からなるものであるいじょう、視覚、立体、動作、視覚を除く知覚(とくに触感・皮膚感覚)という要素が、すべて平面に置き換えられたと言うべきでしょう。

 このセンテンスは非平面の平面化をおこなっている文字列なのです。そもそもあらゆる書物とは平面化の結果だと考えていいだろうと思います。

*立体、平面、空白

 蓮實重彥著『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』のうち、「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」を読んでいていちばん気になることを、余白に書く形で以下に述べます。

 気になるのは「空白」という言葉なのです。立体の平面化について、文字どおり文字にする、つまり平面化するという作業がこのフーコー論でおこなわれれていると考えてみましょう。

 その場合に「空白」はどのような役割を演じているのでしょう。言葉としてどのような身振りを装い演じているのでしょう。

「空白」という言葉が出てくる箇所を引用して、空白を埋めるしか、私には方法がありません。

 たとえば、「空間の偽りの深さの奥まった一点」(p.21)、「構図成立の決定的な要因となりながらも鮮やかな欠落としてある外部の顔」(p.22)、「顔というより顔の不在、顔の欠落」(p.23)、「あらゆる顔と視線は宙吊りにされてしまう」(p.25)、「この予告された過ぎない不在の定義」(p.26)、「冒頭で宙吊りにされた定義」(p.26)、「「考古学」は、『言葉と物』にあっては人目に触れてはならぬ唯一の特権的な点、王者の位置とでもいうべきもの」(p.26)、

 このように、「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」における「空白」はさまざま形で変奏されてもいますが、「空白」という文字とその周辺の文字列だけを書きうつしてみます。

・「その不可視の中心に反映するのが、「考古学」と呼ばれる空白なのである。この輝ける空白。」(p.25)
・「空白の中心におぼろげに反映する不在の影としての「考古学」」(p.26)
・「その二重の消滅は、というより空白として設定された二つの中心は」(p.27)
・「消滅する二つの中心、そしてたがいに折り重なって接しあう二つの欠落、つまりは空白の特権的な二重化。『言葉と物』がみずから位置づけんと試みる空間は、その二つの中心的な空白の折れ目というか、ほとんど一つに接しあった二つの不在のわずかな間隙にほかならない。」(p.27)
・「「考古学」は、(……)いわば空白のままの姿で「歴史学」が充分には読みえないでいる歴史一般の不連続性を」(p.29)
・「誰ひとりその実態を目にしたことがなく、フーコー自身もその定義を延期している「考古学」は、その空白によって空間を開き、かつまた空間を閉ざしもする事件の標定に貢献しているのである。」(p.29)
・「その「言説」は、いうまでもなく「言語」それ自身ではなく、機能しつつも人目には触れない言語のにすぎないが、この「顔」のまというるさまざまな表情が「比喩形象」と呼ばれる修辞学的な「あや」であることは言を俟たないだろう。」(p.31)

 以上「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」に出てくる「空白」という文字およびその変奏された文字とその周辺の文字列の一部を引用しながら感じたことは、「空白」が立体、ひいては現実の立体的な空間には存在せず、絵画であれ写真であれ映画や動画であれ、平面上に捏造されたものではないかという疑問なのです。

 というか、むしろ、人の作る平面は、空白や余白や枠や周縁や中心や彼方や奥行きや深さや折れ目や襞やあやだけにとどまらず、平面そのものという形で変奏され、変容しながら、その捏造ぶりを顕著にあっけらかんと顕在化しているのではないでしょうか?

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