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タブロー、テーブル、タブラ(『檸檬』を読む・02)

 引きつづき、梶井基次郎の作品を読んでいきます。今回も『檸檬』です。

「共鳴、共振、呼応(薄っぺらいもの・06)」:対象作品『愛撫』
「出す、出さない、ほのめかす(『檸檬』を読む・01)」:対象作品『檸檬』

 引用にさいして使用するのは『梶井基次郎全集 全一巻』(ちくま文庫)ですが、青空文庫でも読めます。


◆表象に対する紡錘形の立体のささやかな抵抗

*タブロー、テーブル、タブラ

 丸善の画集の棚にあるコーナーで「私」の積みあげた本の上に檸檬が置かれる。この設定を象徴的だと私が感じるのは、タブロー、テーブル、タブラ(タブラ・ラサのタブラ)という連想が働くからだと思います。

「立体、平面、空白(薄っぺらいもの・05)」で扱った、蓮實重彥の「顔と視線の離脱」「Ⅰ――絵画・図表・絵」「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(河出文庫)所収)が頭にあるのです。

「Ⅰ――絵画・図表・絵」というフレーズが気になって仕方ありません。

 詳しく言うと、 タブロー(tableau)、テーブル(table)、タブラ(tabula)、タブラ・ラサ(tabula rasa)、タブレット(tablet)、表、文書、木版、絵板、絵画、カンバス、図表、卓、円卓、食卓、手術台、解剖台、高原、大地、共鳴板、手のひら、掌……という辞書の語義による連想が起きるのです。 

 この中で「台」というイメージに注目してみます。

*テーブル

 台(テーブル)とは、立体物を置くための場であると同時に物です。台そのものが、立体物の重さを支えるに足りる厚みのある板を備えたものでなければなりません。台は立体感と重量感のある言葉です。

 この作品では、「檸檬」という果実が、「塊」、「立体」、「重み」という属性を備えたものとして描かれています。

 たとえば、以下の引用文では、「檸檬」と名指されずに、「重さ」と「重量」にたとえられるという手法でほのめかされています。

 その重さこそ、常づね私が尋ねあぐんでいたもので、疑いもなくこの重さは総ての善いもの総ての美しいものを重量に換算して来た重さであるとか、思いあがった諧謔心からそんな馬鹿げたことを考えて見たり――何がさて私は幸福だったのだ。
(『梶井基次郎全集 全一巻』(ちくま文庫)p.19・ルビの省略は引用者による・以下同じ)

 変奏が感じられるので図式的にまとめてみます。

・「えたいの知れない不吉な塊」(p.13)
 ↓
・「果物屋」の「台」に載っていた「レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈の詰まった紡錘形の恰好」(p.17)の檸檬。
 ↓
・「檸檬の冷たさ」。「その頃の私は肺尖を悪くしていていつも身体に熱が出た」。「握っている手から身体に浸み透ってゆくようなその冷たさは快いものだった。」(p.18)
 ↓
・「重さ」「重量」(p.19)

「紡錘形」の立体であり「冷たさ」のかたまりでもある檸檬が、病が引き起こす身体の「熱」と引き換えに、「重さ」へと変奏されていると解釈するなら、この変奏は冒頭に出てくる「不吉な塊」が檸檬に転化されていく、つまり「私」の内部にある何かが檸檬に移って変容していくさまにも見えてきます。

 そして、目に見えなくて実体のない熱(波動)を吸い込んだ檸檬が、ラスト近くでは丸善の画集の棚のあるコーナーで、目に見えて実体のない色(光・波動?)を吸収するという展開になるのです。

 見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の諧調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。私は埃っぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。私はしばらくそれを眺めていた。
(p.21)

 檸檬が「えたいの知れない不吉な塊」の属性を備えたままでいると感じるのは私だけでしょうか。

 その「錘形の身体」が、上の引用箇所では「緊張」という新たな属性を帯びて、ラストにおける「私」の想像の中の物騒な物体に変容することになります。

*タブロー

 テーブル(台)のイメージの次に、タブローのイメージにこだわってみます。

 タブローというと、地面という平面に垂直に、つまりほぼ直角にあって、宙に浮んだ薄い板や布や紙をイメージします。

 水平なテーブル(台)に載っているのが立体であるのに対し、立体の骨組みに支えられて(壁に掛かっていることもありますが)、垂直に浮んでいるタブローに載っているものは、軽くて薄くて短く小さいものであるはずです。具体的には、絵や写真や文字や図表です。

 もちろん、画集のようにタブローは束ねたり綴じることによって、棚に立てて置かれたり、平面に置かれたり、重ねて積みあげられることもできます。

『檸檬』の舞台となる当時の丸善は、書籍だけでなく、文具や洋品、しかもかなり高価な贅沢品が棚や台に置かれて陳列され、売られている場所だったと言います。

 つまり、貨幣(薄い紙幣と硬貨)という、いわば表象の王者(チャンピオン)と交換されるために商品が陳列されている空間だったと言えます。

 丸善の描写では「書籍、学生、勘定台、これらはみな借金取の亡霊のように私には見えるのだった。」という文がありますが、勘定台という言葉に目が行きます。

 果物屋の場面でもありましたが、商品を置いて客に見せるのが「台」なら、貨幣と交換する場も「台」なわけです。「台」と広義の表象には親和性があります。

 テーブル、台、陳列台、棚、商品、勘定台、貨幣、金銭、絵画、画集、タブローーーこうしたつながりを感じます。

 共通するイメージは「表象」です。ただし表象とは言え、いま列挙した言葉は、どれもが物でもある点を忘れるわけにはいきません。

 表象とは、人にとって、載せるものであると同時に載せられるものであり、表面であるいっぽうで厚みや深さや奥行きでもあります。両者を同一視している、ようするに混同していると言えば身も蓋もない言い方になりますが。 

 表象とはヒトだけに通じるギャグなのですが、ヒトはそれがギャグであるとはふつうは気付きません。気付いてもすぐに忘れるのです。

*立体、平面、空白

「私」によって積み上げられた本を台にして、紡錘形の果物が一つだけ置かれるのは興味深い設定だと思います。

 平面から成る人工物(タブロー)を束ねて綴じたものを積みあげた立体物(テーブル)の上に自然物(オブジェ)が一つ――という図です。

丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛て来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなに面白いだろう。(p.21)

「出す、出さない、ほのめかす(『檸檬』を読む・01)」で書いたように、「私」の想像の中ではありますが、この作品では「空白」(「立体、平面、空白(薄っぺらいもの・05)」)だった色が出てきます。 

 檸檬の色は直接的に名指されずに「空白」(ある意味部分的な「タブラ・ラサ」です)のままで終わります。そこにある色は想像の中の「爆弾」の色なのですから。

 その色は「黄金色に輝く」と記述されています。黄と金ですが、当時貨幣という表象が金(gold)と交換されるものであった事実を思いださずにはいられません。

 画集(タブロー)を積み重ねた台(テーブル)の上に黄金色に輝く紡錘形の果物=爆弾。

     *

 いま「果物=爆弾」と書きましたが、あくまでも「果物という文字・言葉」と「爆弾という文字・言葉」の組み合わせという意味であってそれぞれが指ししめすもの同士の組み合わせではありません。

 これは文学作品を読むさいにはきわめて重要な点です。

 読み手は自分が読んでいるものが文字(言葉)であることを、つい忘れてしまうからです。文字はそれが文字だと意識しなくても読めるし、文字だと意識しないほうが読めるものだからに他なりません。

 これは、書き手が書きつつあるとき、自分が相手にしているものが文字(言葉)であると常に意識しなければ文字が書けないのと対照的です。誰もが読み手になり書き手になれることも忘れてはなりません。

 小説とは、あくまでも文字(言葉)を組み立てて作る作品なのです。それ以上でもそれ以下でもありません。

 目の前にある文字を文字として見ないことから、すべての学問は始まる。
 目の前にある文字を文字(letter)として見ることから、おそらく文学と文芸(letters)が始まる。

     *

 果物=爆弾――。

 この言葉および文字の組み合わせは、紙という平面(タブロー、テーブル、タブラ)における象徴的な出来事であり、さらには事件ではないでしょうか。

 私には、タブローから成るテーブルの上に置かれた「果物=爆弾」が、表象に対する紡錘形の立体のささやかな抵抗に見えます。

 上で述べた「空白」としての檸檬の色にこだわるなら、「黄金色に輝く恐ろしい爆弾」における「果物」と「爆弾」という組み合わせは、「黄金」と「爆弾」という組み合わせにもなります。こちらのほうが、貨幣という最強の表象が絡んでくるので、組み合わせとしてはずっと迫力があるし面白いでしょう。

 自分の好きな組み合わせで楽しめばいいと思います。連想による組み合わせに正解はありません。

     *

「共鳴、共振、呼応(薄っぺらいもの・06)」でも引用したフレーズをここでも再び引用したくなります。

『愛撫』のラストにおける眼球と肉球の遭遇ーーこれは「解剖台の上でのミシンと蝙蝠傘の偶発的な出会い」に匹敵する「事件」だと思います。
(拙文「共鳴、共振、呼応(薄っぺらいもの・06)」より)

『檸檬』のラストにおける、画集(タブロー)を積み上げたテーブル(台)の上での「果物」(「黄金」)と「爆弾」の遭遇――これは「解剖台の上でのミシンと蝙蝠傘の偶発的な出会い」(「マルドロールの歌」ロートレアモン伯爵)に匹敵する「事件」ではないでしょうか。

「解剖台」はフランス語の原文では une table de dissection だそうですが、そう考えると、この「台」どうしの「出会い」もまた象徴的に思えてきます。

*奇体、落ち、微笑

 この掌編はどう終わっているでしょう。

 私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉みじんだろう」
 そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極を下って行った。
(p.21)

 想像から現実にかえった「私」の目に映るタブロー(活動写真の看板画)に「奇体」――「きたい」でしょうが「けったい」と読みたいところです――という形容がなされていることは示唆的です。話の落ちにも読めます。

 ――それをそのままにしておいて私は、何喰わぬ顔をして外へ出る。――
 私は変にくすぐったい気持がした。「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った
 変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ませた。
(p.21・太文字は引用者による)

 ラスト近くのこの異常なほどの反復の多さは目に付きます。無力感も漂い、やけっぱちにも見える高揚感あふれる語りです。ここだけを読むと戯作の趣があります。

 タブローから逃れるために外に出たら、そこもタブローだった。

 表象に対する紡錘形の立体のささやかな抵抗は、あっさりと表象の圧倒的な勝利に終わる。
 表象に対する物の抵抗は、表象の圧勝に終わる。
 平面に対する立体の抵抗は、平面の制圧に終わる。
 タブローに対するオブジェの抵抗は、タブローによる支配に終わる。
 二次元に対する三次元の抵抗は、二次元による統御に終わる。

(※ヒトはすぐれて視覚的な生き物(視覚的イメージに統御された生き物)だと痛感します。視覚的な錯覚に完璧なまでに支配されているのです。)

 この言葉の身振りは蓮實重彥の言う「安岡章太郎的「存在」」の身振りにそっくりです。

「でありながら、ではなくなってしまう(好きな文章・01)」から引用します。

     *

 こうして安岡的「存在」の多くは、避けようとする身振りそのものによって、避けるべき対象と深く戯れてしまうというパラドックスのさなかに生きることになる。
(蓮實重彥「安岡章太郎論 風景と変容」(『「私小説」を読む』中央公論社)所収・p.176・以下同じ)

 一センテンスですが、これだけでも、「でありながら、ではなくなってしまう」という展開が見られます。「避けようとしながら、避けられなくなってしまう」のですから。

 とはいえ、もう少し言葉を加えてもいいでしょう。

 避けようとしながら、避ける対象と深くかかわってしまう
 避けようとすることで、かえって、相手と深くかかわってしまう

 こういうことって、ありませんか? 上の一文にもある「パラドックス」です。

 簡単に言うと、蓮實重彥の文章に見られる基本的な言葉の身振りなのです。

(引用はここまでです。)

     *

 檸檬をめぐってのけったいな話――私たちも「私」といっしょに「微笑」んでかまわないのではないでしょうか。深刻ぶったり眉根を寄せて読むたぐいの話ではないのかもしれません。

 ほら、フランツ・カフカが例の『変身』の原稿を友人の前で朗読しながら笑ったとかいう証言だか噂もあるではありませんか。

     *

 以上、思いつきとこじつけだらけの話にここまでお付き合いくださり、どうもありがとうございました。

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