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出す、出さない、ほのめかす(『檸檬』を読む・01)

 梶井基次郎の『檸檬』を読みます。引用にさいして使用するのは『梶井基次郎全集 全一巻』(ちくま文庫)ですが、青空文庫でも読めます。

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『檸檬』で檸檬という果物の色はどのように描かれているでしょう? 

「レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈の詰まった紡錘形の恰好も。」(『梶井基次郎全集 全一巻』(ちくま文庫)p.17・ルビの省略は引用者による・以下同じ)というふうに、言葉を費やして間接的に書かれています。

「レモンエロウ」(レモンイエロー)はあくまでも絵の具の色ですから(さもなければ同語反復的な形容になり見栄えが悪くなります)、ずばり黄色という言葉を出していないという意味です。檸檬というと黄色という言葉をたちまち連想し、檸檬という漢字二文字を見ただけで黄色が目の前に浮んでくる私としては意外な気がします。

 意外なのは、それだけではありません。檸檬と言葉が初めて出た段落に三つ、その次の段落に一つ、計四つ出てから、檸檬が忽然と姿を消すのです。これは目立ちます。そもそも檸檬は画数の多い漢字二文字で存在感があるのに、それがいきなり消えるのですから。

「ない」ためにかえって目立つ。conspicuous by one's absence という英語の慣用句を思いださずにはいられませんが、文学作品ではけっして珍しいことではありません。「出さない」というのは一つのテクニックと言えます。

※このことについては、「「ない」に気づく、「ある」に目を向ける」で書きましたので、よろしければお読みください。

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「その果実」(p.18)とか「それ」(p.18)というふうに、別の名詞に置き換えたり、指示代名詞によって示されたり、あるいはどう考えても故意に省略されていたり(pp.19-20)、「重さ」と「重量」(p.19)という具合に比喩を用いた置き換えによってほのめかされたりするのです。

 檸檬を買った果物屋から街に出た「私」が「昂奮に弾んで」(p.18)、あちこちをさまよいながら空想の世界に遊んでいるのですから、檸檬という具体的な記述を避けたとも考えられます。そうであれば、このいわば檸檬隠しは文学的な技巧と言えるでしょう。

 その「私」が丸善に入り、画集の棚のあるコーナーで「アングルの橙色の重い本」(p.24)をいったん手にしそれを置いてしまう場面があります。ここで「橙色」が出るのは伏線と取ってもいいと思います。いきなり檸檬を出さないのです。檸檬の代わりにそっと蜜柑を出した趣があります。

 伏線と言えば、この掌編の冒頭近くの第二段落で、「向日葵」(p.14)が出てきますが、あれも檸檬の伏線だという気がします。

(ここで、念のために言い添えますが、いましているのは「檸檬」という文字と言葉が喚起する色のイメージの話です。小説とは、あくまでも文字(言葉)を組み立てて作る作品なのです。それ以上でもそれ以下でもありません。したがって、いま述べた「向日葵」とは文字(言葉)のことであり、向日葵というもののことではありません。)

『檸檬』というタイトルで檸檬が出てくるのは誰でも想像できるわけですが、檸檬という文字が出てくるのは作品の中ではずっと後なのですから、読者へのサービス的な伏線でしょうか。

 その少し後に花火の話になるのですが、そこで「あの安っぽい絵具で赤や紫や黄や青や」(p.14)とあったり、さらに進んで「赤や黄のオードコロンやオードキニン」(p.15)という記述があるのを伏線と見る人もいるかもしれません。私もそんな気がします。

 こうした箇所がないとすれば、色の喚起力の強い檸檬という言葉をタイトルにした作品としては味気ないし弱くなる気もします。

 伏線というのは読者にサービスしながら興味や関心を宙吊りにする形で維持する、つまりサスペンスを盛りあげる技巧ですから、少なくとも小出しにしながら色をそえることで、読者がいだくであろう檸檬への関心をつなぎとめているとは言えるでしょう。

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 いっぽうで、「出さない」テクニックも冴えます。

 果物屋が登場してからの描写を読んでいると、きょくたんに色彩が乏しくなるからです。色が出ても暗いのです。「果物」「青物」「美しさ」「美しい」「色彩」(p.16)という言葉は出ますが、直接的な色としては「黒い漆塗りの板」(p.16)くらいなのです。

 そのなかで、「人参葉の美しさなどは素晴らしかった」(p.16)は際立ちます。色を出さずに色を感じさせているのですから脱帽です。

 色のない描写のなかで鮮やかな色がとつぜん目に浮びます。浮ぶのはニンジンの色と葉の色ですから、そのコントラストにはっとしないではいられません。

 この段落につづく段落は果物屋の夜の光景なのですが、ここでは明暗のコントラストが効果を上げています。

「飾窓の光」⇒「妙に暗い」⇒「暗い」(ここまではp.16)⇒「暗い」(ここからはp.17)⇒「暗かった」⇒「暗く」⇒「真暗」⇒「真暗」⇒「幾つもの電燈」⇒「絢爛」⇒「照し出されている」⇒「裸の電燈」

 色彩に欠けた明暗のコントラストの描写が終わり、次の段落になって初めて「檸檬」(p.17)が出てくる、しかも続けて三回出てくるのです。

 その登場の仕方を魔術的だと形容する人がいても驚きません。じつにうまいと思います。

 そして、さきほど述べたように、檸檬がとつぜん消えるのです。

 くり返します。

 檸檬と言葉が初めて出た段落に三つ、その次の段落に一つ、計四つ出てから、檸檬が忽然と姿を消すのです。これは目立ちます。

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 消えたあと、次のように再び登場します。ラスト近くです。

「あ、そうだそうだ」その時私は袂の中の檸檬を憶い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試して見たら。「そうだ」
(p.20)

 上の段落のあとに二段落あって、そこには「赤くなったり青くなったりした。」という記述があり、檸檬という言葉が一回使われますが、檸檬の色を指す言葉はありません。

 そして、次の段落では「見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の諧調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。」とあるものの、黄色という言葉は依然として出てこないのです。

「檸檬=黄色」――あくまでも「檸檬という文字・言葉」と「黄色という文字・言葉」の組み合わせという意味であってそれぞれが指ししめすもの同士の組み合わせではありません――という紋切型を作者は拒否しているのではないかと考えたくなるほどです。

 ラストの「私」の「想像」の中で、とつぜん色が登場します。

「丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛て来た奇怪な悪漢が私で、」(p.21)というフレーズに出てくるその色の中に「黄」がちらりと見えて、私はあ然とします。

 決まり文句と紋切型のイメージに染まった私の頭も「粉葉みじん」に砕けてしまうかのようです。

「神」という言葉を使わないで、神を書いてみないか? 家族を登場させないで、家族を描いてみないか? ――「描写・反描写」という記事でも触れたのですが、こんなことを言った人を思いだします。

「白」という言葉を使わないで雪の話を書いてみたくなりました。

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 本日三月二十四日は梶井基次郎の命日です。檸檬忌と呼ばれてもいますね。

 この記事では意識的に長い引用を避けました。『檸檬』はさまざまな形で出版されています。近くに『檸檬』がありましたら、ぜひ読んであげてください。青空文庫でも読めます。

 作家にとっては作品を読むことが何よりの供養になると信じています。

『檸檬』はとても短い作品ですが、さまざまな読みが可能です。次回も『檸檬』の感想文を書くつもりでいます。

 ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。

 合掌。

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