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描写・反描写

 今回は二部構成です。まず以下の目次をご覧になってから、お読みください。長い記事ですが、太文字の部分だけに目をとおしても読めるように書いてあります。


◆描写

*純粋な描写


 学生時代の話ですが、純文学をやるんだと意気込んでいる同じ学科の人から、純文学の定義を聞かされたことがありました。

 ずいぶん硬直した考えの持ち主でした。次のように言っていたのです。

・描写に徹する。
・観念的な語を使わない。たとえば、神、愛、心、魂、真理、真実、心理、(哲学的な意味での)存在。
・固有名詞、とくに著名人や名所の名前はできるだけ避ける。
・決まり文句と定型を退ける。
・比喩を使わない。

 たしかこんな観念的なことを熱っぽく語っていました。

     *

 いまこうやって思いだして書いてみると、魅力的なスローガンに見えてきます。そんな文章を書いてみたいという気持ちになるのです。

 それどころか、自分の中で理想とする文章があるとすれば、まさにそうしたものではないかとすら、思えてくるのです。

 透明な文章、零度の文体、純粋な写生文、なんていう言葉とイメージが浮かんできます。

     *

 そういえば、その人について思いだしたことがあります。

「神」という言葉を使わないで、神を書いてみないか? 家族を登場させないで、家族を描いてみないか?

 そういう意味の誘いを受けたこともありました。もちろん、受け流しましたが。

 面白い人であることは確かでした。いまどうしているのでしょう。会ってみたくて仕方ありません。

     *

 雨が降ったら「雨が降った」と書け――。そう言った作家がいたそうです。

 雨が降った。

 どうでしょう? 素直な描写でしょうか。

 日記の「○月○日、○曜日。雨、ときどき曇り。」という記述こそが、もっとも簡潔で素直な描写かもしれまん。

     *

 たとえば、雨という言葉をつかわずに雨を描写するという作文の練習があるそうです。

 考えられるのは、次のような文です。

1)朝起きると、いやにじめじめした感じがする。布団も空気も、自分の匂いまでも。

2)外を駆けていく子どもたちの足音がした。もう午後三時を過ぎている。バイト先に傘を忘れたのを思いだした瞬間、立ち上がる気持ちが失せた。

 1)は湿度と嗅覚で、2)は聴覚と物で、雨の気配をあらわしているようです。

     *

 雨が降る。雨が降っている。雨が降った。

 こうした言い方は誰が作文しても、借りた文章になります。借文という言い方があるそうです。

 言葉は誰もが生まれたときにすでにあったものです。誰もが真似て学んでいくわけですから、誰にとっても言葉と言葉の組み合わせは借り物になります。

 言葉が借り物だということは、みんなで同一の物を共有しているというあ然とするしかない事実に行き着きます。

 比喩的に言うなら、みんなで同じ歯ブラシをつかっているようなものです。

 この点については、拙文「わける、はかる、わかる」の「まったく同じもの」で書きましたので、よろしければお読みください。

     *

 とはいうもものの、著作権というものがあり、人は著作権によって保護されてもいます。

 オリジナリティというのは、文字の組み合わせである文字列の長さの問題なのでしょうか。

 小説であれ、ノンフィクションであれ、そこそこの長さのものを見て、オリジナルかどうかが判断されているとしか考えられません。

 短い定型詩では大変だろうと想像します。

     *

 noteではタイムラインに「今日のあなたに」という記事の紹介が出ますが、マッチングアプリみたいでどきどきします。

 あれをたどって記事を見に行くことがよくあります。あと、ぜんぜん知らない人からスキをもらうと見に行くのですが、そのときに最近心惹かれるのが、純粋な写生文なのです。

 淡々と行動をつづった記事、風景や物を簡潔に描写した記事、製品や仕組みの説明文に惹かれます。

 そうやって出会って、私が気に入り感動した記事には共通点があります。スキが少ないことです。

 残念な気持ちと、それいいのだという思いの両方をいだきます。

     *

 レトリックだけでなりたっているような文章を書きたいと思う時があります。

 内容なんて無い様なもので、物と事の有り様がきわだつ。ただ言葉の形と模様と動きだけがきわだつ文章。そんな文章は「ありえない文章」と言うべきでしょう。

 レトリックだけでなりたっているような文章を書きたいと思う一方で、レトリックをできるだけ排した描写文を書きたい気持ちがあります。根強くあるのです。

 いま書いた文ですが、「根強くあるのです」は不要です。これが私の言うレトリックの一例です。でも、そう書いてしまうのです。

 気質なのでしょうか。「気質」のように観念的な言葉で片づけてはならない気もします。自己暗示にかかるからです。

     *

 明治時代以前の日本の伝統的な絵画では、絵画の絵画という描き方があったそうです。

 物を見て描くのではなく、自分の属する流派の先行する作品を見てそれを真似て描くという方法らしいのです。

 西洋の絵画でもこうした描き方があったようですね。詳しいことは知りませんが、興味深い話です。

 文章でも、先行する文章や同時代の既存の文章を読むことで書き方を真似て覚えるということがあります。

 読まないことには詠めない。読まないことには書けないのです。

     *

 絵画の絵画というのは、文学でもあります。

 私は詩を書けず、詩には詳しくないのですが、noteに来てから読むようになりました。

 詩でいうと、詩の詩みたいな詩があるように感じます。詩というもの感、詩っぽさ、詩らしさが漂う作品のことです。

 概念や観念が先行するという言い方がありますが、イメージが先行している気がするのです。

 やってる感だけといえば、失礼ですが、その感は否定できません。

 詩が書けない、詩を知らない者が外から見た感想ですので、ご勘弁願います。

     *

 詩に限らず、小説でも、エッセイでも、評論、批評などあらゆるジャンルで言えるのではないでしょうか? 

 私なんか、その最たるものです。偉そうなことを言って申し訳ありません。

 私はレトリックだらけのエッセイの他に小説を書くことがあります。

 小説ではレトリックは極力避けるのですが、小説っぽさ、文学っぽさというやっている感に満ちた自分の文章に嫌気がさすことがあります。 

 小説の小説、文学の文学になっているのです。先行する作品の「かたち」だけを真似ていると言えば分かりやすいかもしれません。「かたち」はあるが空洞という感じ。

 あくまでも散文の話です。散文が「かたち」を追うようになったらおしまいだと私は思います。

 こういうことは素人の小説を読みなれた編集者が見抜きます。これまでの乏しい経験から言っているだけですが、編集者の中には恐ろしい目をした人がいます。

 ただし、自費出版系の企画の編集者は、たとえ見抜いたとしても、いま述べたようた欠点の指摘はしませんのでご注意ください。

     *

 小説っぽさ、小説感、詩っぽさ、詩感、文学っぽさ、文学感、哲学っぽさ、哲学感、芸術っぽさ、芸術感。

「ぽさ」と「感」だけに感じられる文章があります。感じるだけですから、印象です。個人的なものですから、検証不能です。

 似たもの、似せたもの、似せもの、にせもの。区別不能。

 コピーのコピー、複製の複製、振りの振り、刷りの刷り、引用の引用.。

 複製拡散時代では、本物と偽物のさかいが不明。起源や本物の意味も消失。

     *

 名前と名詞は恐ろしいです。たとえば、哲学という言葉がちりばめらた文章、哲学というタグのついた文章があると、そこに哲学があると感じてしまうのです。

 必ずしもそうであるとは限らないのにです。たとえば、日記というタグの文章に哲学を感じることが私にはよくあります。

 タグやジャンルは、ある意味罪なものです。レッテルの強さにはなかなか勝てません。

 書いているものが文章ではなく、ぽさ、らしさ、的になってしまうのは、レッテルつまり名詞と名前のとてつもない強さがあるからです。

     *

 あなたがいま何かを書いているとします。

 これを書いたら詩らしくない(小説らしくない、文学らしくない)のではないか――。

 こういう書き方をしたら、詩的ではない(小説的ではない、文学的ではない)ではないか――。

 そんな思いがあるとき、イメージとレッテルに流されているのではないでしょうか。

 ものを見る、考える、言葉を選ぶ、言葉をつづる。そうした地道で具体的な作業から離れているのではないでしょうか。

 イメージやジャンルの名称や顔の見えない誰か(たち)に忖度して、ものが書けるでしょうか?

 以上は私が自分に言い聞かせている言葉です。

     *

 小説っぽさ、小説感、詩っぽさ、詩感、文学っぽさ、文学感、哲学っぽさ、哲学感。

「ぽさ」と「感」はイメージであり印象です。イメージや印象はコピーのコピーなのです。

 そこには本物と偽物のさかいはありません。起源や本物も意味をなしません。これが複製拡散時代なのでしょう。

 よく考えると今始まったことではなく、人が言葉を持ったときにもう始まっていた気がします。

     *

 事物や光景を見て、それをその場で言葉にする。あるいは記憶をたどり定型を退けながら、それを言葉にしていく。

 まさか。それは抽象でしょう。共有物である言葉には既にさまざまな垢がこびりついています。しかも、その垢は見えません。

 それだけでは済みません。他者(多数います)は言葉ではなくその垢を読んでしまいます。それが「読まれる」です。ままならないのです。

 純粋な描写。これは理想でないでしょうか。その意味ではありえない文章だという気がします。

 私の言う純粋な描写とは、たぶん、小説っぽさ、文学っぽさから遠く離れたものであるかもしれません。

 ありえません。夢なのです。

     ◇

*文章のたたずまい

 たたずまいという言葉が好きです。佇まいという表記は好きではありません。やっぱり「たたずまい」のほうがいいのです。

「たたずまい」は、なにか、こう、すっと立った感じがして、その字面をながめていると敬虔な思いにさえなるのです。

 言葉の持つ、音としての響きや姿形としての字面を無視するわけにはいきません。少なくとも私にはそうです。

     *

 たたずまいを辞書で調べると、たたずむから来ているとあり、納得しました。ずっと立っているという意味です。

 辞書で「たたずみ歩く」という言い回しを知ったのも収穫でした。

 辞書を引くと必ず例文を見ます。言葉はその使い方で覚えていきたいのです。

「たたずみ歩く」はたぶん使わないと思います。「たたずむ」と「たたずまい」はこれからも積極的に使ってみたいです。

     *

 すっと立ったような文章に憧れます。説明しにくい気もしますが、何とか言葉にしてみます。

 すっと立って自立していて、何かに寄っかかっていない。姿勢はいいのですが、直立不動とは違います。

 たたずまいは自然なのです。

 立つ、そして立ちつづけるためには、力が要ります。筋肉に力が入って、それを維持していないと立ってはいられません。

 立つという動作と姿勢は、ある意味不自然なのです。緊張が走り、神経が張りつめた状態で立っている気がします。

 さもないと力が抜けて倒れそうです。

 また、「立つ」は見せる行為でもあります(一方の「横になる」は人前でする行為ではありません)。

 立って、見てもらいたいのです。できれば褒めてもらいたいのです。

     *

 すっと立った文章も、ある意味不自然なのです。無理をしているところがあります。

 それを緊張感という言葉で呼んでもいいかもしれません。緊張感のある文章というわけです。

 文章に緊張感が漂っていれば、読むほうも緊張するのではないでしょうか。「読む」は「書く」をなぞることだという気がします。

 とはいうものの、文章は読み飛ばされるのが普通ですから、きちんと読まれるとすれば、それは幸せな文章だと思います。

 すっと立った文章というのは印象です。私の個人的な思いでしかありません。それだからこそ、なぞるようにきちんと読みたいのです。

     *

 すっと立った文章の例としては、志賀直哉の短編と夏目漱石の晩年の随想的な作品を挙げたいと思います。

 具体的には志賀直哉の『焚火』と『流行性感冒』、漱石の『硝子戸の中』と『永日小品』です。

 直哉の文章には純粋な描写を感じます。すっと立ちすぎてその意味が消えてしまうのです。ただ言葉にされているという感じ。危ういのです。

 漱石の文章は知的です。書きなれているし、計算もされている気がします。うまいのです。見事なのです。

 直哉の文章のたたずまいは、きりっとしています。一方の漱石の文章のたたずまいはというと、じつは漱石は寝ています、横になっているのです。「横たわる」こそが、漱石の文章の身振り、つまりたたずまいです。

 漱石の小説では、主人公または主要人物がやたら横たわります。横たわって初めて出来事や事件が起こり、物語が進行するのです。そして、その物語を伝達する役割をになった人物(※あるいは動物)が登場します。

 いま述べたことはぜんぶ蓮實重彥著『夏目漱石論』からの受け売りです。

     *

 描写を感じる文章をもっと挙げてみます。

 川端康成の『山の音』は点描という点で素晴らしいと思います。要所要所を簡潔に言葉にしているのです。無駄のない職人芸を感じます。

 東野圭吾の『白夜行』の文章も好きです。他の作品も読んだことがありますが、この小説の文章は手本にしたいくらい描写がしっかりしていると思います。

 あと松本清張の『砂の器』の文章も優れた描写が多いと感じます。清張の作品では初期の短編である『張込み』の文章は何度も読みました。これは、まさにすっと立っているのです。

 吉田修一は欠点だらけの普通の人たちを描くのがうまいのですが(文学っぽい人があまり出てこないのです)、長編『怒り』に見られる多視点の描写が好きです。伏線として回収されるかどうかを無視して、細部を自由自在に読んで楽しんでいます。

     *

 私の言う純粋な描写とは、たぶん、小説っぽさ、文学っぽさから遠く離れたものであるかもしれません。

 私はジャンルにはあまり関心がないのですが、いわゆるミステリー作品とされている小説にすっと立つ文章や優れた描写があると感じます。

 ミステリーにくくられる小説を、ストーリーや謎解きとか伏線には注意を払わず、部分的に好きな箇所を何度も読んで楽しんでいます。

 たぶん、ミステリーと呼ばれている作品には「小説っぽさ」や「文学っぽさ」というか、いかにも「これは小説ですよ」とか「ね、文学ぽい内容(テーマあるいは文体)でしょ」という要素が少ないから、そこに純粋な描写を感じるのかもしれません。

 感じるだけですから印象です。個人的な思いでしかありません。

     *

 ここまで書いてきて、すっと立った文章とは、語っていない文章であり、歌っていない文章ではないかと思えてきました。

 書き手の声が感じられないとも言えます。声はレトリックです。書き言葉での描写には、ときとして声が邪魔になります。

 声とは、〇〇節(ぶし)という感じの雰囲気とかイメージとか〇〇っぽさのことだとも言えます。

 文章に節(ふし)とか節回しとか口調があるのです。私にはこれが邪魔でならないのです。

     *

 私には描写ができません。

 これは私の文章を読めば、一目瞭然なのです。この数日間に私が投稿した記事をご覧ください。一行も一文も一フレーズも描写がありません。

 ものを見ないで言葉と文字列だけを見ている者に描写ができるわけがありません。

 歌うな、語るな、節をつけるな、節と筋に流されるな、筋に運ばれてはいけない。いまはそう自分に言い聞かせるしか方法を知りません。

◆反描写

*偶然にまかせて書く


「言葉を魔法」というタイトルのシリーズで記事を書いていたことがありました。「言葉は魔法」と書くと、すらすらと文が出てくるので、書いていました。おまじないの言葉だったのです。

 何が出てくるのかというと、「言葉は〇〇」というフレーズなのです。それがまた文を出してくれるのです。おもしろいように書けました。

 なぜかすらすら書けてくる、なぜか言葉が出てくる、何かに任せている自分がいる、何かに任せた結果として言葉が出てくる。

 出任せで書く、つまり出るに任せる。自分が書いているとは思えない。

 そんなこと自体をテーマに記事を書いたこともありました。言葉はジャズとか、言葉はアドリブという感じ。

 まさに言葉は魔法。

     *

 何かに任せるというのはワンコがよくやるへそ天に似ています。仰向けにおへそを天に向けて、手は結んで――結わえるではありません――肱を曲げる。足も曲げる。

 どうにでもしてちょうだい。すべてお任せします。任せることは負けることなのです。全面降伏。

 いわば、そんな心もちで書いている気がしました。何に任せているのかは分かりません。それを考えると、その状態がなくなるような気がするので、よけい考えなくなります。

 自分を無にするのです。でも出てくる。言葉が出てくる。文が出てくる。それが積み重なって文章になる。

 自分が「無」なんてことはなく――空っぽではありますが――、そんな気がするのだと思います。

 自分の中にはこれまで学習した言葉と言葉の組み合わせが詰まっているはずです。それが何らかのきっかけで出てくるのだろうと考えられます。

     *

 無から有は生まれない。言葉について言えば、そんな気がします。

 話しかけると答える箱。そんなブラックボックスのようなコンピューターというかアプリというかシステムがあるそうです。

 たくさんの言葉と、たくさんの組み合わせが入っているはずです。その組み合わせは、人の問いかけや人が投げた話に答え、期待や思惑に応えるものでなければならないでしょう。

 まるで人間と話しているかのような気持ちにさせる箱がこれまでたくさん作られてきたようです。いろいろな呼び名があります。

 人名と同じ名前が付いている箱、つまり機械もあります。これは欧米に多いようです。文化や風土の違いでしょうか。ハリケーンに人名を付ける行為を連想します。

 それぞれの機械は、その開発者たちの個性が反映されているとも言えそうです。機械によって、学習した内容が異なるという意味です。

 文は人なり。機械は人なり。たしかに機械は開発者の作品とも言えます。著作権とか特許もあるはずです。

 ある言葉を投げてみると、機械ごとにいろいろな反応があるのにちがいありません。それぞれ癖があるのです。開発者たちの個性だけでなく、意図や目的も織りこまれているはずです。得手不得手もあるでしょう。

 いまでは詩をつくったり、俳句を作ったり、小説を書いたりする機械もあるそうです。作曲や囲碁や将棋ができる機械の存在は、みなさんご存じのとおり。

 そのように作られているわけです。最近では自主的に学習する機能を備えたものもあると言います。

 学習したこと、教えられたことしかできなかった機械が、自分で勝手に学習するようになったそうです。

 まるで人間のように、ためらったり、おどおどしたり、言葉に詰まったりするロボットをテレビで見たことがあります。おもしろいし、怖くもあります。中には腹を立てる人もいそうです。

     *

 なぜ怖く感じるのでしょう。なぜ腹が立つのでしょう。

 自分が脅かされている。自分が否定されるのではないか。このふたつの気持ちが大きい気がします。

 機械の分際で。生意気な。そういう心理もあるはずです。

 ある日とつぜん、自分の勤め先から、あなたはもう必要がなくなったから辞めてほしいと言われたときの気持ちを想像してみましょう。

 悲しいし、理不尽さに腹が立つにちがいありません。この先どうやって食べていけばいいのだろう。家族はどうなるのか。切実な問題です。さらに言うなら、生き甲斐もなくなるでしょう。これはつらいです。

 自分が否定される。自分の存在と存続が危うくなる。

 解雇の理由が、誰かでなく、機械だとしたら。自分より優秀な誰かではなく、自分より優秀な機械だとしたら。

 悪夢でしょうね。

 ありえない。機械の分際で。生意気な。

 だいいち、機械には心がこもっていないではないか。機械のやること、書くことなんて、偽物、フェイク、まがいものだ。

 最後はやっぱり心。思いやり。そして血の通った体。機械には思いやりは不要。感情も気持ちも心もないから。そもそも血も涙もない。

 欠点を指摘すると、それがたちまち改善される。あら探しが相手の進歩への奉仕になる。しかも二十四時間ぶっ続けに働いても疲れない。

 相手は機械ですから否定できません。悪態をついても動じません。仕方なく理詰めで批判すると、それを糧にして自分で学習しさらに向上するのですから、無力感に襲われます。

 いっそ欠点や批判めいたことは何も言わないのがいちばんいいのかもしれませんね。相手を利するだけです。無視しましょうか。いないことにしましょうか。

 そんなわけにも、まいりません。

 機械に取って代られるなんて、そんな馬鹿なことがあるわけがない。そもそも許されていいものはない。禁止するしかない。

 なにしろ、誰かならいつか死にますが、機械なら簡単には死にそうもありません。下手をするとこれから先ずっと生きています。しかも進化し続ける……。

 自分の出番が永久になくなるという意味です。不安になり、腹が立つのが人情でしょう。私だってそんなの嫌です。

     *

「言葉は魔法」を書いていたときに、言葉のサイコロとか、ダーツで言葉を当てて書くなんて考えてことがあります。一種の実験です。

 偶然に任せて書くという実験。

 言葉のサイコロとダーツは持っていないので、錐を使いました。新聞を広げて、錐を上からそっと落とすのです。すると何かの文字に当たります。それを使って「言葉は〇〇」と書くのです。

 そうやって作ったフレーズを断片にして、組みあわせて書いた記事なのですが、「詩みたいだ」という意味のことを言われました。

 むなしくなったので、そういう書き方はやめました。

「現代詩」と言われて読んでいた詩が、回文やアナグラムだったときの驚きに似ています。感動した童話が機械の作文だと知ったときのショックに似ています。作者を伏せたまま読まされ駄文だと感じた文章が、ある有名作家の作品だと聞いたときの当惑にも似ています。

 いったん書かれた言葉や文章は自立する、という説を思いだしました。作者はいない、という誰かの言ったフレーズも頭に浮かびました。

     *

 偶然に任せて書くというのは、私がこれまでにずっとしてきた駄洒落に導かれて書くというのとよく似ています。そっくり、激似です。

 例を挙げます。

Ⅰ.「きじゅつ」

 記述は、既述であり、奇術であり、詭術でもある。
 つまり、言葉をつかって「しるす」行為つまり記述は、すでに何度もしるされた言葉や言い回しを「なぞる」ことで、言い換えると既述であり、そもそも言葉ではない事物や現象を、もっともらしく言葉に置き換えて「描写しました」とか「説明しました」と澄ましているという意味で奇術であり、ひいては語ることで騙る、要するに人を「だます」のですから詭術である。

Ⅱ.「かける」


 何かに追いかけられて必死で走る夢を見たことがありませんか。走っても走っても走ってないようなのです。一生懸命に(命を懸けて)足を動かし手を振っているつもりなのにぜんぜん進んでいないのです。つまり、あがき、もがいているだけ。
 これは駆けても駆けてもじつは駆けていないとも言えます。賭けても賭けてもじつは賭けていないと激似ではありませんか。じつにもどかしいです。
 気に掛けても掛けてもじつは掛けたことにはならない。絵が描けても描けてもじつは描けてはいない。絵を描いても描いてもじつは描けてはいない。文章を書いても書いてもじつは書いていない。

 以上のような書き方です。

 言葉の顔色と出方をうかがいながら書いている感じです。自分が書いているという気持ちは希薄です。

 駄洒落はきっと降ってくるのです。降りてくるのです。いま思わず天井を見てしまいました。

 まさに賭けているのです。ギャンブルです。何かにお任せしながら、パチンコをしているのと似ています。

 その何かは不明です。

 賭けて書けたものだという思いだけがあります。体感で言うと、「ああ、出た」とか「あは、出てしまった」です。

     *

 人の意識と無意識は流動的だと考えられます。一様で一定してないということですね。自分が無になって書いていると感じているときには、無意識が大きくなって、そのぶん小さくなった意識のところだけが覚めている感じ。

 だからぼーっとしているのでしょう。その状態でも、無意識は眠っているわけではなく動いているのでしょう。働いているのでしょう。

 自動車の運転とか、ゲームの操作なんかがそうかもしれません。ある部分だけが動いている。これは一種の集中でしょう。肝心な部分は覚めているから、運転ができるし、ゲームができる。

 ありとあらゆる情報が頭に入ってきたら、集中なんてできそうもありません。脳には容量と処理能力に限界があるからです。機械とは、そこが異なります。

 何となく書けてしまうというのは、難なく書けているようで、じつは何となく賭けているのではないでしょうか。へそ天で顎でも掻きながら、書けている。

 難なくではなく、何となく。これが賭けだと思います。

 文章を書く機械が、賭けているのかどうかは不明です。それでも書けています。

 機械も何かに任せて書いているにちがいありません。その何かが人だとは思えません。人が「あるじ・ご主人さま」ではないという意味です。全面降伏はしていないもようです。

     *

 この記事は、なるべく自分を無にしてだらだら書いてみました。こんな駄洒落だらけの駄文は機械には書けないだろうと高をくくりつつ。

     ◇

*駄洒落と比喩と掛け詞

 私は駄洒落が好きです。年を取るとよけい好きになるようです。老化のあらわれなのかもしれませんが、昔からそうだったような気もします。

 記憶が定かでなくなり、何でも「昔」なんて大ざっぱな言葉で総括することが老化じゃないの?

 最近、被害妄想じみた幻聴っぽいツッコミを自分でするようになりました。

――妄想じみたどころか、もうそうですよ。

――やっぱり、もう、そうでしたか。この妄想が妄想であってほしいものです。

――……。

     *

 思うのですが、駄洒落と比喩の根っこは同じではないでしょうか。かけ離れたもの同士を、言葉がつなぐという点では同じだという意味です。

 アルミカンの上にあるミカン。
 パンダが食べるのはパンだ。

 有名な駄洒落です。

 アルミ缶とミカン、パンダとパンが頭の中で二重写しになります。音として、そしてイメージ(絵)として二つの要素が頭の中に浮かぶということですね。

 その結果として「おもしろい」、あるいは「くだらない」という判断が下されます。

     *

 君は薔薇のようだ。(直喩)
 君は薔薇だ。(隠喩)

 これが比喩ですが、いまどき薔薇にたとえられて喜ぶ人がいるでしょうか? 陳腐な例で申し訳ありません。

 とにかく、人間である「君」と「薔薇」が頭の中で二重写しになる点が、駄洒落と同じです。

 結果として「おもしろい」、あるいは「くだらない」という判断が下される点も、駄洒落と比喩は同じです。

 君は、うちの庭に咲く赤い薔薇のようだ。
 君は、ベルサイユ宮殿の庭園の隅にそっと咲く赤い薔薇だ。

 比喩はエスカレートします。駄洒落もエスカレートするでしょうね。やはり、うざいと思われるか、うっとりされるかという判断が下されます。

     *

 かけ離れたもの同士が言葉がつながり、二重写しになる。それを誰かが「いいなあ」とか「なるほど」と感じれば、成功した、あるいは受けたことになります。「アホか」とか「くだらない」という印象を与えれば、失敗した、あるいはすべったことになります。

 芸の道は厳しいようです。修業を積み、場数を踏むしかありません。才能もあるでしょう。運不運もあるにちがいありません。

 何らかの賞を受賞して、活動の場が与えられると「化ける」人がいますが、私はこの「化ける」こそが最強のマジックだと思います。

 化けそこなった人はみじめです。じつにみじめです。

     *

 なんで比喩とか駄洒落が成立するのでしょう?

 物や事や現象が多面的だからだと思います。それを言葉が一瞬だけ、すくい取るのです。

 アルミ缶とミカンで考えてみましょう。

 アルミ缶とミカンは別個のものです。類似点は見られません。違うという意味です。でも、言葉として見ると、音が似ている、詳しく言うと一部同じなのです。

「違う」と「同じ」が出会います。アルミ缶とミカンという言葉の類似が、アルミ缶とミカンという異なる物同士を結びつけたのです。

 あとは、それを見聞きした人がどう感じるかだけです。要するに印象の問題なのです。判断するのは人ですから、この出会いつまり類似は検証はできません。見聞きした人の頭の中で判断が決まります。

 頭の中でアルミ缶とミカンを一瞬思いえがき、同時に音の類似を意識し、「おもしろい」と感じるか「くだらない」と感じるか、です。

 どちらにせよ、アルミ缶とミカンの数々の特性の中で、音の類似、つまり言葉として似ているという点が、一瞬両者をつないだのです。簡単に言うと、言葉が事物同士を一瞬つないだのです。

     *

 君(人間)と薔薇(植物)で考えてみましょう。

 君という人間と薔薇という植物の間の類似は何でしょう。ここでは「美しさ」でしょうね。美しいと思っていなければ、そもそもあんな言葉は出てこないわけです。心にもないことを言っていなければの話ですけど。

 言われたほうが、「まあ、うれしい」と感じれば成功です。また、第三者が、その言い方を見聞きして「なるほど」とか「分かる、分かる」と感じれば、これも成功です。

「君」という人間も「薔薇」という植物も多面的な存在です。つまりいろいろな特性があるという意味です。その特性のうちの「美しさ」という点が類似として、両者をつないだと言えます。

 それが言葉として表されているのです。それが言葉として立ち現われているいるのです。

     *

 このように、言葉がふたつの事物をつなぎ、言葉として存在しているのが、比喩であり駄洒落なのです。それが人の頭の中で絵として一瞬浮かぶこともあるのです。

 両者を、それぞれ言葉とイメージと考えることもできるでしょう。

 アルミ缶とミカンがいっしょになっている絵を思いうかべてみてください。シュールですね。滑稽だと感じる人もいるでしょう。滑稽だと感じた人はたぶん笑うでしょう。それが「受けた」という証左になります。

 君と薔薇の場合であれば、絵として頭に浮かべて、「絵になるなあ」と相手が感じれば「受けた」というエビデンスと言えるでしょう。

     *

 言葉は事物をつなぐキュービッドだと言えそうです。

 比喩や駄洒落や掛け詞は、詩歌で古くから用いられてきた技巧です。この技巧をレトリックと呼ぶ人もいます。

 言葉は偶然の出会いを生む。「と」は偶然の出会いをつかさどる愛のキューピッド。

 ロートレアモンの詩『マルドロールの歌』に「解剖台の上でのミシンと蝙蝠傘の偶然の出会い」という有名な一節があります。この言葉で泉鏡花の『外科室』を想起する人は私だけではない気がします。

 ミシンと蝙蝠傘という組み合わせは奇抜でシュールであり、偶然の出会いという言葉は素敵なイメージですね。

     *

 駄洒落、比喩に加えて、もう一つの偶然の出会いである掛け詞を見てみましょう。私は詩歌にはうといので、自分の知っている例を挙げます。

小ぬか雨降る御堂筋


 これは以前にヒットした歌の歌詞の出だしです。※「雨の御堂筋」、作詞:林春生、作曲:ザ・ベンチャーズ、編曲:川口真、歌:欧陽菲菲。

「こぬか雨が降っている御堂筋」という意味に取れます。一方で、「来ぬか、雨降る、御堂筋」とも取れるでしょう。「(あなたが早く)来ないかなあ、御堂筋では小ぬか雨が降っているけど」という感じでしょうか。

 これは私の受けた印象です。印象ですから検証はできません。

     *

あなたを待てば雨が降る
濡れて来ぬかと気にかかる

 これは、かなり前にヒットした歌の歌詞の冒頭です。※「有楽町で逢いましょう」、作詞:佐伯孝夫、 作曲:吉田正、 編曲:佐野鋤、 歌:フランク永井。

 私は、なぜかこの歌が歌えます。数年前に亡くなった母の話では、私が生まれて初めて歌い覚えた「流行歌」だったらしいのです。

「あなたを待っていると雨が降る。(あなたが)濡れて来ないかと、気に掛かる」と取れます。一方で、後半を「(あなたが)濡れて来ないかなあと、小ぬか雨が木に掛かっているのを見ながら、私は気に掛けています」とも取れるような気がします。

 これは私の受けた印象です。印象ですから検証はできません。

 ずっとそう思っていただけで、他の人がそう感じているかどうかは知りません。こういうことを話せる友達がいないので人に話したこともないです。

     *

 掛け詞も懸け離れたふたつの事物を言葉でつなぎます。この掛け詞が意図的なレトリックであれば、書き手は駄洒落や比喩と同じく、賭けるわけです。

 書き手にとっては、受けるか受けないかの賭けです。気掛かりでしょうね。糸で木に掛かっているミノムシのように宙ぶらりん。風任せ運任せ。すべて偶然にお任せということでしょう。

     *

 書き手ではなく、読み手の側から考えてみましょう。

 読むという行為も賭けています。

 そう思うとそう読めてくる。これが読むという行為です。あくまでも受け身的なのです。一方で、勝手に読むと考えると能動的にもなりますが、賭けであることには変わりはありません。

 決め手を欠いているのです。

 これは「そう思うとそう見えてくる」という、トイレの壁や天井の染みが何かに見えてくるのと似ている気がします。つまり、印象なのです。まぼろしと似ています。

 ある意味、妄想みたいなものです。

 妄想みたいどころか、もうそうですよ。

 やっぱり、もう、そうでしたか。この妄想が妄想であってほしいものです。

     *

 言葉を書くという行為においては書き手も読み手も、宙ぶらりんのすべてお任せ状態で賭けているとなると、言葉の一人勝ちという意味でしょうか。

 そう考えると、言葉は自立している気がしてなりません。意志も意思もなく自立しているのです。石のように。人の思惑とも無縁にです。

 外にあって、外からやって来て、外であるもの――。それが言葉です。

 いったん話され放たれた言葉は、そしていったん書かれ賭けられた文字は、宙ぶらりんにそこに引っ掛かっている。決め手を欠いたまま、ただ「ある」としか言いようがない。

 いまは、そんな気がします。

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