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表、目、面

 今回の記事は、「立体、平面、空白(薄っぺらいもの・05)」と「「タブロー、テーブル、タブラ(『檸檬』を読む・02)」」の続きです。

 見出しのある文章は連想でつないであります。緩やかなつながりはありますが、断章としてお読みください。


表、表裏、裏表


 表。ひょう。おもて。あらわす。あらわれる――。

 表を分けてみると、このような言葉とイメージがあらわれてきます。

 いま私が興味を持っているのは表裏(ひょうり)という時の「ひょう」であり、裏表という時の「おもて」です。

 表裏、裏表とひっくりかえって、音読みと訓読みをしているところが面白いです。

 こうしたありように何かがあらわれているのでしょうか。何かをあらわしているのでしょうか。

     *

 表を英語のテーブル(table)と読んでみるのも面白そうです。tableを英和辞典で調べてみると、日本語訳が載っています。載っているのは、tableという英単語の日本語訳であって意味ではありません。

 意味とは目に見えないものです。人の頭の中にしかないという意味の意味として、私は意味という言葉を使っています。

 といっても、これは建て前であり、かなりいい加減な使い方もしているのが現状です。

表、テーブル、台


 以下がtableの日本語訳です。

 テーブル、台、仕事台、作業台、手術台、台状の墓石、食卓、(食卓の上に載る)食べ物、料理、円卓、(会議や交渉の)席、表、目録、一覧表、算数表、九九の表、版、木版、石版、金属板、画板、銘刻文、銘文、碑文、法典、共鳴板、平面、蛇腹、ゲーム台、骨盤、たなごころ(手相)、卓状地、平原、高原、台地、卓上に置く、テーブルに出す、食事を出す、棚上げにする、上程(提案)する
(リーダーズ英和辞典・研究社とジーニアス英和大辞典・大修館を参照)

 英和辞典では、意味に沿って区分けしてありますが、ここでは枠を取っ払って列挙しています。そのほうが、見ていてわくわくするからです。

 分けると分かった気分になり、すっきりしますが、すっきりした分、何かがこぼれ落ちていそうな感じがします。言葉やフレーズを並べる場合には、ある程度、雑然としていたほうが、私の場合にはわくわくするのです。

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 table というタイトルの詩のようにも見えてきます。上の文字列たちが、table という言葉とイメージでつながっていることは確かです。

 目に見える文字としての table という言葉が、さまざまなイメージと意味を担っていて、それがここに開花しているような気持ちにもなります。

 一堂に会した文字列たちが模様にも見えるのです。そして、その模様を成しているのが英語ではなく日本語で使われている漢字やひらがなやカタカナであると気づくと、唖然としないではいられません。こんなことがあっていいのかと疑うほど不思議です。

 表、目録、一覧表、算数表、九九の表――このあたりが表(ひょう)ですが、表(おもて・あらわす・あらわれる)はありません。この辺が英語と日本語の重ならない部分なのかもしれません。

 和英辞典で「おもて」を引いてみると、これまた興味深い英単語がいくつも出てきます。

 目を惹くのは次の単語です。

 surface、head(⇒ tail)、front(⇒ back)、outside、appearance、top(⇒ bottom)、right side(⇒ wrong side)

 対を成す単語やフレーズが興味深いです。「おもて」ですから「うら」が出てきて当然と言えます。

表、テーブル、タブロー


 テーブル(table)に話を戻します。

 以下は、ちょっと前に書いた記事からの引用です。

「Ⅰ――絵画・図表・絵」というフレーズが気になって仕方ありません。
 詳しく言うと、 タブロー(tableau)、テーブル(table)、タブラ(tabula)、タブラ・ラサ(tabula rasa)、タブレット(tablet)、表、文書、木版、絵板、絵画、カンバス、図表、卓、円卓、食卓、手術台、解剖台、高原、大地、共鳴板、手のひら、掌……という辞書の語義による連想が起きるのです。 
(拙文「タブロー、テーブル、タブラ(『檸檬』を読む・02)」より)

「タブロー(tableau)、テーブル(table)、タブラ(tabula)、タブラ・ラサ(tabula rasa)、タブレット(tablet)」あたりが、今いちばん興味のある部分です。 

 こうした言葉とイメージに「表(おもて)」「表裏」「裏表」を絡めて考えてみたいのです。

 私は「おもて」は目があるほうで――比喩的にも現実としてでも――、「うら」は背中とかお尻のあるほうだとイメージしてます。すると、「おもて・面・顔」というふうにつながっていきます。

表、目、日向


 川端康成の文章を引用します。

 二親が死んでから、私は祖父と二人きりで十年近く田舎の家に暮らしていた。(……)度々長い間祖父の前に坐って、一度北を向くことはなかろうかと、じっとその顔を見ていた。しかし祖父は五分ごとに首が右にだけ動く電気人形のように南ばかり向くので私は寂しくもあり、気味悪くもあった。南は日向だ。南だけが盲目にもかすかに明るく感じられるのだと、私は思ってみた。
(川端康成「日向」(『掌の小説』新潮文庫)所収・p.25)より・太文字および丸括弧とリーダーによる省略は引用者による)

 一方的に相手を見つめるという川端康成の癖であり、作品の構造でもある身振りについて触れた箇所です。⇒「葉子を「見る」「聞く」・その1(する/される・04)」

 表(おもて)、面(おもて)、日向(ひなた)、目(め・ま)、眼差し(まなざし)についての示唆的な文章でもあります。

表、表面、平面


 次に江戸川乱歩の文章を見てみましょう。   

 その扁平なものは、多分がくに違いないのだが、それの表側の方を、何か特別の意味でもあるらしく、窓ガラスに向けて立てかけてあった。いちど風呂敷に包んであったものを、わざわざ取出して、そんなふうに外に向けて立てかけたものとしか考えられなかった。それに、彼が再び包む時にチラと見た所によると、額の表面にえがかれた極彩色の絵が、妙になまなましく、何となく世の常ならず見えたことであった。
(江戸川乱歩『押絵と旅する男』(『日本探偵小説全集2 江戸川乱歩集』創元推理文庫)所収・p.439・太文字および丸括弧とリーダーによる省略は引用者による)

 江戸川乱歩の『押絵と旅する男』の奇想は、半立体とも言える押絵なのですが、その半分立体で半分平面である額――ここでは「がく」ですが「ひたい」とも読むところが興味深いです――に「表側」と「意味」(英語の sense に「意味」と「方向」の両方の意味があることを思いだします)があるものとして描かれています。⇒「みんなでいっしょに見る(錯覚について・05)」

 そう言えば、タブロー(tableau)、テーブル(table)、タブラ(tabula)、タブラ・ラサ(tabula rasa)、タブレット(tablet)には、表と裏があり、意味のある表面と意味のない裏面があると言えそうです。

 こうやって見ていくと、裏表は陰陽や暗明や湿乾や寒暖とも重なっていく感じがします。連想は尽きません。見えないはずの意味というものが見えてくるかのようです。

表、意味、無意味


 一枚の絵を思い浮かべてみるとき、上下、左右、高さ・奥行き・深さという要素があることに気づきます。絵を束ねた画集という書物を思い浮かべると、さらに始まりと終わりという要素があることにも気づきます。

 これらは捏造された要素にほかなりません。平面と平面を束ねて綴じたものだからこそ、そうした要素は目立ちますが、現実世界においては、平面上で捏造されたように明確な形では知覚できないないものです。目のあるほうの面を中心にして、人が見てはじめて成立する観念だと言えます。

 いま述べたことは、いわゆる健常なヒトの視覚を優先した世界だけが、現実世界ではないであろうという意味です。いわゆる健常ではないヒトもいます。そもそもヒトとは異なる知覚と認知機能を持った生き物たちにも、それぞれの世界観があるわけですし。

 上と下、うえとした、かみとしも、左右、左大臣右大臣、高さ・高み、奥行きの感じられる作品、深さ・深みというふうに言葉を言い換えてみると、その意味性と象徴性、つまり観念性と抽象性が浮き彫りになるでしょう。

 上下、左右、高さ、奥行き、深さは、幾何学的な意味で用いられるとは限らず、比喩的な意味に転じやすいのです。人には比喩的に物(森羅万象・自然・宇宙)を眺める癖があります。

 たとえば、物や像を見て上下(じょうげ・うえした)を意識するとき、つい上下関係や「かみ」と「しも」のイメージを重ねてしまうという意味です。こうした見方を免れるためには、ヒトであることをやめるしかないでしょう。

     *

 ところで、上の話の中で、上下、左右、高さ、奥行き、深さについて述べながら、表裏には触れなかったのには理由があります。次の見出しの文章でお話しするつもりです。

表、裏、動き


 以下は、蓮實重彥の『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(河出文庫)からの引用です。

それ故、「言説の限界」と意義深い題名を冠された第七章に続く書物の後半部分は、その逆行運動にしたがって文字通り裏側から﹅﹅﹅﹅読まれねばならない。この裏側からという表現をいささかも比喩的なものと捉えてはならない。第二部を通じての「近代」の「認識論的空間」の分析と記述は、第一部が従っていた秩序と完全に逆転したかたちで進行し、両者の関係がまるで鏡の上の反映に酷似して裏側同士が正確に対応しあっている。
(蓮實重彥「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(河出文庫)所収・p.62)

 話を分かりやすくするためでしょう、「鏡の上の反映」を引き合いに出し比喩的に述べられているものの、「この裏側からという表現をいささかも比喩的なものと捉えてはならない。」という点が大切だと思います。

 物理的に「文字通り裏側から」読むようにと促している文章なのです。⇒「立体人間と平面人間」

 表と裏のある貨幣を引き合いに出している、「一呼吸おいてから」、「逆向きに読まれる」、「裏返してみるときに必要な一呼吸」というフレーズは文字通りの体の動きを示しているのであり、比喩ではなく物理的な運動を促していると解すべきだと思います。

つまり、この書物は、一息﹅﹅に読まれるべき同一の言葉からなっておらず、一呼吸おいてから﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅、逆向きに読まれることで始めて書物たりうるという表と裏の構造を担っているのだ。
(蓮實重彥「Ⅲ叙事詩の夢と欲望――ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』を読む」『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(河出文庫)所収・p.150・以下同じ)

ちょうど貨幣を裏返してみるときに必要な一呼吸﹅﹅﹅。「言語」を思考するものたちが奇妙に忘れたふりをしているこの一瞬の停滞と偏差。
(p.158)

立体である書物についての立体である書物


 文字や絵や図のかかれている紙面や画面という表面を前にして、かかれているものを上下と左右に目で追うことは容易にできます。錯覚を利用することで平面上に捏造された高さや奥行きや深さに視線を注ぐことも簡単にできます。

 ところが、裏側を見るためには、視線の動きは有効ではありません。対象を裏返すか、裏に回るという形で自分が物理的に動かなければ、対象の裏側を見ることはできないのです。

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 蓮實重彥の『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』は、いま述べたことに十分意識的であり、その前提に立って、紙面を束ねて綴じた立体物である書物について論じている書物です。

 反復した言い方になりますが、『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』は「立体としての書物」をめぐっての「立体としての書物」だと私は思います。

 立体としての書物を読むとは、平面上の文字列(直線)に沿って目線を動かすだけの運動ではない、目線は直進するだけはない(左右、前後、上下へと動く、ただし奥へは行かない、深くへも潜らない)、頭を使うだけの行為ではない、身体を使い、身体を動かし、さらには身体を移動させる行動でもある。そんなふうにも言えそうです。

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 表と裏もまた、常に比喩をはらんだ用いられ方を免れない、意味性と象徴性を帯びた言葉であることは言うまでもありません。

 ただし、たとえば上下や左右にくらべて具体的な身体による運動――視線を動かすだけはなく――を促すことが容易にできるという点で、表と裏は、上下や左右とは異なる見方ができるのではないかという気がします。

ひっくり返す、反転、逆行


 とはいうものの、左右、上下、ネガとポジ、前後(順序・位置・方向)の反転といった操作が、キーボードや液晶画面上での指先を使ってのかすかな動きで可能になっているのは事実です。

 対象は、広義の書物であり、文書であり、映像であるわけですが、そうしたひっくり返す、反転する、逆行するという動きが、枠のある平面上の現象としてあることもまた事実です。

 仮想現実寄りの臨場感やリアリティも体感の一種でしょうが、こうした捏造された体感がつい数年、十年、あるいは二十年前には、誰もが体験できるものではなかったことを忘れたくはありません。

 要するに、不自然なのです。ひょっとして反自然なのかもしれません。

 いつ、そうした時代に、あるいはそれよりずっと以前の時代へと、逆戻りしないとも分からない国際情勢があり、地球規模での気象問題が起きているのもまた事実です。

 だからというわけではありませんが、自分の身体をつかっての体感の範囲内で、たとえば文字の書かれている書物や紙面を相手に、ここまでに述べてきた上下、左右、高さ、奥行き、深さ、そして裏表、あるいは「ひっくり返す」について考えてみたいと思っています。

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 話があちこちに飛びましたが、いま私の頭の中にあるのは、平面上にある文字と文字列を見る、文字と文字列を読むという具体的ないとなみなのです。私にとって、文字ほど不思議なものはありません。


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