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立体人間と平面人間

 今回の記事は、「立体、平面、空白(薄っぺらいもの・05)」と「「タブロー、テーブル、タブラ(『檸檬』を読む・02)」」の続きです。


◆立体と平面

 なお、谷崎も川端も乱歩も、MだのSだのHだのも、その作品の傾向がですよ。ご本人については知りませんので、誤解なきようにお願いいたします。
 作品だけを前にして、その作品を書いた人について語れるわけがありません。騙るなら別ですけど。
 つまり、「谷崎潤一郎」も「川端康成」も「江戸川乱歩」も、「言葉」であり「記号」なのです。それでしかありえないのです。
 あなたも私もそうだと言えます。noteという場にいる限りにおいては、生身の人間ではないわけです。
 私はあなたに触れることはできません。でも、あなたの言葉(文字)になら「触れる」ことができます。それ以上でもそれ以下でもありません。
(拙文「「移す」代わりに「映す・写す」」より)

 自分には立体の時と平面の時があるような気がします。正確に言えば、自分を立体として意識している時と平面として意識している時があるのです。

 入浴中なんかは自分が立体だとつくづく感じます。なにしろ自分の体を自分の手を使って洗っているのです。自分の手の皮膚で、自分の他の部分の皮膚を撫でているのです。

 皮膚という面で皮膚という面を撫でながらも、姿勢を変え、各部位をまさぐることで、自分が凹凸のある身体を持つ立体であることを体感する。他のことを考えながら体を洗うのではなく、時には自分のしていることに意識を集中させて丁寧に洗ってあげたいものです。

 自分を立体として意識するのは、あとトイレで難儀をしている時でしょうか。

 排泄や食事など、生理現象や人というよりもヒトとして不可欠ないとなみの最中には、自分の身体と向わざるを得ません。年を取って体のあちこちに不自由が出てくると特にそうです。自分とは、人でありヒトであり動物であり生き物だと感じることが頻繁にあります。

 一方、自分が平面になっていると意識する時があります。小説を読んでいるとか、テレビでドラマを見ている時です。どちらも、平面つまり紙面と画面に見入っているからなのですが、ふとそう感じてもすぐに忘れます。

 そんなことは普通考えないのが人間です。無闇に、または無理に考えることではないとも思います。考えなくて済むのであれば、それに越したことはありません。そう考えても、いいことなど一つもありませんから。

     *

 とりわけ平面である自分を感じるのは、読書の最中です。なにしろ、目の前には平面上に写ったり(印刷物)映っている(液晶画面)文字しかありません。

 その文字や文字列を眺めながら、「いまここにあるもの」から「いまここにないもの」を思い浮かべたり、思い描いたり、思い出すことで、奥行きや高さや距離や動きのある像や風景をこしらえる――これが読むといういとなみだと言えるでしょう。

(大切なことは、奥行きや高さや距離や動きのある像や風景の「奥行きや高さや距離や動き」は、あくまでも思いの中で(思いとして)「こしらえたもの」であるという点です。立体の振りをした「何か」です。写真や絵や動画みたいなもの。立体に見えたとしても立体ではありません。)

 熱中している時にはそうでもないのですが、ふと我に返った瞬間に、自分は平面の世界にいる、あるいは自分は平面の世界に入り込んでいる、平面から立体を思い描いている、という不思議な気持ちをいだくことがあります。

◆江戸川乱歩の奇想


 私は江戸川乱歩の小説が好きです。

 乱歩の作品の魅力の一つは奇想です。突拍子もないアイデアを骨子にして小説を書いています。短編で好きなのは『人間椅子』と『鏡地獄』と『押絵と旅する男』です。

 乱歩の短編を読むたびに頭に浮ぶ本があります。ここに書いてあることは、あの本のあそこに似ている――という感じで思いうかべるのですが、その本とは蓮實重彥の『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』なのです。

 いえいえ、冗談ではありません。本気でそう感じています。

*『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』の作り

 まず、『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』についてお話ししなければなりません。

 蓮實重彥の著作を読むさいに役に立つのは、目次、そして各章や節に付けられた見出しです。目次と見出しを見ていると分かりますが、蓮實の著作は緻密に組み立てられています。

 特に分かりやすいのは『批評 あるいは仮死の祭典』と『夏目漱石論』と『「私小説」を読む』の目次です。一瞥するだけで学術論文の作りに似ているのが見て取れます。

 私はいま挙げた蓮實の著作の目次をよく眺めますが、それは快いからです。文字と文字列の喚起するイメージが官能的なまでに快く、夢の中にいるような幸せな気分になります。

 それはさておき、『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』には見出しを含む詳細な目次がないので、以下に見出しを抜きだしてみます。使用するのは河出文庫版ですが、現在は講談社文芸文庫版でも読めるようです。

     *

「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」にある大見出しと小見出し。

・p.21「1――絵画・図表・顔」「顔と視線の離脱」
・p.24「中心の欠落、そして空白の特権的二重化」
・p.27「「記号」の「図表」、または顔の絵画」
・p.34「2――「思想史」的空間とその限界」「認識論的空間」
・p.37「言葉と物の共存」
・p.41「記号の成立、言葉と存在の離脱」
・p.45「言説の成立、そして言語の四辺形」
・p.54「3――言説とその分身」「二つの言説」
・p.59「空位・凍結・逆行」
・p.65「王というあの虚構の点」

     *

「Ⅱ「怪物」の主題による変奏――ジル・ドゥルーズ『差異と反復』を読む」にある大見出しと小見出し。

・p.75「1――洞窟の怪物」「黒さの深まりと浮上」
・p.78「郷愁という名の錯覚」
・p.82「2――晴れた戸外の光景」「線と点の戯れ」
・p.86「反=冒険者のディスクール」
・p.90「3――創造=模倣という抽象」「既知と未知、または距離の抽象」
・p.93「戦略的な倒錯性」
・p.97「4――表象という名の錯覚」「怪物を馴致すること」
・p.100「思考の失語意識」
・p.106「5――素顔をまとった仮面たち」「否定から肯定へ」
・p.110「不実なる不均衡」
・p.114「6――系列と共鳴」「「作品」と「批評」」
・p.117「強度、または錯覚の一般化」
・p.123「7――愚鈍さの残酷さ」「思考の動物性」
・p.127「「作品」、または畸型の怪物」

     *

「Ⅲ叙事詩の夢と欲望――ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』を読む」にある大見出しと小見出し。

・p.135「1――境界線の神話」「叙事詩的欲望、その内部と外部」
・p.139「演技、または書物の模倣」
・p.147「2――書物、その装われた類似」「書物としての貨幣」
・p.152「貨幣としての書物」
・p.160「3――命名の儀式」「包むこと=包まれること」
・p.167「エクリチュール=グラマトロジー=ディフェランス」
・p.175「4――夢と欲望」「「エクリチュール」と「レクチュール」
・p.181「遠ざけること=近づくこと」
・p.188「「レクチュール」と「レクチュール」」
・p.195「5――文字の死と生誕」「「レクチュール」のレッスン」
・p.204「「ルソーの時代」と「書物の時代」
・p.211「戯れること、「代補」の「代補」的連鎖」

『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』という書物は以上の作りをしています。

*挫折した見通し

 ここでお断りしたいことがあります。次のような見通しで乱歩の短編を読んでみようとして挫折したのです。

     *

1)江戸川乱歩の『人間椅子』の奇想を、『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』の「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」を思い浮かべながら読んでみる。キーワードは、「タブロー」、「テーブル」、「タブラ」、「レター」(letter・letters)、「平面」、「立体」、「言葉」、「物」、「空白」、「のる・のせる」。

2)江戸川乱歩の『鏡地獄』の奇想を、『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』の「Ⅱ「怪物」の主題による変奏――ジル・ドゥルーズ『差異と反復』を読む」を思い浮かべながら読んでみる。キーワードは、「薄っぺらいもの」、「平面」、「鏡・鏡面」、「曲面」、「球・球面・球体」、「方向」、「距離」、「深み」、「奥行き」。

3)江戸川乱歩の『押絵と旅する男』の奇想を、『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』の「Ⅲ叙事詩の夢と欲望――ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』を読む」を思い浮かべながら読んでみる。キーワードは、「額」、「平面」、「前と後ろ」、「表と裏」、「始まりと終わり」、「右と左」、「上と下」、「貨幣」。

     *

 とんでもないことをしようとしたものです。いまはそう思います。

 以上の計画は断念したのですが、どうしてそんなことしようと考えたのかと言いますと、上述の三編の短編が、立体を平面化する行為の譬えとして感じられたからです。

「立体を平面化する」とは、「立体(現実と思い)を平面(紙面と文字)に影として落とす」ことだと言い換えられます。

 たとえば、文字からなる小説は「立体(現実と思い)を平面(紙面と文字)に影として落とす」ことによって書かれています。

 江戸川乱歩の『押絵と旅する男』と『人間椅子』と『鏡地獄』は、いま述べた意味での小説を意識しながら、書かれた小説だという気がしたのです。

 つまり、この三編が「小説について書かれた小説」とか「小説についての小説」として読めそうだと私が感じたという意味です。

「感じた」と過去形で書いていますが、いまもそんな感じがすることがあります。だから、うじうじと未練がましく、この記事を書いているわけです。

     *

 最近「薄っぺらいもの」と「錯覚について」というタイトルの連載をしていたのですが、記事を書きながら常に頭にあったのが、蓮實重彥の『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』でした。

 私にとって『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』とは、上で述べた「立体を平面化する」=「立体(現実と思い)を平面(紙面と文字)に影として落とす」行為の具体的な産物である「書物」について語っている「書物」、つまり「書物についての書物」にほかなりません。

 私は誤解が得意なので、たぶん誤解による思い込みだという気がしますが、いずれにせよ、そうした見立てをしていたのは事実です。

*目まい感

 いま私は乱歩の『人間椅子』と『鏡地獄』と『押絵と旅する男』の収録されている『日本探偵小説全集2 江戸川乱歩集』創元推理文庫)と、蓮實重彦の『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(河出文庫)をパソコンの脇に置いています。

 ときどきキーボードのキーを叩いている手と指を休めて、脇にある二冊の本をぺらぺらとめくっているのですが、その文字と文字列を見ていると軽い目まい感を覚えます。心地よい目まい感です。

 読んでいる時の自分は、平面(文字と紙面)と立体(思いと現実)のはざまにいるから、こうした気分になるのだと思います。

 もっと詳しく言うと、平面を思う時の自分は立体であって、立体を思う時の自分は平面にいるという感じなのです。

 立体である自分と平面にいる自分――。

 表と裏という比喩が頭に浮びますが、この表と裏というのは、たぶんに平面(文字と紙面)の論理に従った喩えだろうと思います。

 たぶん立体(思いと現実)には表と裏はないのであり、主に視覚的に受けとめる平面(文字と紙面)にいる時の人間が思い描いた、つまり捏造したものだという意味です。

(なお、立体を平面に影として落とすさいに人が捏造するものとしては、表と裏のほかには、空白、余白、中心、周縁、折れ目・襞、左と右、上と下、前と後、内と外、始めと途中と終わり、枠・境界、彼方、深さ、奥行き、文あや・紋様・模様があるように考えられます。「立体、平面、空白(薄っぺらいもの・05)」で述べたとおりです。以上列挙したものがヒトの生存に欠かせないものであることは言うまでもありません。ここでは捏造の是非を論じているのではないという意味です。)

 いったん文字を覚えると、人は立体(思いと現実)を平面(文字と紙面)に落とす、つまり立体を平面としてとらえる癖がつきます。平面化された立体のほうが処理しやすいからです。

 いま述べたようなことが、蓮實重彥の『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』には書かれています。というか私にはそう思えます。私は誤解が得意です。誤読している自信があります。

*平面に自分が立体であることを思いださせる

 そう言えば、さっき『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』を拾い読みしていて、ぞくっとする一節を目にしました。書物と貨幣の類似について述べている部分です。

では、第二の類似、つまり貨幣との類似はいかにして触知可能なものとなるか。いうまでもなく、貨幣が持たざるをえない表面と裏面との二重の表層に似た構造を、この書物が意図的に担っている点を介してである。
(p.149)

「触知可能」の「触知」は蓮實が文学作品を論じるさいに頻用する言葉です。「この書物」とは、さきほど引用した『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』の見出しを見ると分かりますが、ジャック・デリダの著作である『グラマトロジーについて』を指します。

 つまり、蓮實は『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』という書物の中で、『グラマトロジーについて』という哲学書とも呼ばれることのある書物を、たとえば小説のような文学作品を読むのと同じ手つきで読んでいる――デリダとは違った意味で音読不能な(音声化できない)要素を「見て」読む作業が多いです――とも取れます。

つまり、この書物は、一息﹅﹅に読まれるべき同一の言葉からなっておらず、一呼吸おいてから﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅、逆向きに読まれることで始めて書物たりうるという表と裏の構造を担っているのだ。
(p.150)

ちょうど貨幣を裏返してみるときに必要な一呼吸﹅﹅﹅。「言語」を思考するものたちが奇妙に忘れたふりをしているこの一瞬の停滞と偏差。
(p.158)

 引用箇所は読者に「触知」と「一呼吸」という名で呼ばれている具体的な身振りと運動を促しているのです。

 なお、「一呼吸おいてから﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅」でルビを使って振ってある傍点(圏点)は音読不能です(⇒「音読不能文について」)。こうした音声化できない要素を「見る」楽しみが、蓮實の文章にはあります(私が蓮實の文章を読む理由はそこにあります)。

 文字を眺めることによって平面と化している立体(生身の人間)に対し、「平面よ、自分が立体であることを思いだせ。平面よ、立体であれ」と文字が挑発しているのです。

 いま述べた「立体」は、「肉体」であっても「身体」であってもかまいません。あくまでも「体」なのです。文字に見入っている時の私たちは、うわの空――心だけでなく体も空っぽ――であることが多い気がします。

 文字に見入り魅入られて、いわば意識が平面と化した人間に、自分が立体であることを思いださせる文字――。

 暗示にかかりやすい私は、引用文にある「触知」という文字を目にしては鳥肌が立ち、「一呼吸」という文字では一呼吸するどころか呼吸が乱れます。

 それはさておき、蓮實の文章を読んでそんな反応を起こすたびに、私は乱歩の小説の次の一節を思いださずにはいられないのです。

 佳子は、手紙の半ばほどまで読んだとき、すでに恐しい予感のために、まっ青になってしまった。
 そして、無意識に立ち上がると、気味のわるい肘掛椅子の置かれた書斎から逃げ出して、日本建ての居間の方へきていた。手紙のあとのほうは、いっそ読まないで、破り棄すててしまおうかと思ったけれど、どうやら気掛りなままに、居間の小机の上で、ともかくも読みつづけた。
(江戸川乱歩『人間椅子』(『日本探偵小説全集2 江戸川乱歩集』創元推理文庫)所収・p.141)

『人間椅子』を未読の方にはぴんと来ない引用文かもしれません。この短編は下の青空文庫でもお読みになれます。

 乱歩の小説は、それを読んでいる最中の平面化している人間に、自分が立体であることを、不意にそれとなくほのめかす。(※なお「平面化している人間」とは佳子というより、佳子といっしょに手紙を読んでいた「あなた」です。それは、この作品の最後を読むと明らかになります。)

 一方、蓮實の著作は、それを読んでいる最中の平面化している人間に、自分が立体であることを、あっけらかんとあからさまに示す。

「ほのめかす」と「あからかさまに示す」の違いはあっても、両者は似た言葉の身振りを演じているように私には見えてなりません。

 小説と書物が、立体(現実と思い)を平面(紙面上の文字)にしようとする人間の強い意志と願いの産物であり装置でもあることを、ほのめかし、そしてあからさまに示そうとする小説と書物――。

 さきほど「小説についての小説」、「書物についての書物」と言ったのは、そういう意味です。

 文字を目の前にして一時的に平面化している人間に、自分が立体であることを不意打ちの形で教えるだけでなく、立体としての身振りと運動にいざなう小説であり著作――。江戸川乱歩の小説と蓮實重彦彥の著作は、そんな夢のような書物だと私は思います。

 夢の書物、書物の夢。

     *

 上で述べた見通しは挫折しましたが、『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』を読みながら『人間椅子』と『鏡地獄』と『押絵と旅する男』を思いだし、逆に『人間椅子』と『鏡地獄』と『押絵と旅する男』を読みながら『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』を思いだすという癖は続いています。

 見通しや見立てにとらわれることなく、これから三つの短編について読書感想文を書いていくつもりです。

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