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人間椅子、「人間椅子」、『人間椅子』

 今回は「立体人間と平面人間」の続きです。それぞれが別の方向をむいた言いたいこと(断片)がたくさんあり、まとまりのない文章になっています。申し訳ありません。

 お急ぎの方は最後にある「まとめ」だけをお読みください。


人間椅子から「人間椅子」へ


 江戸川乱歩の『人間椅子』の文章は朗読に適していると思います。音読してすらすらと頭に入ってくる文体で書かれているのです。特に難しい漢語が使われているわけでもなく、和語中心の聞いてすんなりと理解できる言葉遣いの文章だと言えるでしょう。⇒「音読・黙読・速読(その3)」

 実際、『人間椅子』だけでなく乱歩の多くの作品が朗読され、多くの人によって聴取されているようです。

 以下は『人間椅子』の最後の部分なのですが、仮にいま誰かに音読して聞かせても容易に内容が伝わる気がします。

 なお、引用するのは『日本探偵小説全集2 江戸川乱歩集』創元推理文庫)から書き写した文章です。青空文庫の『人間椅子』とは表記に若干の異同が見られることをお断りしておきます。読みくらべるのも一興かもしれません。

     * 

 そして、この不思議な手紙は、ある熱烈な祈りの言葉をもって結ばれていた。
 佳子は、手紙の半ばほどまで読んだとき、すでに恐しい予感のために、まっ青になってしまった。
 そして無意識に立ち上がると、気味のわるい肘掛椅子の置かれた書斎から逃げ出して、日本建ての居間の方へきていた。手紙のあとのほうは、いっそ読まないで破り棄すててしまおうかと思ったけれど、どうやら気掛りなままに、居間の小机の上で、ともかくも読みつづけた。
 彼女の予感はやっぱり当っていた。
 これはまあ、なんという恐ろしい事実であろう。彼女が毎日腰かけていたあの肘掛椅子の中には、見も知らぬ一人の男がはいっていたのであるか。
「おお、気味のわるい」
 彼女は、背中から冷水をあびせられたような悪寒おかんを覚えた。そして、いつまでたっても、不思議な身震いがやまなかった。
 彼女は、あまりのことに、ボンヤリしてしまって、これをどう処置すべきか、まるで見当がつかぬのであった。椅子を調べて見る? どうしてどうして、そんな気味のわるいことができるものか。そこには、たとえもう人間がいなくても、食べ物その他の、彼に附属した汚ないものが、まだ残されているにちがいないのだ。
「奥様お手紙でございます」
 ハッとして、振り向くと、それは、一人の女中が、いま届いたらしい封書を持ってきたのだった。
 佳子は、無意識にそれを受け取って、開封しようとしたが、ふと、その上書きを見ると、彼女は、思わずその手紙を取りおとしたほども、ひどい驚きに打たれた。そこには、さっきの無気味な手紙と寸分違わぬ筆癖をもって、彼女の宛名が書かれてあったのだ。
 彼女は、長いあいだ、それを開封しようか、しまいかと迷っていた。が、とうとう最後にそれを破って、ビクビクしながら、中味を読んで行った。手紙はごく短いものであったけれど、そこには、彼女を、もう一度ハッとさせたような、奇妙な文言が記されてあった。

 突然御手紙を差し上げますぶしつけを、幾重にもお許しくださいまし。私は日頃、先生のお作を愛読しているものでございます。別封お送りいたしましたのは、私の拙い創作でございます。御一覧の上、御批評がいただけますれば、この上の幸いはございません。或る理由のために、原稿のほうは、この手紙を書きます前に投函いたしましたから、すでにごらんずみかと拝察いたします。如何でございましたでしょうか。もし拙作がいくらかでも、先生に感銘を与え得たとしますれば、こんな嬉しいことはないのでございますが。
 原稿には、わざと省いておきましたが、表題は「人間椅子」とつけたい考えでございます。
 では、失礼をかえりみず、お願いまで。
(江戸川乱歩『人間椅子』(『日本探偵小説全集2 江戸川乱歩集』創元推理文庫)所収・pp.141-142)

     *

 引用箇所を読むと、人間椅子が「人間椅子」となる過程が音読可能な文章として書かれているのがお分かりになると思います。

・人間椅子
 手紙を読んだ佳子が予感した(想像したであろう)、人間の入っていた椅子という現実に存在する立体物。
・「人間椅子」
 上記の人間椅子について語っている「人間椅子」という表題の小説作品。

 約物である鉤括弧の有無は音読には表れない(音読不能である)にしても、「原稿には、わざと省いておきましたが、表題は「人間椅子」とつけたい考えでございます。」とあるのですから、音読したさいにそれが作品名だと伝わるにちがいありません。

 つまり、音読可能な小説の文章だと言えます。

     *

 ここで忘れてはならないのは、『人間椅子』があることです。

・『人間椅子』
 人間椅子の存在を想像(予感)した佳子が読んでいた手紙を、佳子といっしょに読んでいた私たちが読んでいて、「いま届いたらしい封書」の中で「表題は「人間椅子」とつけたい考えでございます。」という形で言及されていた「小説」かもしれない『人間椅子』。

 いわば作品の内部にあって、あるいは作品とそっくりそのまま重なって、同時に外にある「作品」。まるで椅子の中にいて、同時に外にいる「人間」のように。さらに言うなら、平面上の文字からなる作品を読んでいる最中に平面化し、同時に立体としてある「私たち」のように。

『人間椅子』の奇想


 引用箇所には、江戸川乱歩作の『人間椅子』という作品の奇想についてもよく分かる記述が含まれています。

*「彼女が毎日腰かけていたあの肘掛椅子の中には、見も知らぬ一人の男がはいっていたのであるか。」、「そこには、たとえもう人間がいなくても、食べ物その他の、彼に附属した汚ないものが、まだ残されているにちがいないのだ。」

人間という立体物が、椅子という立体物の中に入るという着想。つまり、椅子と化す人間。人間椅子。物⇒人間。物と化す人間。

椅子にのる存在である人間が、椅子にのる存在である別の人間にのられるという着想。つまり、椅子という台の中で台の格好をしている人間の膝の上に人間が載っているという格好になる。「のる」⇒「のられる」。のる人間がのられる人間になる。

何もないはずの椅子の内部に人間の居住する空間があったという奇想。「空」⇒「満」。「空白」⇒「充満」。「無」⇒「有」。空(から)であるはずの空間が空ではなかった。また、空白(表題)は捏造されたものであった。

     *

*「別封お送りいたしましたのは、私の拙い創作でございます。」

・人間椅子(立体)という物語を文字化(平面化)した手紙(平面)を読む女性(立体)の小説(平面)を読む読者(立体)という奇想。
 手紙(letter)が作品(letters)であったと最後に判明するという奇想。文字(letter)が文学・文芸(letters)であったと最後に判明するストーリー。人間椅子(letter)が「人間椅子」(letters)になる小説。
 
・「空」⇒「満」。「空白」⇒「充満」。「タブラ・ラサ」⇒「文書」。こうした一連の図式が捏造された変奏であると告げている文書。
 空であるはずの空間が実は空ではない、つまり空白は捏造されたものだと告げる「書かれたもの」=文書と呼ばれる「装置」。
 捏造された空白である表題が埋まることによって、人間がいるはずだった椅子の内部が空になる。つまり、同時に人間椅子という「現実」が「人間椅子」という文字=小説に転じる。

     *

*「原稿には、わざと省いておきましたが、表題は「人間椅子」とつけたい考えでございます。」

何もないはずの椅子の内部に人間の居住する空間があるという、物語=フィクション。
 白紙であるはずの紙に文字が書かれていれば文書になるという、約束事=制度=物語=フィクションの仕組み。
 文字が書かれてあることで、無意味であるはずのものに意味があるという、装置としての文書。

     *

*奇想:普通ではないこと。普通とは逆のこと。
・普通は人物がのる椅子という台(テーブル)の内部に、人物(立体)がのり込む(入り込む)。
・内部に人物が座った格好でいる台の上に、別の人物が座り込む。
・読者を巻きこむ仕掛けの小説。小説についての小説。枠物語。額縁小説。
人間椅子(letter)が「人間椅子」(letters)になる小説である『人間椅子』(letters)。
文字(letter)に注がれる眼差しをめぐる物語(letters)。

*乱歩の奇想のまとめ

・佳子にとって
 捏造された空白である表題 ⇒ 「人間椅子」という創作物の表題
 椅子の内部の充満(椅子の内部の人間) ⇒ 空洞・空想・空白
 手紙(letter) ⇒ 作品(letters)
 人間椅子(思いの中の「現実」) ⇒ 「人間椅子」(目の前にある文字)
 予感・想像・思い ⇒ 文字・作品・小説

・私たち読者にとって
「人間椅子」 ⇒ 『人間椅子』
 作中の空想の産物 ⇒ 目の前にある作品
 作品内の創作物 ⇒ 現実の創作物
 フィクション ⇒ フィクション
 文字 ⇒ 文学
 文字 ⇒ 文字
 佳子に宛てた letter ⇒ 自分たちに宛てた letter(s)
 捏造された空白 ⇒ 捏造された充満
 空白 ⇒ 「空白」
「空白」 ⇒ 空白

「言葉と物」、『言葉と物』


 上で引用した、江戸川乱歩作の『人間椅子』の最後の部分を読んでいて私が思い浮かべるのは、次の文章です。

    *

 すると、肉体を失って非人称化されたその眼差しは、空間を奥へと遠ざかりゆく運動によって「言葉と物」が親しく戯れうる絵画を鮮やかに限界づける。また、外部にとり残された盲目の顔は、画面の偽りの深さの奥まった一点に、まるでそれがおのれの顔の鈍い反映だとでもいいたげに誰も目にしたことのない不確かな影を配置し、それを中心とした構図を完成してしまう。われわれが読むことのできる書物は、「言葉と物」とがその上で遭遇すべき「机」としてのこの「絵画」にほかならない。『言葉と物』とは、まさしくそうした意味における「言葉と物」の、つまりは肖像画なのだ。そしてその不可視の中心に反映するのが、「知の考古学」と呼ばれる空白なのである。この輝ける空白。
(蓮實重彥「中心の欠落、そして空白の特権的二重化」「Ⅰ――絵画・図表・絵」「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(河出文庫)所収・p.25)

「『言葉と物』とは、まさしくそうした意味における「言葉と物」の」に見られる二種類の鉤括弧と「顔」に振られた「﹅」傍点(圏点)の音読不能性。二種類の鉤括弧に括られたフレーズの差異と差違。

「机」、「絵画」、「知の考古学」(『知の考古学』ではなく)にある鉤括弧の音声化不能性

空白、「空白」、捏造された空白


「言葉と物」と『言葉と物』をめぐっての上の文章では、約物という音声化できない文章の要素の特性がよく出ていると思います。音読できない鉤括弧を無視しては、あるいは看過しては、その文章は読めないのです。

 江戸川乱歩による小説の音読可能な文章と、蓮實重彥による著作からの音読不能な文章が、似た身振りを演じている。私にはそんなふうに思えてなりません。

「言葉と物」と『言葉と物』――二種類の鉤括弧に括られたフレーズの差異と差違、あるいは空白と「空白」。

 人間椅子と「人間椅子」と『人間椅子』の差異と差違、あるいは空白と捏造された空白。

 空白に注ぐ眼差し
 空白に注ぐ振りを装う眼差し
 捏造された空白に注ぐ眼差し
 捏造された空白に注ぐ振りを装う眼差し

それはほかでもない、「王者の位置」の空位、その中心的欠落がいまや一つの現前によってみたされ、しかもそれに「人間」という「名前」が授けられてしまったことの当然の帰結として、崩壊せざるをえないということだ。
(p.62)

 眼差しを注ぐ身振りが眼差しを注ぐ振りに酷似してしまう
 眼差しを注ぐ振りが眼差しを注ぐ身振りに酷似してしまう

 眼差しに表情があるとして、その隔たりを察知する術は奪われているのかもしれません。眼差しは常に人を欺く。眼差しは、むしろ人を欺くためにある。そんな気がします。

まとめ


 
捏造された空白である表題(名前)が埋まることによって、人間がいるはずだった椅子の内部が空になる。捏造された人間が消えることで、文字だけからなる作品が成立する。

 同時に人間椅子という「現実」が「人間椅子」という文字=小説に転じる。letter(手紙・文字)が letters(作品)になる。

 私たち読者の目の前にある、江戸川乱歩の『人間椅子』はこうした仕掛けになっています。いま述べたことが、作者の意図という捏造された内部や空白やブラックボックスとは関係のない話であることは言うまでもありません。

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