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伸び縮みする小説

【※この記事には川端康成作『雪国』の結末について触れています。いわゆるネタバレになりますので、ご注意ください。】


観光案内としても読める小説


 川端康成作『雪国』の最後の章では――章といっても一行空けて区切ってあるだけですが――、冒頭で縮織(ちぢみおり)についての話が語られ、最後は火事の話で終わります。

 この小説では、縮織は一貫して「縮(ちぢみ」」と表記され、『雪国』の舞台となる地方の縮をめぐり、「昔の本」を引用しながら、その歴史と現状が、まるで観光案内のような筆致で書かれています。

 川端の小説では、その舞台について観光案内のような記述を織り込む形式がしばしば採用されています。京都が舞台として出てくる『古都』や『美しさと哀しみと』や『夢いくたび』がいい例です。

 じっさいに、『古都』に促されて京都を訪れる人たちが、いまもいると聞きます。文庫の『古都』を手に京都のあちこちを歩く旅なんて、きっと楽しいでしょう。

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 川端の『千羽鶴』の続編である『波千鳥』では、登場人物の文子が、手紙という形で九州での旅について一人称で語っています。とりわけ大分県の竹田町(現・竹田市)に関する記述は詳しく、まさに観光案内です。

 竹田は滝廉太郎が「荒城の月」の着想を得たと言われる岡城址のあるところですが、『波千鳥』ではこの唱歌の成立した背景にも触れられています。

 作曲の滝廉太郎が作詞の土井晩翠とロンドンで一度会ったらしい――。私には「ロンドン」と「一度」というのが意外で、このエピソードがいまも記憶に残っています。

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 ある地方の地理や歴史や名所、あるいはその地方の産物を説明するさいには、小説とは異なる文体になるのが通常の書き方でしょう。フィクションの文章ではなく、いわゆる説明文に近くなるわけです。

 言葉は悪いですけど、嘘を創作して絵空事を描くのではなく、事実を淡々とつづる必要があるため、「文章に凝る」のとは違った工夫のされた書き方になるでしょう。

『雪国』の最終章では、視点的人物である島村の行動を下地に、フィクションと、縮織についての事実とがうまく織り込まれていて、見事な織物のような趣を感じます。

 小説の言葉(織物=テクスト)が小説の題材(織物=産物)に擬態しているのです。

縮む時間

 雪のなかで糸をつくり、雪のなかで織り、雪の水に洗い、雪の上にさらす。み始めてから織り終わるまで、すべては雪のなかであった。
(川端康成『雪国』新潮文庫p.149) 

『雪国』の終章の縮(ちぢみ)について書かれた部分に――とりわけその歴史をかいつまんで記述した文章に――、私は「縮む時間」を感じないではいられません。「縮」だから「縮む」というわけではありませんが。

 ある長い歴史をしるすためには、長い年月という時間(期間・スパン)を縮める、つまり短くしなければなりません。人生の縮図という言い回しがありますが、まさに時間を凝縮するわけです。

 歴史(時間)にせよ、地理(空間)にせよ、短くしたり小さくする、つまり縮めなければ言葉では記述できないという理屈になります。

『雪国』の終章の前半には、そうした縮む時間がストーリーとともに、簡潔ながらも、ゆったりと流れているのです。

スパンをスピンする


 上で述べた「縮む時間」を言葉でつづるためには、「スパン(期間)をスピン(紡ぐ)する」作業が必要になります。

 期間を意味する英語のspanには、シャクトリムシ(尺取り虫)が延び縮みしながら進むという意味があるそうです。

 語源的には、親指と小指を伸ばして物の長さを測る仕草から来ているようですが、二本の指を伸び縮みさせてみると、たしかに這うような動きにも見えます。

 小学生の頃にカイコを飼ったことがありますが、お蚕さんもそんな動きをしていました。まだ桑の木が家の近くにあった時代です。

 spinという英単語は、蜘蛛や蚕が糸をかけるとか吐くという意味が基本にあって、そこから人が繭や綿を利用して機械などで紡ぐという意味に発展していったらしいです。

 言葉という糸を紡ぎ、機(はた)を織りながら、時間をかけて徐々に文章の綾を織りなしていく。やっぱり文章は織物(テクスト)だという話に落ちつきます。

 そう考えると、言葉を紡ぐ人は糸を紡ぐ人と糸を吐く蚕に擬態し、言葉を織りなす人は機を織る人と織機に擬態し、綾からなる文章は織物という産物に擬態しているように思えてきます。

 まるで「言葉のからくり」を見ているようです。

「からくり」には絡繰や唐繰のほかに機巧や機関を当てるそうなのですが――拙文「夢のからくり」にも書きました――、機を「はた」と読むのに思いあたると、なにやら目まいを覚えて気が遠くなりそうです。

 糸がからまったような、ややこしい話で、ごめんなさい。

伸びる時間

 繭倉は芝居などにも使えるように、形ばかりの二階の客席がつけてある。二階と言っても低い。その二階から落ちたので、地上までほんの瞬間のはずだが、落ちる姿をはっきり眼で追えたほどの時間があったかのように見えた。
(川端康成『雪国』新潮文庫p.171) 

 縮(ちぢみ)についての話につづく、『雪国』の最終章の後半のクライマックスは、繭倉での火事です。ここで、繭倉が前半の縮(縮織)とつながります。伏線の回収とも言えるでしょう。

 繭倉――繭を保存するだけでなく機織りがおこなわれたと考えられます――が燃え落ちるだけではありません。それと呼応するように、芸者の卵である葉子が二階から転落します。

 葉子が落下するのは一瞬の出来事です。その一瞬がまるでスローモーションのように、また断片化された場面が何度もくり返されるという、映画の編集のような書き方がされています。

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 一瞬が編集されて長く伸びるわけです。落下の場面の描写には「伸びる時間」が流れているのです。この部分を読んでいると、まるで映画(編集の産物です)を見ているような印象を受けます。

 映画も小説も時間の芸術だと言われますが、時間を加工し処理し編集して作られる作品なのです。

 いっぽう、説話や昔話や童話といった物語は、小説のように複雑な構成にはなっていません。時系列で語られるのが普通です。人から人へと口伝えで継承されていた物語は、複雑なものであってはならなかったのです。

 口承の時代がきわめて長くつづいたのち、一字一字丹念に書き写すという写本で伝えられるようにもなりましたが、写し間違いは不可避ですから、物語はシンプルであるのに越したことはなかっただろうと想像します。

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『雪国』の最後において、火元となる繭倉で映画(小説と同じく時間の芸術です)が上映されていたのは偶然ではありません。私たちが読んでいるのは小説なのですから、作者の計算があったと考えるべきでしょう。

 しかも、この小説の舞台となった当時の映画ですから、きわめて燃えやすいフィルムが映写機でまわっていたはずです。ある程度の速度で回転していた可燃性のフィルムに摩擦による高熱が発生し、火花が散ったのだろうと考えられます。

 しかも舞台は冬で、澄みきった空に天の河がくっきりと見える夜ですから、空気が乾燥していたにちがいありません。火事になりやすい条件がそろっているなかで、火事が起きます。

 天の河は、たなばた(棚機・七夕)伝説の織女星および織女(しょくじょ・たなばたつめ)でもって前述された縮織りの話とつながります。

 天の河は遠く離れた男女が年に一度逢うために渡る川ですが、ということは二人を引き離している川でもあるのです。島村と駒子の置かれた状況と重なるのは言うまでもありません。

 こうした、つながりに満ちた設定も川端の計算だったと考えられます。

延びる時間


 小説のクライマックスで葉子が落下する一瞬が、「伸びる時間」(「伸びる」は「縮む」の対語としてもちいられることがあります)に加工されて書かれるだけではありません。

 その一瞬までにいたる延焼もまた「延びる時間」(「伸びる」と区別して「延びる」を時間的な延長と解することもあります)として編集されます。つまり、つぎつぎと延焼していくあいだの出来事が言葉によって活写されるのです。

 人が「落ちる」のはまさに一瞬ですが、火が出て火事が延焼していく――刻々と延びていく――時間もまた、さきほど述べた縮の長い歴史とくらべれば、そのスパンはやはり一瞬だと言えるでしょう。

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 長いスパンを縮める、一瞬や短い時間を延ばす・伸ばす――。

 小説には「ちぢむ時間」と「のびる時間」という、二つの時間が流れています。どちらか一方だけが流れているのではなく混じっているのです。

 川に似ています。小説には急流もあれば、ゆったりと流れる部分もあります。おそらく、私たちはその流れを感じて、それに応じた読み方をしているのでしょう。

 布にも似ています。小説は伸び縮みする織物(テクスト)なのです。物であるとはいえ、時間の芸術でもある小説を、私たちは時間のなかで読んでいます。

 時間は目には見えませんが伸び縮みしている気がします。織物=文章を読む時間は、なおさらそうなっている気がします。

 伸び縮みする時間のなかで、私たちはお蚕さんのように伸び縮みしながら読み進んでいるのかもしれません。


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