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旋律のような名前の女の子(反復とずれ・06)

 今回は、旋律のような名前の女の子の歌、Melody Fair を取りあげます。映画では、女の子の名前が Melody Perkins(メロディ・パーキンス)なのですが、メロディ・フェアのほうが語呂がいいからそうなっているのでしょう。

 言葉からなる作品では、語呂がとても大切です。試しに、この歌のサビで Melody Perkins と歌ってみると、曖昧母音(シュワ・schwa)にアクセントを置いて伸ばさなければならず、綺麗に響きません。今回はそんな話もします。

 また、「まとめ」では、前回の「「カフカ」ではないカフカ(反復とずれ・05)」と今回に共通するテーマである「名前」についてのまとめをします。


似た音や同じ音をくり返す


 まず歌を聞いてみましょう。Bee Gees(ビージーズ)による Melody Fair (メロディ・フェア)です。

 映画の主題歌になった曲でした。お聞きになると分かると思いますが、歌詞がとても綺麗に聞こえます。耳に快く聞こえるのです。言葉の意味がよく、またはぜんぜん分からなくても、です。

 なぜでしょう?

 一つには、似た発音の言葉があちこちに出てくるからです。詳しく言うと、同音や類似した音のある単語がちりばめてあります。

 厳密には韻ではありませんが、似た音がくり返されている点は同じです。

この歌では女の子の名前自体が詩なのです


 私は曖昧なものが好きです。多義的であったり多層的であったり、プリズムのように見る位置によって見え方が異なる物や事や人に惹かれます。というか、どんなものでも一様であることはなく、多様なのだと感じているのです。

 そういう曖昧さを感じる楽曲が、ビージーズ(Bee Gees)のメロディ・フェア( Melody Fair)なのですが、この歌では Melody Fair という女の子の名前自体が詩なのです。

【※映画では、女の子は、Melody Perkins(メロディ・パーキンス)です。】

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 melody は、ご存じのように「旋律」という意味があります。ジーニアス大英和辞書にある語義を並べてみます。

・(主)旋律、節(ふし)、歌(曲)
・快い調べ、美しい音楽
・(詩・声などの)音調、抑揚
・歌うのに適した詩

 fair にはもっとたくさんの意味があるので、気になったものだけを挙げましょう。

・(文語で)天候がよい
・(皮膚が)色白の、(髪が)金髪の、(人が)色白で金髪の
・(名声などが)汚れのない、きれいな
・(文語で)(女性が)美しい、魅力的な
・(同音の別語で)縁日、市(いち)、品評会(※華やかでお祭り的な行事を想起させ、Melody Fair で「旋律の祭典」みたいなイメージも浮かぶと思います。)

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 きれいはきたない、きたないはきれい。
 よいはわるい、わるいはよい。
 Fair is foul, and foul is fair.(『マクベス』ウィリアム・シェイクスピア)

 シェイクスピア劇の有名な台詞でも fair がつかわれています。Fair is foul, and foul is fair. では、短いながらも f がくり返されていることで、台詞として口調がいいし、印象に残るフレーズになっています。

 このように、シェイクスピアの劇作品では、ほとんどあらゆる台詞に工夫が見られます。もちろん、英語の原作の話です。なにしろ、語呂がいいのです。

 役者が覚えやすい。観客の記憶に残りやすい。しかも陳腐ではない。

 シェイクスピアが演劇の神さまだと言われるのがうなずけます。

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 以下は歌詞の細部が字幕でたどれる動画です。

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 Melody Fair の歌詞を部分的に引用してみます。

Who is the girl with the crying face
looking at millions of signs?
She knows that life is a running race,
Her face shouldn't show any line.

Melody Fair, won't you comb your hair?
You can be beautiful too.
Melody Fair, remember you're only a woman.
Melody Fair, remember you're only a girl.

Who is the girl at the window pane
watching the rain falling down?
Melody, life isn't like the rain.
It's just like a merry-go-round.

 ご覧のように似た発音の言葉がいい具合に縦横に散らばっています。後で触れる曲のように、完璧に韻を踏んでいるわけではありませんが、似たものが散らばるだけで心地よさを感じさせるのです。反復と変奏の妙です。

 音楽のことは無知なのですが、旋律に歌詞の音が綺麗に乗っている気もします。

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 また、Melody Fair という美しく響く文字通りメロディのような名前が繰り返されます。

 その音を乗せている旋律(メロディ)が綺麗なのです。単語の発音と意味に旋律が擬態しているような印象さえ与えています。

 韻や似た音の連続は、意味の離れた事物同士に音以外の「似ている」点(意味やイメージ)があること――あらゆる物が多面的だからです――を気づかせてもくれます。

 これは比喩や韻、そして同音・類音や類語の反復という広義のレトリックの本質だと言えるでしょう。

 言葉が事物をつないでくれるわけですね。花から花へと飛ぶ蜂や、恋や愛のキューピッドみたいで微笑ましく思います。

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 いちばん好きな箇所を挙げます。

Melody Fair, won't you comb your hair?
you can be beautiful too.

 fair が hair と韻を踏むという点は、この歌詞で決定的なインパクトをもたらし、この箇所の響きの美しさは比類がありません。

 won't と comb にも母音の一致が見られます。音読しただけで、ため息がこぼれます。続く、強弱弱強弱弱強というフレーズの you、beautiful、tooの同音の連続も快く響きますね。

Melody Fair, remember you’re only a woman.
Melody Fair, remember you’re only a girl.

 名前を呼ぶ、最初の二語で盛り上がり、次第に抑えていき最後はつぶやくように歌われる箇所です。この二行では、最後の a woman と a girl だけが違います。あとは同じ。

 この反復と差異(ずれ)の妙は見事だと思います。

 とくに、曖昧母音(シュワ・schwa)だけの girl を最後に持って来ているところがうまいと思います。明瞭な音を響かせるだけでは芸がないのです。曖昧な母音と明瞭な母音の両者を組み合わせることで、メリハリが生まれます。

 なんて偉そうに書きましたが、難聴が進行した私は自分の記憶を頼りに書いているので誤認があったら、ごめんなさい。

 なお、子音については、「きらきら星(反復とずれ・04)」で、ややマニアックに書きましたので、こういうことがお好きな方はお読みください。

反義語であると同時に類義語


 woman と girl は反義語であると同時に類義語でもあります。つまり、人という存在は多面体(プリズム)なのです。

 この歌では、この曖昧さ(両義性・多様性)が詩(歌詞・音声)となり人を惑わせています。

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 woman と girl に相当する日本語で見てみましょう。

 女の人-女の子(大和言葉・和語系)
 おんな-むすめ(大和言葉・和語系)
 女性-少女(漢語・唐言葉系)

 日本語でも反義語であり同義語でもあることがお分かりいただけると思います。同じ女性なのに、ある尺度や見方で切り分けているだけです。

 この切り分けを差別とも言います。切られれば痛いし血が出るのに、切ったほうは気がつかないのです。これが差別の恐ろしさでしょう。

Melody Fair, remember you’re only a woman.
Melody Fair, remember you’re only a girl.


 たった二行のこの部分が、レッテルたち(たとえば woman や agirl )と戦いながら生きていく、たったひとつの名前(Melody)を歌った詩のように見えてなりません。

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 メロディー・フェア、髪を櫛でとかしてみたらどうかな?
 君は美人にだってなれるんだよ。

 だって、

 メロディー・フェア、覚えておきなさい、君はただの女なんだよ。

 それだけじゃない、

 メロディー・フェア、覚えておきなさい、君はただの娘なんだよ。

     *

 つまり、君は「ただの女だから」(男には負ける)と「ただの娘だから」(しょせん子ども、しかも女の子だ)が、社会的に不利であると同時に「(髪を櫛でとかせば)美人になれる」という可能性を潜在的に持っていると気づかせているとも取れます。逆手に取ると言えば、深読みしすぎでしょうけど。

「いいかい、君は girl であり woman であり Melody という人間なんだから」――そこまではおそらく言ってはいませんが、そう解釈したくなります。 

 人を一つの属性を表す語、つまりレッテルで指すことは不可能なのであり、複雑な現実を反映していないのです。こうした現実を失念しているために起こる誤解や苦しみや不和や争いは多いと思われます。

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 悲しいことに、人は一面的なレッテルをたくさん貼られながら生きています。一面がたくさん集まったから多面的になるのではありません。

 レッテルとは、その時、その場の都合で貼られるものなのです。押しつけなのであり、おそらく、その人を縛るための方便です。

 言葉と「ごみ」がレッテルでもあることを、「分別」という記事に書きましたので、よろしければお読みください。

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 こうも言えます。

 ある人が、一日で貼られるレッテルは多いのは事実です。時と場合に応じて役割があるから当然です。でも、ひとつのレッテルでその人をくくるのは、その人の多面的な個性を無視して、その人を縛ることにほかならないと思います。

 人はレッテルとは関係なく、多面的な存在なのです。レッテル、言い換えれば、あなたの名前以外の名詞はあなたを縛って固定化しようとするだけ。名詞は固定を指向します。

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 Melody Fair は映画「小さな恋のメロディ」の主題歌でもあります。この映画のサウンドトラックに収録されている「First of May(若葉のころ)」もいい曲ですね。

 この映画の原題は Melody、または S.W.A.L.K です。S.W.A.L.K とは、sealed with a loving kiss の略でラブレターの封筒の裏に書くのだそうです。愛を込めて封をするのでしょうね。

 この映画は、自分に一方的に貼られた一義的なレッテルに反抗する「女の子」および「こどもたち」の物語にも思えてなりません。「女性対社会」とか「こども対おとな」という構図を見ることも可能でしょう。

 いま使った女の子、こども、女性、おとな――こうしたものは言葉でもあります。言葉を使う以上、人はレッテルと無縁で生きることはできませんが、レッテルの存在を意識することで、レッテルに抗い、戦うことはできると思います。戦うのは自分です。他人と連帯するたぐいの問題だとは私には思えません。

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 自分に貼られたあるレッテルが嫌で嫌でたまらなかったり、堪えられないほど重荷に感じられることがありませんか?

 もし人が生きづらいとするなら、その人の人生は、自分に押しつけられ自分を縛るレッテルたちとの戦いなのかもしれません。

 誰もがレッテルという複数の名前と戦っているのです。たったひとつの大切な名前だけで十分なのに。

まとめ

*複製である名前は「反復される」ことで「ずれる」

 名前は複製として存在します。文字であれば、複製、拡散、保存が簡単にできるし、名前は最小の引用でもあります。だれでも、簡単に引用できるのです。

 でも、ほんとうにそうでしょうか? 前回は、反復される対象である(複製され引用されるという意味です)名前において生じる「ずれ」について、フランツ・カフカという名前で考えてみました。

Franz Kafka、František Kafka、Кафка, Франц、弗朗茨·卡夫卡、فرانس كافكا、フランツ・カフカ、ฟรันทซ์ คัฟคา

 以上のどれもが「フランツ・カフカ」なのだそうです。

 複製である名前は、音声や文字として複製され引用される(同時に拡散もされ保存もされてもいます)という形で反復されていますが、表記や発音が変わることで、ずれてもいるのです。

*ずれてつたわる、つたわってずれる

 地域や言語や文化をまたぐことで、名前は「ずれてつたわる」のです。これは「つたわってずれる」ことでもあります。また時代を経て「つたわる」ことでも「ずれる」が起きています。

 名前にかぎらず、人にまつわるすべての事や物が、時空をこえる(またぐ)ことで、つたわってずれ、ずれてつたわっているのですが、名前がいちばん実感しやすいのは、誰にとっても、自分の名前と愛する人の名前が大切なものだからに他なりません。

*レッテルを貼られることで「ずれる」

 今回は、前回とはちがった「ずれる」を取りあげました。人は名前だけでなく、レッテルを貼られることでも「ずれる」のです。「ずらされる」と言うべきでしょうか。

 具体的には、メロディ・フェアは、girl と woman というレッテルを貼られることで、メロディ・フェアという自分から「ずれる」のを余儀なくされています。

 ほかにも「あなたは生徒(student)なんだから生徒らしくしなさい」とか「あなたは子ども(child)なんだから子どもらしく振る舞いなさい」と言われているにちがいありません。

*人においては「ずれる」と「反復」が同時に起きる

 この連載のタイトルは「反復とずれ」ですが、人においては「ずれる」は「反復する」と同時に起きています。

 ところで、「同じ」と「違う」の判断を代行させるために、人がつくっている機械と複製では、どうでしょう?

*機械と複製においては「反復される」と「同じ」か「違う」が起きる

 人のつくる機械や複製における反復では「同じ」か「違う」(違えばエラーです)が起きます。

(なお、「同じ」と「違う」の判断を代行させるために、人が機械と複製つくっていることついては、「【モノローグ】カフカとマカロニ」「【レトリック詞】であって、でない」で詳しく扱っています。)

 つまり、人における反復と、機械と複製における反復は、大きく異なるという意味です。整理してみます。

・人における反復では、「ずれ」と「ずれる」が起きる。
・機械と複製における反復では、「同じ」か「違う(エラー)」が起きる。

*多と一を同時に受け入れて、常にずれ続ける

 今回のテーマであるレッテルに話をもどします。

 ずれて、いいのではないでしょうか。人として生きることは、ずれることなのです。レッテルを貼られて「ずれる」「ずらさせる」ことを、逆手に取りましょう。

 自分が多面的な存在であることを、レッテルによって確認する。それでいて、同時に、自分が唯一無二の存在であることを、自分の名前によって確認するのです。

 多と一: 多面的な存在である自分と、掛け替えのないひとりの人間である自分。その両方の側面があって自分がいる。

 他と自: 他者・他人と、自分。他者の集まりである自分。自分のなかには多数の他者(家族・祖先・友人たち・親しくない人たち・敵対している人たち)が溶けこんでいる。

 多と一、他と自のどっちかで悩むのではなく、多と一、他と自を同時に受け入れる。それが、ずれる生き方。常にずれ続ける生き方。

 そんな生き方も、できるのではないかと私は思っています。

     *

 さらに言うと、こうなります。

 真か偽か、正か誤か、本物か偽物か、実物か複製か、起源か引用か、善か悪か、天か地か、陰か陽か、女と男か、敵か味方か、一か多か、自か他か……。

 AかBかという二者択一ではなく、AもBもいったん忘れたふりをして(保留して・宙吊りにして、放っておいて)、常にずれ続ける。

 そんな生き方も、できるではないでしょうか。

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