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影の薄い小説(小説の鑑賞・03)


小説は影である


 
小説は複製で読んでなんぼ、複製で読むのが当たり前、複製以外の形態で読むのはまず不可能である。

 小説はコンパクト。自分のものにできる。
 どう読んだか、あるいは、そもそも読んだか読んでいないかを、他人にいちいち報告する必要がない。
 小説を読むのは孤独な作業。

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 前回は上のようなことについて書きました。

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 小説は影である――。今回は、そんな話をします。

 小説は影だという場合には、二つの意味が考えられます。

 一つは、小説は写しである。つまり、小説は世界を写したものという意味で、これは小説は世界を映した鏡であるという発想と重なります。

 小説(影・コピー・鏡) < 世界(ほんまもん)

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 ここでは、もう一つの意味について書きます。

 小説は作者の影である――。こうした考えも根強くあります。私もそんな気がすることがあります。いっぽうで、そうかなあと疑問に感じるときもあるのです。

 小説(影・影法師) < 作者(ご本尊)

小説は作者の影である


 小説が作者の影だと感じられるときには注意しなければならないことがあります。

 影と実物、影と実体、影と本物。

 こういう考えにつながっていくからです。影が実物や実体や本物に勝てますか?

 つまり、小説が刺身のつまにされて、作者が前面に全面的に出てきてしまうのです。

 作者が前面に出てくると、作品は裏方あつかいをされる恐れがあります。

 もしそんな事態になれば、小説がかわいそうではありませんか。読者の目が小説の向こうに注がれて、小説自体がちゃんと読まれなくなるのです。

「んなこたあない。私は小説をちゃんと読んでいるし、作者を尊敬してもいる」――これは正論です。

読書感想文の書き方


 読書感想文には大きく分けて、二つの書き方があります。

 一つは、小説に書かれていることの感想を書くやり方で、もう一つは、小説の背景や、小説の作者の人生(伝記的事実)や、交遊(スキャンダルや恋愛も含む)や、人生観や思想について書く方法です。

 小説をどう読むか、感想文をどう書くかは、自由であっていいと思います。大雑把に言って二つの傾向があると私は言いたいのです。念のため。

 私だって、他人から小説の読み方を指図されたくありません。人それぞれです。好きなように読んでいいと思います。

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 とはいうものの、さきほど述べたように、作者が前面に出ると、小説は刺身のつまになるのが残念だとは思います。

 小説の影が薄くなるからです。作者ファーストの風潮が強くて、ただでさえ薄い小説の影が、ますます薄くなりそうで寂しいのです。私の髪みたいに……。

 それはさておき、「小説の影が薄い」という事態が、じつは作者との関係だけにとどまらない点を指摘したいと思います。

 影の薄い小説が何種類かあるのです。

影の薄い小説・その1


 第1のケースは、作者の刺身のつまにされたために「影の薄い小説」で、上で述べたとおりです。作者の陰でその影が薄くなるという意味です。

 小説 < 作者

影の薄い小説・その2


 第2のケースは、紙の本のある場合の電子書籍です。

 紙の本と比較すると、電子書籍の存在感は薄いです。蜻蛉かげろう蜉蝣かげろう陽炎かげろうのように薄い。

 蜻蛉、蜉蝣、陽炎――どれも「かげろう」と読みますが、自分の存在感を自分で必死にフォローしているようで健気に思えてなりません(「頑張っているんだね」)。字面も美しい。大好きな言葉です。あと、薄羽蜉蝣うすばかげろう薄翅蜉蝣うすばかげろう蚊蜻蛉うすばかげろうも。

 それにしても、液晶の画面上で見るルビはなんて、はかなげなのでしょう。まさにうすばかげろうです。ネット上の文字が浮かんでいるどころか浮いている証しを目にしているようです。

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 いま述べたように、電子書籍やネット上で読む小説の場合には、文字が浮いている感じがして、印刷された文字からなる小説とくらべると、その存在には、はかなさが漂います。

 はかない、儚い。人の見る夢のように、そこはかとなく頼りなげ……うすばかげろう。よく言えば、蜃気楼逃げ水

 紙の本の小説(印刷物) < 同じ小説の電子書籍・ネット上版

影の薄い小説・その3


 第3の「影の薄い小説」は、次の写真のようなケースです。

 私の持っている二冊の文庫本のツーショット写真です。

 右側はカバーの色が全体に薄れ、カバーの背の上部は破れかけているし(見にくいですがセロテープを貼っています)、中は書き込みだらけだし、本自体が破損して解体しかけています。

 そんなわけで最近買ったのが左です。又吉直樹先生の推薦文入りの帯まで付いています。

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 手に取ってぱらぱらめくると、右の文庫本は左にくらべると影が薄いです。

 でも、愛着感という点では断然右が強いです。手にも馴染んでいます。影は薄いけど濃いし厚いのです。

 使い慣れたというか手に馴染んだ本の存在感は目をつむって手にすると分かります。

 古くなった本の小説 < 同じ小説の新品の本

影の薄い小説・その4


 第4の「影の薄い小説」は、次の写真のようなケースです。 

 写真を間違えたわけではありません。これでいいのです。

 写っているのは古井由吉著『杳子・妻隠』ですが、この文庫には二作品がおさめられています。

 おそらく『杳子』のほうがずっと有名だと思います。読んだことのない人でも知っている場合があるのではないでしょうか。なにしろ、芥川賞受賞作です。

 いっぽうの『妻隠』ですが、その読みを知らない人を責めることはできません。知らないほうが普通ではないでしょうか。「つまごみ」と読みますが、辞書で引くと「つまごみ・妻籠み・夫籠み」があったりして、訳が分からなくなります。

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 いずれにせよ、残念ながら、『妻隠』は刺身のつまにされた形になり、『杳子』のれてが薄くなっている感があります(影の薄い小説の応援のために太文字を使用しました←うそつけ)。※なお、「つま」の表記には、端や褄や具や妻など諸説あり。差別的かつ侮蔑的な表現であることは確かなようです。

 その意味で「影の薄い小説」なのです。

 ある作家の有名な小説 < 同じ作家の有名でない小説

まとめ


 小説 < 作者
 紙の本の小説(印刷物) < 同じ小説の電子書籍・ネット上版
 古くなった本の小説 < 同じ小説の新品の本
 ある作家の有名な小説 < 同じ作家の有名でない小説

 こんなふうに影の薄い小説があるようです。

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 どんな形であれ「影の薄い小説」の味方でありたいと願う私としましては、とにもかくにも、強大な存在感を持つ作者の陰に隠れて影の薄くなっている小説がふびんでなりません。

 そのために声を大にして言いたいです。

 作者ばかりに目を向けず、小説そのものをちゃんと読みましょう、と。

お薦めしたい本


 作品の向こうの作者ではなく、ひたすら作品の言葉そのものに目を向ける――。

 こうした読み方を教えてくれた蓮實重彦先生の本を二冊紹介します。私は大きな影響を受けています。お薦めいたします。

 なお、蓮實重彦先生の批評のスタイル(方法)が、かつてどのような環境でどのように登場し、どのような受け止め方をされたか――。阿部公彦氏が由良君美について論じた、以下の文章をお読みになると概観できると思います。

 上の文章では、以下にリンクを貼った『「私小説」を読む』という文字が見え、的確かつ重要な指摘がなされています。「由良君美とは何者か?」は、現在にも通じる批評の諸問題を簡潔にまとめた俊抜な論考だと思います。

 蓮實重彦ではなく蓮實重彥と表記されていることにも共感を覚えます。「彦」ではなく「彥」と表記されています。これは大切なことです。

 漱石をそしらぬ顔でやりすごすこと。誰もが夏目漱石として知っている何やら仔細ありげな人影のかたわらを、まるで、そんな男の記憶などきれいさっぱりどこかに置き忘れてきたといわんばかりに振る舞いながら、そっとすりぬけること。何よりむつかしいのは、その記憶喪失の演技をいかにさりげなく演じきってみせることだ。(……)肝心なのは、漱石と呼ばれる人影との遭遇をひたすら回避することである。人影との出逢いなど、いずれは愚にもつかないメロドラマ、郷愁が捏造する虚構の抒情劇にすぎない。
(蓮實重彦著『夏目漱石論』(青土社)p.7・丸括弧による省略は引用者による)

 人影も影なのですね。はかないかげろうのような影。

 そもそも作品を前にして、人などいないのです。文字の向こうに浮かぶのは人の影。目の前にあるのは文字という、生きていない物だけ。

 それにもかかわらず、人はその生きていない物に、つい同類の影を目で追うのです。これは、(恥ずべきことではないのに、いまの人がなかなか認めたがらない)擬人であり呪術なのかもしれません。

 私が物に人影を追うひとりであることは確かです。間違いありません。

 文字(物) < 影(人)

 と書いたものの、物である文字が影だという思いも去りません。文字はたったひとりでなぞる影のようです。

 ひとひとり さみしさゆえに かげたどる

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