小説が軽んじられるとき(小説の鑑賞・02)
小説を読む、小説を鑑賞する
小説は軽んじられます。読まれているようで読まれていないのです。AなようでAではない。
読まれている、読まれていない――同じことなのです。
「読む」という言葉があると、固定した読むという行為があると想像されがちですが、「読む」には「読まない、読めない、読めないでいる、読み間違える、読み損なう、読み過ごす」が含まれているという意味です。
「このあいだ貸した『○○』だけど、読んだ?」
「読んだ読んだ。めっちゃ面白かった。ありがとう」
たとえば、「小説を読む」をテーマにした話はこんなふうに進みますが、「読む」とはそんなにお手軽な行為なのでしょうか? 人それぞれですけど。
そんなわけで、この連載の第一回目(「小説を鑑賞する(小説の鑑賞・01)」)では、「小説を読む」の代わりに「小説を鑑賞する」とか「小説を消費する」と書きました。これは意識してのことです。
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しかも「小説を鑑賞する」という言い回しをもちいると、絵画や映画や音楽と並べて話をしやすくなります。
絵を鑑賞する、映画を鑑賞する、楽曲を鑑賞する、小説を鑑賞する――このように同列に話題にすることが可能です。
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つまり、「小説を読む」という言い回しにまとわりついている通念や固定観念を揺さぶろうとか、「読む」という言葉を宙吊りにしようとたくらむことができます。
たくらんでうまくいく保証はありませんが、やってみる価値はありそうです。この連載では、「小説を読む」と言われている行為がどんな行為なのかについて考えてみたいと思います。
高をくくる
小説は読みにくいと私は思います。その読みにくさは、小説は読みやすいものだと高をくくるからではないでしょうか。
たとえば、映画や演劇や音楽は、複製として、つまりビデオや動画やCDとして鑑賞しない場合には、複数や多数の人たちとの共同鑑賞になるのが普通です。
つまり、場所と時間を決められて、拘束されるわけです。共同作業ですから、気を使うし、鑑賞中に大きなくしゃみをしたり、何度もトイレに立ったり、スマホの通話に出たりといった、勝手なことはできません。
映画や演劇や音楽と人間は、いわば一期一会の縁で結ばれているのです。その時その時の一回限りの真剣勝負みたいなものです。
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いっぽうの小説は複製で読むのが基本です。
小説の生原稿を読むことはまずないでしょう。執筆中の作家の横でパフォーマンスをジトーっと見つめているというライブもありえない気がします。
ふつうは印刷物として、あるいは電子書籍として、またはネット上で読むことになりますが、どれも複製です。
小説は複製で読んでなんぼ、複製で読むのが当たり前、複製以外の形態で読むのはまず不可能ということになります。
複製で読むのが基本だということが、小説の鑑賞のきわだった特異性だと言えます。
手軽に自分のものにできる
複製で読む小説としては、本、電子書籍、ネット上、オーディオブックが挙げられます。
とはいえ、話が広がりそうなので、小説を印刷物、つまり本として読む場合に限定します。
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本はコンパクトです。文庫なら手のひらにのります。楽に持ち運びができます。購入すれば、自分のものとしてそばに置いておけます。
たしかに、映画やお芝居や曲も、現在ではスマホで観たり聴けますから、複製として鑑賞できます。手のひらにのるスマホで楽しめるわけです。
とはいうものの、動画や曲を鑑賞するためには電気が必要だし、器械を操作もしなけばなりません。しかも再製をはじめたとたんに、時間も拘束されます。
その点、本は好きなときに、好きなように、面倒な操作なしで楽しめます。
本はいつも、そこにあるからです。
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好きな文庫や単行本の手触りや重さや字面を思いうかべてください。複製なのに「物」だという感じが濃厚です。
たしかに本は物、物体、物質なのです。火をつければ燃えるでしょう。
たとえ複製であれ、デジタル情報として配信されたり放送されたものとは異なる存在感が、本にはあります。
手に入れた、自分のものにしたという満足感が、本にはあるという意味です。
まさに(文字どおり)「手に入れた」です。映画やお芝居や曲では考えられない所有感です。
複製の存在感
このように、同じ複製と言っても、紙の本と、映画やお芝居や楽曲とでは、その存在感に大きな違いがあるようです。
その違いについて、もう少し考えてみましょう。
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手軽に自分の物にできる本ですが、要らなくなったら、人にあげたり、家のどこかにしまったり、売ったりもできます。
紙のリサイクルのボックスには、雑誌のほかに単行本や文庫本も入っていて、思わず本の表紙や背を見ることがあります。連れて帰ったこともあります。
私の場合には連れて帰るのは、たいてい小説です。
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本はいつでもどこでも読めます。しかも、どんなふうに読もうと文句は言われません。
なにしろ、どんなふうに読んでいるかは、本人以外には見えませんし、分からないからです。確認しようがないのです。
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小説を読むといういとなみは、あなたと小説だけのあいだで起こる出来事であり、「ふたり」だけの秘め事とも言えるでしょう。
ひ・め・ご・と。どう読もうと、何をしようと、誰にも分からない……。
あやしい方向に話がいきそうなので、軌道修正します。いずれにせよ、読書が孤独な作業であることは確かです。
確認できない
「マタヨシ先生がお薦めしていた『○○○』だけど、読んだ?」
「読んだ読んだ」
「おもしろかった?」
「めちゃくちゃおもしろかった」
「どんなところが、おもしろかった?」
「とにかく感動したよ。なんか、こう、ぐっと来たよ。読んでよかったとマジで思う。君もぜひ読んでみなよ」
「うん、そうするね。情報、ありがとう」
「どういたしまして」
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ある小説を読んだか? 本当に読んだのか――。
これはかなり踏みこんだ会話をしないかぎりは、確認しようがありません。とはいえ、下手に突っこむと相手の信頼関係に傷がつきます。
上で述べたように、小説を読むという行為は基本的に孤独な作業であり、「ひ・め・ご・と」なのです。
小説をどう読んだかなんて、いちいち他人に詳しく説明することではないのです。あの嫌な、押しつけられた読書感想文を除くと。
積ん読
コンパクト。
自分のものにできる。
どう読んだか、あるいは、そもそも読んだか読んでいないかを、他人にいちいち報告する必要がない。
孤独な作業。
だから、積ん読するのです。ようするに、高をくくっているのです。楽観しているとも言えるでしょう。
気軽に買える。 ⇒ 気軽に買う。 ⇒ もう自分だけの物。 ⇒ その気になれば、いつでも読める。 ⇒ とりあえず、読まないから積んでおこう。そういえば、まだ読んでいないのがあるけど、ま、いっか。 ⇒ 気軽に買える ⇒ 気軽に買う。 ⇒ もう自分だけの物。 ⇒ (……)
こういう流れになります。
私のことです。実体験を時系列で見える化してみました。
本の小説の場合には、手軽に自分の物になることが、ないがしろにすること、つまり軽んじることへと通じている気がします。
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小説は複製で読んでなんぼ、複製で読むのが当たり前、複製以外の形態で読むのはまず不可能ということになります。
複製として読むことが、小説の場合には仇(あだ)になっているようです。
うちで積ん読してある愛しい本たちが、動かぬ証拠です。
その他大勢のひとつであること
小説は複製で読んでなんぼ――残酷な言葉です。小説がかわいそうだし、だいいち、小説にたいして失礼だと思います。
読まれるために生まれた――。積ん読されている本たちは、授けられた使命をまっとうできずにいるのです。
複製として生まれた、つまり、その他大勢の一冊(one of them)にすぎないという出自のために、小説はその存在がないがしろにされているのです。
複製文化――大量生産や大量消費のことです――の恐ろしさとも言えるでしょう。
大げさに聞こえるかもしれませんが、心からそう思います。
一期一会の縁
高をくくらず、楽観せず、買いだめせず、その他大勢の一冊( one of them )として生まれた小説との出会いを、唯一無二( the only one )との出会いと考え、一期一会の縁だと思って、一冊一冊と真剣勝負――。
はぁ……、私には無理なようです。
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