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まばらにまだらに『杳子』を読む(08)


見て見て


『杳子』の「一」を読んでいると、目につくことがあります。くり返されているし、反復されているのです。

 たとえば「見」「目」「感」という文字が頻出します。驚くほど多いのです。まるで「見て見て」と言っているように感じられるほどです。

 そう感じたら、ちゃんと見てやらなければなりません。言葉は健気だし、いとおしいものです。

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「見」「目」「感」を見ていて気がつくことがあります。

 この小説の視点的人物である「彼」がやたら「見る」とか「目にする」のです。いっぽうで、杳子はやたら「感じる」とか「感じ取る」のです。

 もちろん、「彼」も感じたり感じ取ったり、杳子も見たり目にしたりしていますし、ふたりとも聞いてもいますが、頻度という点では、「彼」は「見る」、杳子は「感じる」なのです。

 これはじっさいに見ていただくしかありません。せっかくですから、どうか見てやってください。

 文字を、です。読むというより、見るのです。

「見る」を見落とす、「目」が目にとまらない


 エドガー・アラン・ポー作の短編『盗まれた手紙』についてジャック・ラカンが何か言ったとか書いたとかいう話を聞いた覚えがあります。

 又聞きというか、いわば噂話として聞いた話なので、詳細は不明なのですが、見落としがテーマだったらしい気がします。

 そこにあるのに気づかない、見えるのに見ていないという感じでしょうか。くり返し見ていることで見えないという感じかもしれません。反復は人の目をくらます暗ます晦ます眩ませるとか……。

 うろ覚えなので曖昧な話し方をして、ごめんなさい。

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 なお、『盗まれた手紙(The Purloined Letter)』は青空文庫で読めます。

 原題にあるpurloinという動詞はあまり見かけない単語ですが、loinはフランス語で「遠い」という意味がありどきっとします。近くにあるのに遠いとか、近いは遠い、さらには近いは遠いである、という思いを呼びさまします。お茶目なポーのことですから計算しているのかもしれません。

 the stolen letter と the purloined letter では違って見えるのです。「見える」が味噌です。意味(文字の向こうに遠くあるもの)ではなく、文字(目の前に、つまり間近にあるもの)に目を向ければ、まったく異なって見えます。

 読むと見えなくて(意味を取ろうとする)、見ていると見える(文字をながめる)。まさに、purloin された letter(文字・手紙)です。

 そうした見方の相違は、『杳子』の冒頭でケルンをしるし(意味)として見ている「彼」と、ケルンの姿(ありよう、おそらく力の均衡した釣り合い)を感じ取っている杳子、つまり、見る「彼」と感じる杳子という話と重なる部分があります。これは近日中に、記事にする予定です。

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 また、佐々木直次郎訳では、エピグラフになっているセネカの言葉が叡で始まっていて、さらにどきっとしました。旧字体である睿を連想したからです。こういうのを符合と感じてしまう自分がいます(符合という言葉も古井がよく使った言葉です)。

 ここまで言ったので、話せるところまで話しますが、気になる漢字なのです。

 睿は漢和辞典の解字の欄を見ると、「目+深い谷」とあり(漢字源より)、深い谷を見つめるさまが見えてきます。まるで『杳子』の冒頭ではありませんか。睿には「さとい、あきらか」のほかに「ひじり」なんて訓義もあるそうです。古井的な言葉とそのイメージを感じないではいられません。

 こうしたことについては、いつか失礼のない形で記事に書くつもりです。

 分かる人には分かるというか、訳の分からないことを言って、ごめんなさい。この連載をやっていて、つかれているのかもしれません。

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 文字・活字(letter)、手紙(letter)、文学(letters)。

 いま述べた又聞きの見落としの話は、さきほど述べた、「見る」という文字(活字)を見落とす、「目」という文字が目にとまらないという話と似ています。ついでに言うと、「感じる」という文字が感じ取れないというのにも似ています。

「見る」を見落とす。「目」が目にとまらない。「感じ取る」が感じ取れない。

 この種のことはよくあります。ひとごとではなく、私のことです。

 自分が読んでいるというか、見ているのが文字(活字)であることを忘れるなんて、しょっちゅうです。いまも、忘れそうになっています。

 文字ではなく、文字の向こうを見ている感じ。うわの空というか。

呪術的効果


「くり返す」をくり返す、「反復」を反復する。

「まばらにまだらに『杳子』を読む(07)」で触れましたが、『杳子』の最終章では、「くりかえす」や「繰り返す」や「反復」という言葉とそのバリエーションが何度も出てくるのですが、これも意外と気づかないというか見えないものです。

 あれだけくり返されると呪術的な効果を感じます。おまじない、お呪い、呪い、のろい、詛い、呪詛――みたいに。

 たしかに古井由吉の文章には言葉やイメージの反復が多く、まともに付きあっていると既視感の洪水に襲われ、目まいや目眩や目舞いどころか眩暈におちいることがあります。それが魅力なのです。

それにそういう癖の反復は、生活のほんの一部じゃないか。どんなに反復の中に閉じこめられているように見えても、外の世界がたえす違ったやり方で交渉を求めてくるから、いずれ臨機応変に反復を破っているものさ。
(pp.163-164)

ケーキと紅茶が杳子の憎む反復の中でもっとも屈辱的な反復を、物を食べる時の癖の反復をほのめかして、杳子の前に嘲弄ちょうろう的な表情で並んでいた。
(p.164)

 こういうくり返しを、言葉の魔術とか魔法という言葉で呼んでお茶を濁したり、強迫なんていう、もっともらしい言葉で片づけたくありません。そういう私は、さきほど呪術的な効果なんて言葉に置き換えてしまいましたが。

 いずれにせよ、くり返しは意外と気づかないというか見えないものだという気がします。引用箇所は、この作品のなかで重要な意味をもつと思います。

書いてないことを読んでしまう


 話が飛んで恐縮ですが、学生時代に非常勤講師として大学に教えにみえていた蓮實重彦先生の言葉を思いだしました。

 たしか、ロラン・バルトの『テクストの快楽』(邦訳書)を、原著の Le Plaisir du texte と対照しながらみんなで読んでいた時のことです。

 書いてあることを読むのは難しい。つい書いてないことを読んでしまう――。

 こんな意味のことを先生がおっしゃった記憶があります。古井由吉がよくつかった「偽の記憶」という言葉がありますが、それかもしれません。

 いずれにせよ、今回ずっとしている話と似ている気がします。

「見る」を見落す。「目」が目にとまらない。「感じ取る」が感じ取れない。

差違と反復


 蓮實先生と言えば、また思いだすことがあります。

 そうした観点からみると、『経験論主観性』(五三年)いらいのドゥルーズの著作の大部分が、『ニーチェ哲学』(六二年)『マルセル・プルーストシーニュ』(六四年)『差違反復』(六九年)『資本主義精神分裂症』(七二年)といった具合に、むしろ投げやりと思える簡潔さで並置の接続詞とを含んでいることの意味が、多少なりとも把握しうるように思う。
(蓮實重彦著『批評 あるいは仮死の祭典』せりか書房刊・p.64)

 そう言われてみると、そうなのです。

 Empirisme et subjectivité、経験論と主体性、Nietzsche et la philosophie、ニーチェと哲学、Proust et les signes、プルーストとシーニュ、 le froid et le cruel、マゾッホとサド、冷淡なものと残酷なもの、原子と分身、Différence et différenciation、Différence et répétition、差異と反復、Spinoza et le problème de l'expression、スピノザと表現の問題、Leibnitz et le Baroque、ライプニッツとバロック、記号と事件、Critique et clinique、批評と臨床、L'Île déserte et autres textes: Textes et entretiens、Capitalisme et schizophrénie、資本主義と分裂症、Politique et psychanalyse、政治と精神分析

 タイトルや副題に並置の接続詞「と」「et」が含まれています。たしかに見落としてはならない「と」なのです。

 なぜ見落としてならないのかについては、どうか『批評 あるいは仮死の祭典』所収のジル・ドゥルーズ論をお読みください。

 私が説明すると、書いてないことを書いてしまいそうな気がします。いつもそうなのです。

 ひと言だけ言いますと、さきほどの『盗まれた手紙』についての余談ではありませんが、たとえば「近いと遠い」というふうに「と」でつなぐと、「近い」と「遠い」が反対に見えたり思えてきますが、反対の関係にあるわけではない――ということのようです。「と」は無視できないし、あなどれないのです。

 この文章をお読みになると一目瞭然ですが、私はきちんと読めないし書けないのです。まばらにまだらに――これはレトリックではありません。

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 なお、引用部分で「と」に振られた圏点「﹅」(傍点とか脇点と呼ばれることもあります)は、蓮實先生の文章に頻出する約物のひとつです。

 先生の文章における約物については、「2/3『仮往生伝試文』そして/あるいは『批評 あるいは仮死の祭典』【中篇】」という記事で触れています。これに加筆する形で――ルビとからめて――、近いうちにあらためて書いてみるつもりです。

(つづく)

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