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「写る・映る」ではなく「移る」・その2

  今回は「「写る・映る」ではなく「移る」・その1」の続編です。


 まず、この記事で対象としている、『名人』の段落を引用します。

 しかし、私は写真の感情が心にしみた。感情は写される名人の死顔にあるのだろうか。いかにも死顔に感情は現われているけれども、その死人はもう感情を持っていない。そう思うと、私にはこの写真が生でも死でもないように見えて来た。生きて眠るかのようにうつってもいる。しかし、そういう意味ではなく、これを死顔の写真として見ても、生でも死でもないものがここにある感じだ。生きた顔のままうつっているからだろうか。この顔から名人の生きていたことがいろいろ思い出されるからだろうか。あるいは、死顔そのものではなくて、死顔の写真だからだろうか。死顔そのものよりも、死顔の写真の方が、明らかに細かく死顔の見られるのも妙なことだった。私にはこの写真がなにか見てはならない秘密の象徴かとも思われた。
(川端康成『名人』(新潮文庫)pp.29-30)

 前回に引きつづき、上の段落から少しずつ引用しながら話を進めていきます。 

*開かれた表記としての「ひらがな」


・「生きて眠るかのようにうつってもいる。しかし、そういう意味ではなく、これを死顔の写真として見ても、生でも死でもないものがここにある感じだ。」

「生きて眠るかのように」というフレーズを否定し、「生でも死でもないもの」という言い方にあらためています。表向きはそうでしょう。

 でも、本当に書き改めたいのであれば、否定する部分を削除しているはずですから、作者は「生きて眠るかのように」という文言をどうしても生かしておきたかったと考えられます。

 たしかに「生きて眠るかのように」は死者としてはありえないわけですが、前回の後半でやや詳しく述べたように、「生きて眠る」という身振りは川端にとってオブセッションとも言っていいほど特権的な意味を持っていると私は考えています。

 だから、異なる作品に、この身振りがくり返し登場するのです。

     *

「生きて眠るかのようにうつってもいる。」の「うつっている」は、私には「写っている」というよりも「移っている」に近い意味合いに感じられます。

 尊敬する川端先生には申し訳ないのですが、ここで文をいじらせてもらいます。

 生きて眠るかのようにうつってもいる。
 生きて眠るかのように写ってもいる。
 生きて眠るかのように映ってもいる。
 生きて眠るかのように移ってもいる。

 写真の話ですから、現在の標準的な(曖昧な言い方ですけど)表記では、「写っている」と書いてもいい文です。「映っている」の場合には、目に映っていると取られるかもしれません。

「移っている」と書かれているとすれば、「乗り移っている」とか、「魂が移っている」というニュアンスで受けとめられるかもしれません。

 私は、そうした意味合いの「移っている」を「うつっている」という開かれたひらがなの表記に感じます。

 ひらがなは「開かれている」のです。

     *

「生きて眠るかのようにうつってもいる。」

 この平仮名での表記に私はぞくっとします。

「写っている」とか「映っている」よりも、「うつっている」と書かれてると、魂が移っているという意味合いの「移っている」を感じさせるからにほかなりません。

 ひらがなの「うつっている」は、意味を明確にしていない、つまり曖昧なために、読み手に対して「開かれている」という意味です。

 なお、いまは校正用語の「ひらく(←→とじる)」について話しているのではありません。私の個人的な思いおよび意見です。

 強いて言えば、ウンベルト・エーコの著作のタイトルである「開かれた作品」の「開かれた」に近いのかもしれません。

     *

「写っている」には「写」、「映っている」には「映」という具合に漢字がまじっています。つまり、「うつっている」の「うつ」を分けているのです。

 大和言葉(和語)を漢字で分けることで、理解し解釈していると言えるでしょう。

 ところで、「分ける」ことで「分かる」でしょうか? 分けても分からないことがあり、分けたから分からなくなることもあると私は考えています。

「分かる」は意外と分からず屋なのです。

     *

・「うつす」⇒「写す・映す・移す・遷す・撮す」
・「わかる」⇒「分かる・解る・判る・別る」

 ひらがなは、おもに曲線で成り立っています。一筆で書ける印象の曲線です。いっぽう、漢字には直線が多くて、かくかくしています。角(かど・かく)が目立ちます。

 直線や、かくかくしたり、かどかどしたものは体に入りにくいし、入れにくいのです。大腸や胃の検査でつかう内視鏡カメラを思いうかべてください。

 管になっています。曲線だと体に入れやすいからです。めちゃくちゃこじつけて、ごめんなさい。

 でも、言えていませんか? 

(ぽきぽきとあちこちで折れた)直線は体に入れにくい、(しなやかにたわんでしなる)曲線は入れやすい――。物理的にも、比喩としても、そんなふうに言えそうな気がします。

 その意味で、開かれた表記であるひらがなは、心を開いてくれるのかもしれません。意味を狭く限定して閉じかけた心を開いて、意味を取る余白の部分や車のハンドルの操作について言う「遊び」(余裕)を持たせてくれるのです。

 ただし、ひらがなだと読みにくい(誤読しやすい)とか、解釈が幾通りにもできて、わずらわしいと感じる場合もあるでしょうし、またつねにそう感じる人もいるでしょう。ケースバイケースであり、人それぞれです。

     *

 漢字とひらがなの体への「入り方」では、以下の違いもあります。

・漢字:文字の形が意味と直結しているために、ダイレクトかつ視覚的に意味が頭に入る(意味が「見える」ものであるという感じ)。瞬時に入る。
・ひらがな:文字をいったん音にして、意味が入ってくる(意味が「聞こえる」ものであるというイメージ)。漢字にくらべると入るのに時間がかかる。

 漢字はクリアにさっと頭に入って、さっと流れ去り、ひらがなはじわりと体に入り、じわじわっと効いてくる。そんなふうに私は感じます。

     *

 なお、漢字とひらがなについて、いま述べたのと同様の趣旨で書いた「意味を絵で見せる漢字、意味を音で奏でる仮名(好きな文章・05)」があります。興味のある方はぜひご覧ください。

 また、人は物理的な物や人の移動という意味での「移す」ができない場合に、いわば代償行動として、広い意味での影(複製)を「映す・写す」をもちいるのではないか、という考えで書いた記事の「「移す」代わりに「映す・写す」」がありますので、よろしければ、どうぞ。

*「写る」ではなく「うつる」


 以上のように考えると、以下の箇所にある「うつっている」が「移っている」という解釈を残した表記として読めるかもしれません。

・「生きて眠るかのようにうつってもいる。しかし、そういう意味ではなく、これを死顔の写真として見ても、生でも死でもないものがここにある感じだ。」 

「うつっている」を「移っている」と読むなら、「そういう意味ではなく」と否定された形でありながら、つづいて書かれる「生でも死でもないものがここにある感じだ。」という含みのある表現と通じるような気もします。

「生でも死でもないもの」とは、生と死を超えて「ここにある」、魂かもしれません。魂の存在は「感じだ」と言うしかないものでもあるでしょう。

 次の箇所にうつりましょう。

*Aそのもの、Aの写し(Aの影)


・「生きた顔のままうつっているからだろうか。この顔から名人の生きていたことがいろいろ思い出されるからだろうか。あるいは、死顔そのものではなくて、死顔の写真だからだろうか。」

 引用箇所の第一文は、魂が移っているという意味合いを残したまま、「生きた顔のまま写真に写っているからだろうか」と読めます。

 第二文は、死顔の写真を見て、そこに生前の名人についての思い出が浮ぶというふうに取れます。「あるいは」ではじまる第三文が私には興味深く感じられます。

 死顔そのもの
 死顔の写真

 この両者を対比させているからです。変奏してみます。

 Aそのもの
 Aの写し、Aの影

 写真は何を写しているのでしょう? 形でしょうか? 形以上の(あるいは形を超えた)「何か」でしょうか? 

     *

 次のような類推や連想も起きます。

 事物そのもの
 事物の「写しと影」としての言葉と文字

 わくわくする対比でありテーマです。

 ただし、

・Aそのもの
・Aの写し、Aの影

と考える場合には、

・Aが「事物」の場合

・Aが「人の顔」の場合

とは、大きく異なる気がします。

「事物」と「人の顔」とでは、その「写し」や「影」を同列に語るわけにはいかないのではないでしょうか。

 人の顔は、人において特権的な位置を占め、したがって特権的な意味を持つのではないかと私は感じています。「うつる」で言えば「写る・映る」ではなく、むしろ「移る」寄りです。何が「うつる」のかと言うなら、物ではなく「かげ」でしょう。

     *

「写し」よりも「影」のほうが、私たちには馴染みの深いイメージであり比喩だと思います。

 影がうつるためには、光と物(うつされる形)と物(うつる場)が必要なのですが、こうした物理的(光学的)なイメージを比喩としてもちいて、人の顔を語るのは現実的ではない気がします。

 というのは、人の顔を見るときの人は物理的・光学的・生物学的に「見る」のではなく、思いの中で見ていると考えられるからです。

 物を見るときにも、人は思いの中にいるわけですが、人の顔を見るときには、その度合いがきわめて高いと私は感じます。

「見る」の中に占める「思う・考える」(思い浮かべる・思い出す・思い描く)の度合いが高いという意味です。人の意識の集中度は限られていますから、「思う・考える」の度合いが高いときには、ほぼ「見ていない」とも言えるでしょう。

 見たいものを見る、見たくないものは見ない(または見過ごす)、目の前にある像ではなく記憶にある像に気を取られている、目の前にある像ではなく思い(想像・空想・幻想・妄想・幻覚)に耽っている――これが、ほぼ「見ていない」という意味です。

「見ている」と「見ていない」がごく短い瞬間に切り替わっているのかもしれません。

     *

「見る・見える」という言葉のイメージが、どれほど機能しているかは疑問です。人が想定しているほど、人は現実には「見ていないし見えていない」のではないかという気がします。

 この「見えてないし見ていない」状態、つまり「見る・見える」よりもむしろ「思う・考える」に入りこんでいる度合いは、人が精神的に動揺している場合に起きている気がします。

 具体的には過度の喜怒哀楽や、パニックを起こしているに近い状況です。それに加えて、私の感覚では、

1)鏡などで自分の姿や顔を見ている、
2)時計を見ている、
3)文字を見ている(読んでいる・書いている)、
4)他人の顔やその写し(絵・写真・動画)を見ている

ときには、「見る・見える」よりも「見ない・見えない」と「思う・考える」に傾いているように感じています。

 以上の状態では、「似ている」、「そっくり」、「ほぼ同じ」、「同じ」、「同一」の判断(判断とは言え、人にとってはあくまでも印象です)のあいだで揺れているからだという気がします。

 この四つの場合については、いつか記事にしたいと思っています。

     *

 話をずらします。

 古い日本語では、「影」という言葉が今の日本語の語感よりも厚みを持っていたようです。

 辞書で月影を調べると次の語義(広辞苑からの引用)があるそうです。

・月のひかり。
・月の形。月の姿。
・月の光に映し出された物の姿。

 上の語義は「かげ:影・陰・蔭・翳」(広辞苑)を見出しとする語義とも重なります。

 これを「うつる:移る・遷る・映る・写る」(広辞苑)を見出しとする語義と照らし合わせてみると、なかなか興味深いものがあり、両者を見くらべていると時の経つのを忘れるほどです。

 そこに、「人の顔」を持ってきて、

・「人の顔」の「かげ」が「うつる」

あるいは、

・「人の顔」の「かげ」を「うつす」

というふうに、言葉を並べ、組み合わせてみると、ひらがなで表記した「かげ」と「うつる・うつす」の多義性が浮かびあがってきて、気が遠くなります。

*「彼はいくつもの場所に同時にいるような気がした。」


 話は飛びますが、古井由吉の『妻隠』にある次の箇所が思い出されます。

白い人影が相変わらず立ったり坐ったり、忙しく立ち働いている。
(……)
ときには彼はいくつもの場所に同時にいるような気がした
(古井由吉『妻隠』(『杳子・妻隠』所収・新潮文庫)p.196・太文字は引用者による)

 高熱にうかされて会社から自宅へと車で運ばれつつある(うつされつつある)自分を、熱が引いたいまになって回想する寿夫(この小説の一貫した視点的人物)の思いを描写した文章の一部です。

 寿夫は横たわったままでいるわけですが、これは古井における、ヘルマン・ブロッホの「ウェルギリウスの死」的な身振りでもあります。⇒ 「古井、ブロッホ、ムージル(その1)」

白い人影」とは、「白衣の若い男」p.194⇒「白っぽい人影」p.195⇒「白い人影」p.196)と変奏される、会社の医務にいた医師であり、同時に自宅で看病する妻の姿(像)でもあります。私は「白」に古井の偏愛した言葉とイメージである「明」、つまり光を感じます。

 私のなかでは、引用箇所にある「彼はいくつもの場所に同時にいるような気がした」が、辞書を読みながら言葉の多義性に触れるときの自分の心情と重なります。

 この部分を、近いうちに記事にしようと考えているからかもしれませんが(「見る「古井由吉」、聞く「古井由吉」(その3)」の続編として)、「かげ」と「うつる」を思うとき、この場面が浮んでくるのです。

     *

 古井の小説のこの場面(原文ではもっと長い描写です)には、古い日本語の「かげ」と「うつる・うつす」がいまの日本語にうつされて、そのかげとしてあらわれているように思えてなりません。

 時がうつり、それにつれて言葉もうつろっていても、いまの言葉はもともとあったかげを引きずっている。そんな気がします。

     *

 物ではなく人の顔を語る場合には、「かげ」「うつる・うつす」の多義性と多層性とたわむれる形で語るのもまた面白いのではないでしょうか。

 くり返しますが、人の顔は人にとって特権的な意味を持っているようです。

     *

 話が飛んで申し訳ありません。いまの私のなかでは、つながる話なのです。深いところで密接につながります。

 私の思いと印象をあれこれ語るよりも、この『名人』という作品で、死顔の描写と、死顔の写真の描写がどのように、言葉(文字)として書かれているか、つまり具体的な細部に目を注ぐ必要がありそうです。

(つづく)

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