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古井、ブロッホ、ムージル(その1)

 古井由吉の小説と、小説についてのエッセイを読んでいると、古井が学生時代と大学教員時代に読みこんだドイツ語で書かれた作品を、古井が律儀になぞりながら創作していたような気がすることがあります。

 また、古井が大学教員を辞めて作家となってから、ドイツ語で書かれた小説を日本語に翻訳したことが、古井の文章に大きな跡を残しているのではないかと感じることもあります。

 小説についての古井のエッセイと、古井の小説に呼応するものを感じるからだと思います。

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 古井は卒業論文でフランツ・カフカを、修士論文ではヘルマン・ブロッホをあつかったようですが、私はヘルマン・ブロッホとロベルト・ムージルの文章が、作家活動を始めた頃の古井の書き方を支えてきたのではないかと考えています。

 そんなわけで「古井、ブロッホ、ムージル」という連載を書くつもりでいるのですが、これはとても大きなテーマです。明らかに私の手に負えるテーマではありません。

 とはいうものの、書いてみたい気持ちを抑えきれないので、技量不足と勉強不足と準備不足にもかかわらず、見切り発車で書き始めてみることにします。


横たわって耳を傾ける


 古井由吉に「ヘルマン・ブロッホ「ウェルギリウスの死」――象徴と夢について」という興味深い論考があります。以下は、その冒頭の引用です。

 すでに死のしるしを額におびて、ブルンデンシウムの港に到着した病めるウェルギリウスは、皇帝を迎えて熱狂する群衆のあいだを輿に運ばれて来て、やがてアウグストウスの宮殿の一室に落着き、遠い宴のさざめきを耳にしながらひとりもの思いに耽りはじめる。
 これがウェルギリウスの地獄くだりの発端である。
(古井由吉「ヘルマン・ブロッホ「ウェルギリウスの死」――象徴と夢について」(『日常の"変身"』(作品社)所収・p.148より・以下同じ)

 このように、ブロッホ作の「ウェルギリウスの死」の背景と状況が簡潔に要約されていますが、「遠い宴のさざめきを耳にしながらひとりもの思いに耽りはじめる」という部分に私は惹きつけられます。

 後述しますが、私が勝手に「聞く「古井由吉」」と呼んでいるものによく似ている気がするからです。これに続く部分を見ると、その印象がさらに濃くなります。

 ウェルギリウスは熱をおびた身体を寝床に横たえ、おのれの両足さえはるか遠くに横たわっているような分解感にひたりながら、何ものかにむかって一心に耳を傾けている。それはかれが生涯なれ親しんだ姿勢だった。そのようにしてかれは幼い頃、はてしない潮の最後のこだまのごとくかすかに寄せて来る何ものかに耳を傾けたことがあった。そのようにしてかれは生涯、夜な夜な耳を傾けてきた。そして、今夜も。(p.148)

 それほど長くはないこの段落で、「耳を傾けている」「耳を傾けたことがあった」「耳を傾けてきた」と反復されていることに目を見張らずにはいられません。

 こうした反復は古井の書く文章には珍しいことではありません。大切な部分になると同じ語句を律儀にくり返す癖があると言っても言い過ぎではないでしょう。

 さらに私が注目するのは「寝床」「横たわっている」と、「夜な夜な」「今夜も」という反復です。

「書く人」である古井の姿勢、あるいは佇まいのようなものがよくあらわれている反復です。

 なお、この論考は、『日常の"変身"』(作品社)の初出一覧によると「「立教大学研究報告」昭和四十二年」だそうです。当時大学教員だった古井の文章だと考えられます。

「横たわる漱石」


 ところで、「横たわって耳を傾ける」という身振りに、私は蓮實重彥が『夏目漱石論』で取りあげた身振りを連想しないではいられません。

 気になる部分を引用します。

 横たわること﹅﹅﹅﹅﹅﹅、それは漱石的小説にあっては、何らかの意味で言葉の発生と深くかかわりあった身振りである。仰臥の存在のかたわらで、人と人とがであい、言葉がかわされ、そして物語がかたちづくられる。
(蓮實重彥著「横たわる漱石」(『夏目漱石論』青土社)所収・pp.27-28)

 漱石の小説では、登場人物による「横たわる」という身振りが、作品における言葉と物語の発生と深くかかわっている、と要約できそうな言葉の身振りが、ここでは見られます。

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 しばしばオフェリアのイメージが作者の筆から洩れ、川底めがけての等身自殺が語られたりもする『草枕』の中で、画工たる「余」は、みずからオフェリアの入水を実践してみるかのごとくに、宿の浴槽に裸の身を横たえる。すると、たちまちオフェリアの主題は、漱石的「横臥」の主題と親しく連帯しはじめるのだ。漱石的「存在」にあってのオフェリアとは、あくまでも水面に横たわる存在であり、その意味で『こゝろ』の「先生」との深い血縁を示す人物なのである。
(蓮實重彥著「横たわる漱石」(『夏目漱石論』青土社)所収・p.41)

  では、たとえば『吾輩は猫である』の最後に描かれる猫の溺死ぶりは、風流の域に達しているであろうか。風流とは、そもそも何であるのか。なるほど「吾輩」は、水甕の中でもがき苦しみながら、まるで『草枕』の湯槽に浮かぶ「余」にならったかのごとくに、「前足も、後足も、頭も尾も自然の力に任せて抵抗しない」事にしたとき、「只楽である」という境地に至っていた。
「只楽である」ためには、それ故、全身の力をぬいて動きをとめなければならない。それはちょうど、歯痛にせめさいなまれて歯医者の治療台に身を横たえる『門』の宗助の姿勢を、水の上で演じてみるようなものだ。
(蓮實重彥著「横たわる漱石」(『夏目漱石論』青土社)所収・p.42)

「横たわる」という身振りは、寝床、死の床、川床、船底、湯船、桶といった床(ゆか・とこ)や船(棺をふくむ器)と結びつきやすいでしょう。コロケーション(言葉同士の結びつき)のレベルでも、イメージの連想というレベルでも、です。

 そう考えるならば、ある決まり切った定型が、同じ作家による複数の作品の言葉の上でも、あるいはその物語(筋)のレベルでも、形を変えてくり返される、つまり変奏されながら反復されるというのは、理解しやすいなりゆきではないでしょうか。

 いま「なりゆき」という言葉をつかいましたが、おそらく、くり返すと言うよりもくり返してしまう、反復すると言うより反復してしまうのです。

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 私が注目するのは「横たわる」が、なんらかの形で死に結びついていたり、死を想起させる(眠ることをふくめて)身振りであることです。

 生命の停止である死と親和性があるにもかかわらず、この「横たわる」身振りが作品の生命を促して維持したり、言葉を呼び寄せて蘇生させるとすれば、それはまさに蓮實的な言葉の身振りでもあると言えそうです。

 蓮實的な言葉の身振りとは、私の好きな言い方をすれば、「……であって、……でない」「……であって、……ではない」「……でありながら、……ではなくってしまう」というものです(詳しくは「でありながら、ではなくなってしまう(好きな文章・01)」をお読み願います)。

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 死と親しい身振りでありながら、生を呼び寄せてしまう。
 死んだ振りを装いながら、生きている振りを演じている。
(生きていなければ死んだ振りも生きた振りもできない・人)
(生きていないから死んだ振りも生きた振りもできる・文字・言葉)

 蓮實の「横たわる漱石」を読んでいると、そんな言葉の動き(身振り)に注がれる蓮實の眼差しを感じないではいられません。

 それだけではありません。いま述べた身振りは、私のなかでは古井的「存在」の身振りと重なるのです。

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「横たわる漱石」で、私にとってもっとも刺激的なのは、以下の部分です。

横たわるものは、横たわるものとして、横たわることを描くことはできない。横たわる姿勢の底で睡魔とたわむれつつある動かない自分を、そっと観察する他者の視線が、是非とも必要なのである。鏡のようなあからさまな反映をもてあそぶのではなく、あつかましい論証にうったえるのでもなく、あるいは諧謔を弄するように、あるいは影のごとく捉えがたい気配として、作品の真の主題をほのめかしてくれそうな存在を、仰臥者は睡りのうちに招き寄せているのだ。
(蓮實重彥著「横たわる漱石」(『夏目漱石論』青土社)所収・pp.43ー44)

  この「そっと観察する他者の視線」がなければ、横たわる身振りは描写できないということでしょう。

 漱石のように複数の登場人物同士のやり取りが物語を形成するのとは異なる作風の小説群を古井は書きましたが、上の蓮實の指摘は古井の作品を見る場合にもおおいに参考になると私は感じています。

横たわる古井的「存在」


 古井由吉が初期に出した『水』という短編集があります。表題作の『水』は、その後の古井の小説に繰り返し登場することになる情景やイメージに満ちていて興味深い作品です。

 たとえば開腹手術のために入院した語り手が、音と気配と想像で病院内の様子を探る場面があるのですが、これは何度も後の作品で変奏されて出てきます。

 反復ではなく変奏ですから、同じ病気ではないし、同じ年齢の人物ではなく、同じ病院でもありません。でも病室のベッドにいわば目をふさがれたような形でいて(仰向けの場合もうつ伏せの場合もあります)、病院内や病院の外の様子にあれこれと思いをめぐらすのですが、その筆致がじつに濃密で、ときとして不穏かつ不気味に感じられることさえあります。

 それが古井の魅力なのですけど。

 そうした作品を読むたびに既視感に似た感情を覚え不思議な気分になります。ああ、まただとか、あれっ、たしかこれは……という感じです。

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 今回は総論をしているので、横たわる古井的「存在」を作品の細部で具体的に読む作業は、今後の回にまわします。

「聞く「古井由吉」」「見る「古井由吉」」


 これまでに私は、「聞く「古井由吉」」と「見る「古井由吉」」という図式で古井の作品を読んできました。

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聞く「古井由吉」:ぞくぞく、わくわく。声と音が身体に入ってくる。自分が溶けていく。聞いている対象と自分が重なる。対象が染みこんで自分の一部と化す。世界と合体する。

見る「古井由吉」:ごつごつ、ぎくしゃく。事物の姿と形がそのままはっきりと見えるままで異物に変貌する。異物感。異和感(古井の好む表記です)・違和感。自分が解体されていく、崩壊していく感覚におちいる。

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 この図式で書いた記事が、「見る「古井由吉」、聞く「古井由吉」(その1)」、「見る「古井由吉」、聞く「古井由吉」(その2)」、「見る「古井由吉」、聞く「古井由吉」(その3)」です。

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 「古井、ブロッホ、ムージル」という連載を始めるにあたり、以上の見立てに付け加えたいことがあります。

聞く「古井由吉」:ぞくぞく、わくわく。声と音が身体に入ってくる。自分が溶けていく。聞いている対象と自分が重なる。対象が染みこんで自分の一部と化す。世界と合体する。ヘルマン・ブロッホの影。

見る「古井由吉」:ごつごつ、ぎくしゃく。事物の姿と形がそのままはっきりと見えるままで異物に変貌する。異物感。異和感(古井の好む表記です)・違和感。自分が解体されていく、崩壊していく感覚におちいる。ロベルト・ムージルの影。

「ヘルマン・ブロッホの影」と「ロベルト・ムージルの影」という文言が加わったわけですが、本当にそう言えるのだろうかという気持ちが、まだ自分のなかにあります。

 とはいうものの、さきほど紹介した古井由吉によるヘルマン・ブロッホの読み方と見解は、「聞く「古井由吉」」という上の私の見立てに、ある程度は近いのではないかと思います。

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 次の段階としては、ロベルト・ムージルの作品を引用し、どうしてその作風が「見る「古井由吉」」に近いのかをお話しする必要があるのですが、その作業は次回にまわすことにします。

(つづく)

※ヘッダーの写真はもときさんからお借りしました。

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