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うつす、ずれる

 今回は「何も言わないでおく」の続きです。見出しのある各文章は連想でつないであります。緩やかなつながりはありますが、断章としてお読みください。

 断片集の形で書いているのは体力を考慮してのことです。一貫したものを書くのは骨が折れるので、無理しないように書きました。今後の記事のメモになればいいなあと考えています。


書く、描く


「書く」のはヒトだけ、ヒト以外の生き物や、ヒトの作った道具や器械や機械やシステムは「く」。

 とりあえず、単純にそう考えてみます。

「書く」と「描く」の違いは何か? 「書く」とは何か? 「描く」の定義は? そうした疑問は、とりあえず脇に置きます。

 そうした性急な質問に性急な答えを用意するのを保留する形で、話を進めていこうと考えているのです。

     *

「書く」と「描く」を「かく」と表記してずらしてみましょう。

 かく、なぞる、うつす
 かくとずれる、なぞるとずれる、うつすとずれる

 ずれる、たがう、ちがう、ことなる、あわない、あやまる、それる、かわる、はずれる

うつす


「うつす」という言葉が好きです。もちろん日本語で使う言葉ですが、たとえば英語では、「うつす」に相当する言葉は見当たりません。見落としがあったら、ごめんなさい。

「うつす」は「写す、映す、移す、遷す」と書けます。

 この文章はパソコンを使って書いていますが、キーボードを操作して文字を入力するさいにも、候補として、いま挙げた文字列がモニター画面に表示されます。

     *

 言葉は文の中で見るのが分かりやすでしょう。例文を挙げながら、話を進めていきます。

・文字を写す

 上の文を見て連想するのは、筆写、書写、写本、写経、書道、文字の練習、引用、翻訳、複写、複製、コピー機、文字の撮影、筆耕、写字生です。

 文学作品では、ギュスターヴ・フローベール作の『ブヴァールとペキュシェ』『紋切型辞典』を思いだし、さらにはホルヘ・ルイス・ボルヘス作の「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」が思い浮かびます。

 どれもが名前だけで知っている作品です。前回はそんな話をしました。

 言葉だけで知っているものを口にするなんて、何も言わないでいるのに等しい行為だという話――。

 ただ言葉として知っていて使う言葉やフレーズがあるのです。
 あっさりと書きましたが、これはすごいことであり、恐ろしいことでもあります。
(拙文「何も言わないでおく」より)

     *

「文字を写す」は「文字を書く」であり、「文字を描く」でもあるでしょう。

・文字を写す
・文字を描く
・筆写、書写、写本、写経、書道、文字の練習、引用、翻訳、複写、複製、コピー機、文字の撮影、筆耕、写字生

 上の文字列を見ていると、

・文字を映す
・文字を移す

でもあるように見えてきます。

・文字を写真に撮る、映画や放送や動画で文字を撮る(文字の出ない映画や放送や動画は考えにくいです)、文字を移動させる、文字を運ぶ
・文字をうつすことで「何か」を移そうと願う、「何か」を移す代わりに文字をうつす

 文字を写す、文字を映す、文字を移すために、つまり文字をうつすことで「何か」を移そうとするために、要するに「何か」を移す代わりに文字をうつすために、人は自力でするのには我慢できず、道具や器械や機械やシステムを用いてきたと言えそうです。

     *

・文字をうつすために、何かを使う、何かに頼る、何かに任せる

 文字だけでなく、映像もそうではないでしょうか。現在は文字と映像との隔たりが小さくなっています。だんだん小さくなっている気がします。

 同時に「読む」と「見る」との隔たりもだんだん小さくなっているようです。

「書く」のはヒトだけ、ヒト以外の生き物や、ヒトの作った道具や器械や機械やシステムは「く」。

「読む」のはヒトだけ、ヒト以外の生き物や、ヒトの作った道具や器械や機械やシステムは「見る」。

 ヒトもまた「書く・読む」よりもむしろ「く・見る」ようになってきている気がします。

 ヒトの作った道具や器械や機械やシステムに頼り任せるようになっているからではないでしょうか。

 人は人に似たものを作り、次に人の作るものに似ていく。「【レトリック詞集】人間の「人間もどき」化、「人間もどき」の人間化」

     *

 今は「書く」が「写す」と「映す」の時代になっています。

 おもに紙の上に筆やペンで「書いていた」文字が、キーボードを指で「叩く」、あるいは画面上の模様に指で「触れる」ことで同じ画面に「映る」ものとして存在し、さらにそれが瞬時に「写る」、それと同時に「拡散」され「保存」されるのが当たり前になっているのです。

 しかも、たちまち増えるのです。複製という意味です。でも、その増えた文字は「ない」のです。影だから増えても「ない」のです。

 文書をふくむ情報の量(単位)をあらわすカタカナ語が、形だけのものに見え、むなしく響きます。

 それだけではありません。

 この数年間に自分の「書いた」文章が一行も、いや一字も印刷された「物」になっておらず、デジタル化された「情報」としてネット上のどこかに「存在」しているらしいことに気づき、がく然とするのです。

 二十年前には予測していなかった事態です。

     *

 この数年私の書いていた文字たちは影なのです。実体のない影。

 影の先に立っていた私が、いつか影に先立つことになるのでしょう。影に見送られることになるときの気持ちを想像すると切なくなりますが、影が残ってくれるのであれば、それもいいかなあと思います。

 文字の影、影の文字。

(拙文「「ない」文字の時代(かける、かかる・02)」より)

かげをうつす、かげがうつる、かげにうつる


 くり返します。

 文字を写す、文字を映す、文字を移すために、つまり文字をうつすことで「何か」を移そうとするために、要するに「何か」を移す代わりに文字をうつすために、人は自力でするのには我慢できず、道具や器械や機械やシステムを用いてきたと言えそうです。

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 文字をうつすことで「何か」をうつそうとする
「何か」をうつす代わりに文字をうつす

 うつすという容易ではない夢を叶えるためにうつす――この願いと祈りが大和言葉にはあるのかもしれません。

 いま書いた文の前半は音読してもなかなか伝わりません。その意味で音読不能だとも言えそうです。⇒「音読不能文について」

 移すという容易ではない夢を叶えるために写す・映す――この願いと祈りが大和言葉にはあるのかもしれません。

 このように書くと分かります。書くと分かる、読むと分かる、見ると分かる――というわけですが、これはもともと大和言葉には文字がなかったからかもしれません。

 大陸から来た文字を当てることで、そして言葉を話すだけでなく書くことにより、見て区別できるようになったのかもしれません。あるいは見なくても話し言葉として区別していたのかもしれません。

 そもそも言葉には前後関係があります。日常生活において、ある言葉やフレーズだけが独立して存在することはありません。とりわけ話し言葉においてはそうです。

 ある意味不自然なものである書き言葉が出てきてから、状況は変わったのだろうという気はしますが、本当のところは分かりません。分かるわけがありません。

 話し言葉(音声)は放った(放した・離れた)瞬間に消えていきます。書き言葉(文字)は消さない限り残ります。

 こうした両者のありようの隔たりは想像以上に大きいだろうと感じています。私には両者がまったく別のものに思えてなりません。

 だから、私にはジャック・デリダの言っていることが――デリダについては後述します――ぴんと来ないというか、自分の問題として考えられないのだろうという気がします。この点については、いつか記事に書きたいです。

 話を「うつす・うつる」に戻します。

     *

 かげをうつす、かげがうつる、かげにうつる

 古い日本語では、「影」という言葉が今の日本語の語感よりも厚みを持っていたようです。

 辞書で「月影」を調べると次の語義(広辞苑からの引用)があるそうです。

・月のひかり。
・月の形。月の姿。
・月の光に映し出された物の姿。

 上の語義は「かげ:影・陰・蔭・翳」(広辞苑)を見出しとする語義とも重なります。

 これを「うつる:移る・遷る・映る・写る」(広辞苑)を見出しとする語義と照らし合わせてみると、なかなか興味深いものがあり、両者を見くらべていると時の経つのを忘れるほどです。

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 かつては「かげ」に、「ひかり」、「(ひかりを放つものの)すがた・かたち」、「(ひかりに照らされたものの)すがた・かたち」、「(ひかりに照らされたものに遮られてできた)暗い場所」という意味があったようなのです。

 かげをうつす、かげがうつる、かげにうつる――このように書いてみると、そして声を出して唱えてみると、「かげ」の多義性が「うつす・うつる」の多義性をうつしだしてくれる、あるいは「うつす・うつる」の多義性が「かげ」の多義性を照らしだしてくれるかのように感じます。

「写す」が「移す」に接近する


 以前に川端康成作の『少年』を読んでいて、以下の感想を書いたことがありました。

 この作品では「写し取る」がくり返されます。私には魂を写し取る儀式に見えます。引用という行為がコラージュを成立させているわけですが、「写す」が「移す」に接近しているように感じられてなりません。文字を一字一字手を使って写す行為は魂を移そうという願いなのです。人にとって手(指と掌と手首)は願う場なのだと思います。写経や写本、そして祈る姿を思いえがくと分かりやすいかもしれません。
(拙文「letterからなるletters」より)

     *

 川端の作品は「うつす・うつる」について考えさせるものが多いです。少なくとも私はそう感じながら読んでいます。

 たとえば、『雪国』の冒頭の汽車の場面では、向かいの席から移ってきた、つまり移動してきた葉子が、島村の横にある窓を開けるところから話が始まります。

 その葉子が席へと移動し、つまり戻って、今度は鏡と化した窓に「写る」――川端は「映る」ではなく「写る」と表記しています――わけです。

 相手は移ろうと思えば移れる距離にいるのに、窓に「写る」相手をひたすら描く、つまり言葉に写し取る。その「写る」が丹念に言葉にされています。⇒「葉子を「見る」「聞く」・その1(する/される・04)」「「移す」代わりに「映す・写す」」

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 ここからそこに、こちらから向こうに、容易には移れません。困難な「移る」の代わりに、容易な「映る」と「写る」があるのでしょう。

 おそらく、「映る」と「写る」は「移る」の代償行動なのです。カメラやスマホを思い浮かべるとよく分かります。

 川端康成は「うつる」の多義性に敏感な作家だったと思います。「写る」と「映る」の世界にいながら「移る」を強く求めていたのではないでしょうか。狂おしいくらいにです。⇒「雨、濡れる、待つ」

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 川端は以下のところまで行こうとします。「うつす」対象が魂になるのです。

「生きて眠るかのようにうつってもいる。」
 この平仮名での表記に私はぞくっとします。
「写っている」とか「映っている」よりも、「うつっている」と書かれてると、魂が移っているという意味合いの「移っている」を感じさせるからにほかなりません。
 ひらがなの「うつっている」は、意味を明確にしていない、つまり曖昧なために、読み手に対して「開かれている」という意味です。
(拙文「「写る・映る」ではなく「移る」・その2」より)

文字を写す


・文字を写す
・文字を描く
・筆写、書写、写本、写経、書道、文字の練習、引用、翻訳、コピー機、文字の撮影、筆耕、写字生 

 一見すると文字を写すのとは関係なさそうでいて、文字を写しているのではないかと考えられる行為の一つに、名付けがあります。

 子どもの名前を付けるとき、つまり掛け替えのない存在に名前を付けるとき、誰かの名前から部分的に音や文字をもらったり、そっくりそのまま音と文字をもらう場合があります。

 文字をもらうのであれば、それは文字を「写す」のだとも言えるでしょう。そう考えるなら、ある意味「引用」です。「借りる」とも近い気がします。

     *

 誰かからもらった名前が、「何か」からもらった名前であったり、直接「何か」から名前をもらう場合もあります。

「何か」とは、「誰か」つまり人ではない森羅万象のことです。人は森羅万象を人に擬して(擬人です)、名前を付けます。⇒「名づける」

 音や文字としての名前を「借りる」と考えるのであれば、森羅万象に人が付けた無数の名前から部分的に、あるいはそっくりそのまま「借りる」ことになりそうです。

 季節の名、草木の名、花の名、天体の名(太陽とか星とか昴とか)、自然現象(風とか光とか虹とか)なんて、頭に浮びます。

 先人が森羅万象に付けた名前を、後人が借りる形で「いただく・頂く・戴く」という感じでしょうか。

 人は森羅万象に人にちなんだ名前を付ける。そして、森羅万象に付けた名前に似ていく、自分を似せていく。

 ところで、似たもの、似せたもの、偽物、贋物の区別ができるでしょうか?

 言葉と文字と名前は、すべてを等しく扱います。それが言葉と文字と名前を使うことの代償です。

「名付け」という名の「自由」。「名付け」という名の「不自由」。

     *

 日本語での命名(「命」には「名付ける」という意味があるのですね)と、たとえばヨーロッパの言語や国や地域での命名とはかなり異なるようです。「音の名前、文字の名前、捨てられた名前たち」

 ヨーロッパでの諸言語――大雑把な言い方で申し訳ありません――では、聖書にある名前をもらうという形の命名があります。

 調べてみると、英:Michael(マイケル)、仏:男性名・Michel(ミシェル)、女性名・Michelle(ミシェル)、独:Michael(ミヒャエル)、西・葡:Miguel(ミゲル)、伊:Michele(ミケーレ)、露:Михаи́л(ミハイル)……という具合です。もっとあるようですが、割愛させていだだきます。

 つまり、「ずれる」のです。音(発音)も文字(綴り)も、です。

 写すと、ずれる。

 筆写、書写、写本、写経、書道、文字の練習、引用、翻訳、コピー機、文字の撮影には、程度の差はあれ、かならず「ずれ」が生じます。

 この「ずれ」には、誤りやノイズだけでなく、訛りや規則に従った変更や変換があるということです。

「規則に従った」というのは、個々の方言や言語の文法であったり、正書法・正字法(語を綴るさいの規則)であったりしますから、この「ずれ」を誤りやノイズと見なすことは不適切だと思います。

 いずれにせよ、ずれることで豊かになるとは言えそうです。

     *

 例を挙げます。

 Franz Kafka、František Kafka、Кафка, Франц、弗朗茨·卡夫卡、فرانس كافكا、フランツ・カフカ、ฟรันทซ์ คัฟคา

 上で挙げた複数の言語の文字による複数の表記ですが――フランツ・カフカさんには連絡が取れそうもないので確認はできないので、想像するだけですけど――、「こんなの、私ではない」とおっしゃるものもある気がします。

 もちろん、

 フランツ・カフカ、ふらんつ・かふか、Furantsu Kafuka

もです。

「えっ! 三種類もあるの? スゲー!」

なんて感動なさるかもしれません。⇒「「カフカ」ではないカフカ(反復とずれ・05)」

 もちろん、例のフランツ・カフカさんだけでなく、同姓同名の方々も含めての話です。

     *

 以上の話は屁理屈に聞こえるでしょうが、これによって、固有名詞がたった一つやたった一人のものや人の専有物ではないことが体感できるのではないでしょうか。

 辞書に載っている「固有名詞」の語義は抽象(短絡)であることが多いです。「たった一つ、たった一人」とは、容易に使うことがためらわれる重い言葉だと思います。

     *

 人名という固有名詞だけでなく、作品名やタイトルという固有名詞でも事情は同じようです。

「固有名詞、とくに人名は最強で最小最短最軽の引用である」ことは注目していい事実だと思います。
 ただし、モナ・リザ、Mona Lisa、La Gioconda、La Joconde、蒙娜丽莎、모나리자、მონა ლიზა……というバリエーションもあることを忘れてはならないでしょう。
 文字という複製としての固有名詞の引用がきわめて簡単で楽だとはいえ、「モナ・リザ」だけが「モナ・リザ」ではないという意味です。世界という場では、意外とややこしいのです。
 いまのは冗談ではありません。グローバルなレベルでの事実であり現実です。
(拙文「有名は無数、無名は有数」より)

     *

 簡単には「うつせないもの」や「うつしてはならないもの」もあるのです。おそらく「うつせるもの」よりずっと大切なものだという気がします。

「フランツ・カフカ」という名前は、Franz Kafka および František Kafka さんから遠ざかったものなのですね。

「カフカ」ではないカフカーー。「カフカ」という表記も発音も、世界的規模で見れば、自明でも当たり前でも標準でもない。

 でも、だからこそ、私たちは翻訳をつうじて、カフカの作品に触れることができるのも事実です。

「うつる・うつす」の問題は一概にいい悪いと言えるたぐいの問題ではなさそうです。それだけは確かでしょう。

     *

 人類の歴史は翻訳の歴史でもあると言えるでしょう。私もずいぶんお世話になっています。

 そもそも日本語における漢字と漢語の使用そのものが、広義の「うつす」であり、翻訳の産物です。

 文字のなかったらしい和語(大和言葉)に漢字と漢語を当て、同時に漢字と漢語に和語を当ててきたと言われています。⇒⇒「「カフカ」ではないカフカ(反復とずれ・05)」

ずれが偶発的な出会いを起こす


 外国語の固有名詞と言えば、フランス文学と製品に共通する名前がいくつかあります。

 たとえば、ロートレアモン、セリーヌ、サルトル、レヴィ=ストロース(リーバイ・ストラウス)です。

 *ロートレアモン:
 ・ロートレアモン伯爵(Le Comte de Lautréamont)
 ・LAUTREAMONT

 *セリーヌ:
 ・ルイ=フェルディナン・セリーヌ(Louis-Ferdinand Céline)
 ・CELINE

 *サルトル:
 ・ジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre)
 ・SARTORE(靴・ブーツ)
 ※日本語の表記では両方とも「サルトル」ですが、原語ではまったく異なる綴りで、まったく異なる発音になります。この「ずれ」が興味深いし、個人的には面白くて素敵に感じられます。

 *レヴィ=ストロース(リーバイ・ストラウス) 
 ・クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss)
 ・リーバイ・ストラウス (Levi Strauss & Co.)
 ※フランス語読みと、英語読みの違い(ずれ)でしょうか。ずいぶん違った字面だし発音になります。

 もっとあるにちがいありません。探してみたいです。

     *

 私はこの種の言葉のずれ・すれ違い――音や文字のずれ――が好物なようです。ずれ、落差、差異=差違にクラッとくるからでしょう。混乱して楽しいのです。私は混乱とか、惑うとか迷うのを好みます。

 ブーツを履いたサルトル、セリーヌを身につけてセリーヌを読む、リーバイスを穿いたレヴィ=ストロース――こうした思いがけないシュールな絵を思い描いて楽しむのです。

 ずれは思いがけない出会いを引き起こします。ロートレアモン伯爵もびっくりの偶発的な出会いを。

『檸檬』のラストにおける、画集(タブロー)を積み上げたテーブル(台)の上での「果物」(「黄金」)と「爆弾」の遭遇――これは「解剖台の上でのミシンと蝙蝠傘の偶発的な出会い」(「マルドロールの歌」ロートレアモン伯爵)に匹敵する「事件」ではないでしょうか。
(拙文「タブロー、テーブル、タブラ(『檸檬』を読む・02)」より)

『愛撫』のラストにおける眼球と肉球の遭遇ーーこれは「解剖台の上でのミシンと蝙蝠傘の偶発的な出会い」に匹敵する「事件」だと思います。
(拙文「共鳴、共振、呼応(薄っぺらいもの・06)」より)

 私はこうした偶発的な出会いに嗜癖しています。病的に好きだという自覚があります。

名付ける、ずらす、何も言わずにおく


 写すと、ずれる
 写せば、ずれる

 名付ければ、ずれる
 名付けて、ずらす

 と、ずらしてみましたが、ジャック・デリダのことです。

 というか、蓮實重彥の『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』に収められた「Ⅲ叙事詩の夢と欲望――ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』を読む」という文章の話です。⇒「名づける」「何も言わないでおく」

     *

 この断片集で扱うには大きなテーマですので、私の気になる箇所を断片的に抜きだすにとどめます。

 引用にさいしては、蓮實重彥著『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(河出文庫)を使用していますが、この著作は講談社文芸文庫でも読めます。

     *

・p.173「概念でも単語でもないものが、綴字法の規範にさからってまで「デイフェランス」と命名されること。だが、重要なのは捏造されたその記号の意味をさぐることにあるのではない。問題は古典的な綴字法の侵犯による新語﹅﹅そのものではなく、むしろ仮装の命名の連鎖を必然たらしめるとりあえず﹅﹅﹅﹅﹅ずれ﹅﹅の戯れにある。」:

 あっさりと「ディフェランス」という訳語が選ばれているところに共感を覚えます。翻訳はもちろん、外国語の文章について母語で論じるときには「命名」を余儀なくされるわけですが、このかわし方は蓮實重彥らしいです。

・p.196「そして『グラマトロジーについて』の全篇は、何もいわずにおくこと﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅の華麗なる実践なのである。」(太文字は引用者による・以下同じ):

 ここからが刺激的なのです。

・p.197「すでになんどか触れたように、内部の言葉は、自分自身の記憶喪失ぶりを、夢のように﹅﹅﹅﹅﹅語っているのだ。あたかも夢における﹅﹅﹅﹅﹅がごとく、内部の言葉は、それだけはいわずにおけばよかったはずのいくつかの単語を執拗に口にしながら、みずからの失われた記憶を語ってしまう。」:

 蓮實が「夢」と口にした時には、話が俄然面白くなります。蓮實にしか書けない語り口ではないでしょうか。「Ⅲ」では傍点が頻用されますが、そこが読みどころです。その役割を自分なりに考えながら読む必要があります。約物が決定的な重要性を持つという意味で、蓮實の文章は音読不能なのです。「音読不能文について」

・p.197「そして、必然的に重なりあうことのないその二つの「レクチュール」」の計測不能の偏差、つまりその絶対的なずれ﹅﹅を、とりあえず内部の言葉の特権的な単語の一つによって埋めるふりを装うこと。それが何もいわずにおくこと﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅の実践にほかならない。」:

「ふりを装う」も蓮實の文章においては特徴であると同時に重要な「ふり」です。ここまでの文章の言葉たちに装わせ演じさせている「振り」のしたたかな華麗さ。蓮實重彥は言葉の振付師だと実感する部分です。「であって、ではない(反復とずれ・03)」

・p.199「「ディフェランス」を通常「差異」を示すのにあてられる e の différence ではなく、新たなる綴字法の導入による a の différance であると強調してみたところで、そのことによって、デリダが内部の言葉の限界を越え、「ディフェランス」の体験そのものを口にしはじめたわけではいささかでもないのだ。もちろん、その事実に自覚的なデリダは、あたかも限界を超えたふりを装いつつ、その演技を宙吊りにしないために、つまりは何もいわずにおく﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅ために、とりあえず﹅﹅﹅﹅﹅の命名の儀式を無限に反復させるほかない。」:

 断片的な引用を並べるだけしかない芸のなさをお詫び申しあげます。

・p.201「かくして『グラマトロジーについて』は、何もいわずにおく﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅ことをデリダに保証する理想的な環境へと変容する。「エクリチュール」 、「ディフェランス」、「痕跡」、「裂節」。そのどの一つをとってみたところで、命名者デリダに起源を持つことのない語彙であり、すべては彼の耳もとでささやかれた内部の言葉であるにすぎない。だから、この一群の特権的な「主題」に新たな「主題」が附加されずにいる理由は何一つないだろう。」:

 興味のある方は、ぜひ原著をお読みください。

     *

 流れだけはつかめるように抜きだしたつもりですが、それにしてもややこしい話ではあります。

 私はジャック・デリダの著作が大の苦手です。外国語でのギャグだと教えてもらって、ぎこちなく笑うしかないギャグのようで、私にはその「すごさ」や「面白さ」が体感できないのが残念でなりません。「音読・黙読・速読(その2)」

 そんなわけで、蓮實重彥経由による日本語でその「ギャグ」(もちろん比喩です)を体感するのが楽しみになっています。

 とはいえ、いまのところは、蓮實重彥経由のデリダについて記事にする体力も気力もありません。せめて上で引用した箇所を部分的に利用する形での記事は書いてみたいです。

ずれるとき


「ギャグ」、そして「ずれる」といえば、昔聞いた話を思いだします。

 私は映画が苦手なので――時間を拘束される形で一箇所にじっとしていられないというか集中力に欠けるのです――、映画を劇場に観に行くことはないのですが、外国語の勉強のために映画を鑑賞することがありますね。

 ある人から聞いたのですが、劇場で英語の映画を観るときには、必ず外国人らしきのいる後ろの席――斜め後ろで相手の顔が少し見えるくらいがベストだと語っていました――で観るそうなのです。

 そうやって、外国人がどの場面でどんなタイミングでどんなリアクションをするのかを観察する。

 特に笑う際の日本人と外国人とのタイミングのずれが興味深いし、勉強になる。日本人はたいてい字幕を読んでいるから、笑う時がずれるのは当然だが、日本人だけが笑って外国人は笑わない場合とか、その逆の時があったりする。

 それだけではなく、日本人だけが大笑いして――場内爆笑という感じ――、外国人が明らかに憮然としている場合もあり、その逆も時にはある。

 字幕、つまり言葉の問題というよりも、いわゆる身体言語(身振りや表情)や文化の違いによる喜怒哀楽の「ずれ」があるようだ――。

 そんな話でした。

     *

 ずれている――。

 いまになって思うと、やっぱり「うつせないもの」があるようです。

 あと、言葉による笑いですが、翻訳である字幕と原語との違いもあって、意訳とか超訳とか翻案レベルの訳もあったとも、その人は言っていました。

 ここからは私の意見ですが、個人差もあるでしょうね。たとえば、その時々の体調や気分や時事も影響するのではないでしょうか。日本人、外国人というレッテルで話をまとめるのは乱暴だと思います。

 いずれにせよ、「ずれる」というのは興味深いし刺激的なテーマです。

     *

 今回の記事では、それぞれが別の方向を向いているという意味で「ずれている」断片と断章ばかりを並べたので、最後にまとめます。

 私たちは同じではなく似ている。人はそれぞれがずれてなんぼ。うつせないものは、きっと大切なもの――。心からそう思います。

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