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letterからなるletters

 まず引用します。

        八

「このところまで書いていると、女中が新しい浴衣ゆかたを持って部屋に来た。私が着いてから五日目である。」
 と、「湯ケ島の思い出」の四十三枚目、「伊豆の踊子」の終ったところに、私は書いている。四十三枚を三日か四日で書いたとみえる。
 その後に湯ケ島の景色があって、それから京都に清野少年を訪ねた記事が続いている。


 このところまで書いていると、女中が新しい浴衣を持って部屋に来た。私が着いてから五日目である。私が脱いだ浴衣を拾い上げて、「かえるという字は虫へんになんと書くんでしたっけ?」ときいた。蛙などという字がどうしてこの女中に必要かは想像がつかない。しかし、湯ケ島の田にも川にも蛙は少いらしい。蛙の少いことを、私は商科大学の学生の注意で知った。
(川端康成『少年』新潮文庫・p.44・以下同じ)

 行空けをなるべく忠実に引用したのですが、八章の出だしであることはお分かりいただけると思います。

 二行空けて、鉤括弧の有無が違うだけで同じ文言がつづいていますが、こういうメイキング感を目の当たりにすると、私はくらっと来て幸せな気分になります。

     *

 私は内容やストーリーにはあまり興味が行かない読み手です。その分どう書いてあるかには敏感に反応します。

 私にとって『少年』という作品の魅力は、コラージュ性というか、パッチワークのようにさまざまな文章(テクストとかテキストと言ってもいいです)が織り込まれていることです。

 過去の日記、現在の日記体の文章、手紙、詩(歌)、随想や手記として読めそうな文章、原稿(草稿)からの引用――。

 当然のことながら、さまざまな時間が入りまじります。しかも、他人の文章の引用が含まれているので、テクストとしてはかなり錯綜します。

 注意しないと訳が分からなくなりますが、それでもかまいません。その混乱と惑乱を楽しんでいる自分がいるのです。

 安易な連想ですが、古井由吉の『仮往生伝試文』のコラージュ性に似たものを感じます。あと、私の愛読書であるローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』にも。

 異なる要素、異なるテーマとトピック、異なる時空、異なる文体、異なる「人格」、異なる空気と湿度と温度――、そしてなによりも虚実が錯綜するのです(内容を鵜呑みにはできません)。

 作品の構成は、異と和が織りなす異和という感じがして、古い言い方ですが「前衛的」とも言えると思います。

     *

 私がぞくぞくする箇所を断片的に紹介します。

 この作品では「写し取る」がくり返されます。私には魂を写し取る儀式に見えます。引用という行為がコラージュを成立させているわけですが、「写す」が「移す」に接近しているように感じられてなりません。文字を一字一字手を使って写す行為は魂を移そうという願いなのです。人にとって手(指と掌と手首)は願う場なのだと思います。写経や写本、そして祈る姿を思いえがくと分かりやすいかもしれません。

 保存されている六枚半をここに写し取ってみる。
(p.28)

 次の丸括弧のつかい方もそうですが、丸括弧がつかわれている箇所があると、私の目はそこに釘付けになります。

(僕はお前と一緒にいるのだったら、こんな言葉は匂わせもするものではない。
(p.29)

 丸括弧なしの挿入や挿入らしき記述も多々目に付くのですが、意味ありげで、ぞくぞくします。単に律儀なのか、それとも作為による巧緻なのか……。同時代の海外の文学の動向にも詳しかったらしい川端のことですから、作為でしょう。

 いずれにせよ、匂わせのうまい書き手です。

 頻出する「(清野の手紙より。)」につづく引用での、「……」や丸括弧の使われ方にも想像と空想と妄想を刺激されます。そこには切断と骨折と傷痕があるからです。隠蔽や粉飾や糊塗と言ってもかまいません。

友がありません。……楽しみとてありません。唯過去の事ばっかりを追想しています。……学校に行くと友達がたくさんありますから、登校を楽しむのです。
(p.140)

 この作品では、行空けの空白と切断、丸括弧による断り、……による省略、ルビ、鉤括弧の使用といった約物の果たす役割が大きいです。その使われ方と意味を味わうのも楽しみだと思います。

 文字で書かれたコラージュは視覚を動員して読まないと、つまり(内容やストーリーを)読むだけではなく、(文字と文字列と空白(余白ではなく)とレイアウトを)見ないと、織物テクスト仕組みが感じ取れない気がします。

 p.153からつづく編集部によるコメントと「注」が、このテクストをさらに込み入って複雑なものにします。表面に見えている折り重なった葉っぱたちの下にさらに葉っぱたちが敷かれているのです。

 この作品にかぎらず、文字で書かれたものはどんなものであれ、コラージュなのだと気づかされます。一文字でさえ多層的なもの引用の織物なのです。私の好きな言い方をすれば、起源のない引用、引用の引用の引用……です。文字は複製(実物や現物のない複製、複製の複製の複製……)としてしか存在できないからにほかなりません。

 文字(letter)からなるのが文学(letters)です。文学作品とは、文字どおり一文字一文字、原稿用紙のマス目を埋めていった結果なのです。「完成した」(完成とはとりあえずの状態ではないでしょうか)作品は、活字で組まれたとたんに、まるで「完成するまでに」何もなかったかのように澄ました顔をしますが、この『少年』という作品の顔はいかにも「畸形」をしています。

     *

 もちろん内容にも関心はありますが、どんな作品であれ、私は内容について語るのを好まないので、『少年』の内容には触れませんが、以上見てきたコラージュ性だけは指摘しておきたいと思います。

 こうした書き方というか書かれ方は、好き嫌いがはっきり分かれそうです。ストーリーや内容に関心のあるかたは、拾い読みなさるのがいいかもしれません。

 ぜひお手にとってお読みいただきたい作品です。

 いつも思うのですが、川端康成に貼られたさまざまレッテルや、川端をめぐってくり返されている言葉やフレーズ(キャッチフレーズを含みます)や、裏表紙に書かれた文章や、帯に載っている断片的な文章を読んでいだくであろう、先入観なしに読んでほしいと願ってやみません。

 読み方はその人の自由ではありますが。

 読書の際に(または読書の前に)、決めつけることで失うものは多いようです。そんなわけで、「コラージュ性」という言葉も、できれば忘れてください。

※ヘッダーの写真はもときさんからお借りしました。

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