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有名は無数、無名は有数

 今回は、拙文「有名は有数、無名は無数」の続編です。その記事から、いちばん大切な箇所を以下に引用します。

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 有名は有数、無名は無数。
 有数の有名、つまりたくさんあるわけではない有名な名前の力はきわめて強大であり、無数にある無名、つまり星の数ほどある無名の名前が束になって掛かってもかなわないのです。

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 以上は、「有名は有数、無名は無数」からの引用でした。今回は「有名は無数、無名は有数」というお話をします。

「有名は有数、無名は無数」と「有名は無数、無名は有数」――じつは同じことなのです。

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 現在では、美術や音楽や文学の鑑賞が複製の鑑賞である場合が多いことは注目してもいい事実だと思われます。

 美術においては、作品が有名なものであるほど、実物よりも複製で鑑賞していることは分かりやすいでしょう。

 いっぽう、音楽だと、生の演奏よりも、放送や配信やDVDやCDというかたちでの複製を鑑賞していると意識することはあまりない気がします。

 文学の場合には生原稿を読む人は稀でしょうから、印刷物あるいは電子書籍やネット上でという意味での複製を読んでいるのがほとんどだと言えます。

 とくにパソコンのワープロソフトでの執筆が主流になっている現在では、どれが生原稿なのかがきわめて曖昧であるというより、むしろ不明になります。

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 絵を例に取ってみます。世界で最も有名な絵画はモナ・リザだと言われますが、あなたはモナ・リザという絵を見たことがありますか?

 モナ・リザの現物を見たことがある人よりも、その複製を見たことのある人のほうが圧倒的に多いでしょう。

「実物対複製」と単純に考えがちですが、実物はたったひとつであるのに対し、複製は複数あるいは無数にあります。作者および作品が有名であればあるほどです。

 有名は無数。いっぽう、無名は有数か、たったひとつなのです。

 作者や作品が無名だと、誰も好き好んで複製し拡散してくれないという意味です。自分でせっせと複製をつくれば別ですけど。

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 複製というものについて考えてみましょう。さらには、複製の複数性、複製の無数性、複製の多様性についても考えてみましょう。

 複製というと同じものがたくさんあるイメージを持ちますが、複製とは一様ではなく、さまざまなずれをともなって存在しています。

 こうした現象は、絵画の場合には顕著になります。

 あなたの見たモナ・リザと私の見たモナ・リザはきっと別物でしょう。あなたの見た複製と私の見た複製は別物だという意味です。

 別物である複製――。

 不思議な気がしないでもありませんが、絵画は有名であるほどさまざまな形でたくさん複製され、その複製を見る人も多くなりますから、あなたと私が別物の複製であるモナ・リザを鑑賞した可能性が高いのは当然でしょう。

 いっぽう、作者や作品が有名ではないほど、展示会などで実物を見る人がいて、その数は少ないでしょうから、あなたの見た〇〇という絵と、私の見た〇〇という絵が同じ(同一)である、つまり実物である可能性は高くなりそうです。

 このように複製のありようと、実物や本物のありようは、理屈では分かるのですが、現象としてはぴんと来ません。私なんか不思議な気がしてなりません。

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 楽曲の複製であるレコードやDVDやCDやその放送やネット上での配信でも、複製は多様をきわめています。ばらばらであり、まちまちなのです。

 それぞれが、音源の違いによって、または媒体の形式によって、あるいは複製が提供される時と場合によって、微妙にあるいは大きく異なって感じられるという意味です。

 再生する個々の機械(物である個々の機械は劣化するしその状態は気温や湿度にも左右されます)によっても、ばらつきが出ます。なのに、「同じ楽曲」とされているのです。

 ばらばら、まちまちなのに「同じ」「同一」とされる――。

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 文学作品でも、多種多様なかたち(雑誌での掲載、単行本、文庫本、電子書籍、翻訳)での複製での読書がおこなわれています。

 私の場合には、小説の読書で活字やフォントやレイアウトが変わると別の作品に感じられることがよくあります。翻訳書とその原著も、私にとっては「似ている」けど別物です。

 個々の印刷物やモニター付きの端末や器械や機械によっても、ばらつきが出ます。なのに、「同じ作品」とされているのです。

 物である書物は虫に食われたり染みがついたりします。読むための画面を備えた個々の器械や機械は故障するし劣化します。

 ばらばら、まちまちなのに「同じ」「同一」とされる――。

 絵画だけでなく、楽曲も文学作品も、鑑賞イコール複数の複製(ばらばらで、まちまちな複製)の鑑賞であると実感しないではいられません。

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 話を美術作品に戻します。

 モナ・リザの複製はたくさんの画集や美術書に収録されていますが、それを虫眼鏡で見くらべるとずいぶん差があるのに気づきます。

 図書館で試してみるといいでしょう。撮影や印刷によってかなりずれがあるのです。私が見た美術書にはモナ・リザを写したモノクロの写真がありましたが、ぜんぜん違います。

 インターネット上でもモナ・リザを鑑賞できますが、印刷物として見るのとはやはり違って感じられます。

「これはモナ・リザなんだ」と言葉で自分に言い聞かせて決めつけて、頭というか観念で見ると「同じ」でしょうが、「似ている」あるいは「そっくり」なだけです。

「同じ」の代わりに「似ている」や「そっくり」で我慢したり澄まし済ませているのです。これが、ごく一般的な美術鑑賞の現状です。

 でも、ふつうは「似ている」とか「そっくり」というふうに見ません。興ざめするからです。興ざめしていては鑑賞はできません。

 自力では――拡大鏡や拡大装置なしという意味です――「同じ」「同一」なのか「そっくり」なのかを確認も検証もできない自分の非力を、人はふつう認めたくありません。人間(ホモ・サピエンス)としてのプライドが許さないからかもしれません。

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 ところで、「同じ」というか「同一」と言ってもいい、モナ・リザの鑑賞法があります。

 名前で鑑賞するのです――。文字どおりに取ってください、名前を観るのです。

 名前という文字を見るのです。「モナ・リザ」という作品名のことです。固有名詞、なかでも書かれた文字としての名前は最強の複製であり、「似ている」どころかまったく「同じ」なのです。

 半分冗談本気はさておき、文字は複製です。誰が、あるいは何が(器械のことです)書いても、同じ文字であり文字列であり文であり文章なのです。

 文字は複製として存在します。文字は複製であってなんぼ、という感じ。

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 話がややこしくなってきたので、ここまでをまとめます。

・芸術作品の複製には複数性と多様性がある。つまり、絵画と楽曲の複製は、ばらばらでまちまち。
・文字という複製だけは、誰が(何がを含む)いつどこで書いても「同じ」「同一」。ただし、印刷物か電子書籍かネット上の閲覧かという媒体の形式の違いだけがある。

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 話をもどします。

 名前はふつう文字という複製で保存され流通・拡散されます。この事実が、ただでさえ強大な力を持つ名前をさらに強大にします。

 名前と名詞の力は強いです。人は名前と名詞にころりと参ります。

「モナ・リザね、レオナルド・ダ・ビンチ作ですよね、名画ですよね、美しいとか素晴らしいとか感動したって言わないと笑われますよね……」という感じです。

 名前は楽々複製ができます。いとも簡単に引用もできます。モナ・リザ、モナ・リザ、モナ・リザ、モナ・リザ、モナ・リザ……という具合に。

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 再度の半分冗談本気はさておき、「固有名詞、とくに人名は最強で最小最短最軽の引用である」ことは注目していい事実だと思います。

 ただし、モナ・リザ、Mona Lisa、La Gioconda、La Joconde、蒙娜丽莎、모나리자、მონა ლიზა……というバリエーションもあることを忘れてはならないでしょう。

 文字という複製としての固有名詞の引用がきわめて簡単で楽だとはいえ、「モナ・リザ」だけが「モナ・リザ」ではないという意味です。世界という場では、意外とややこしいのです。

 いまのは冗談ではありません。グローバルなレベルでの事実であり現実です。

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 いずれにせよ、名前の力は強大です。

 名前の力が強大なのは絵画に限りません。音楽、スポーツ、料理、製品、映画、放送、お芝居、小説、文書、画像、動画――どんなジャンルや媒体でもそうですね。

 小説で考えてみましょう。小説は名前とキャッチフレーズで読むもので、作品で読むものではありません。

・〇〇作のXXですね、
・文豪(△△賞作家)ですよね、
・◇◇◇◇(本の帯や解説や評判で読んだフレーズが入ります)ですね、
とりあえず感動したって言っておきましょうか、
・いや難解でしたがいいかも、
・読んでいない(さっぱり分からなかった・つまらなかった)ことがばれないように気をつけよう、

という感じです。

 的確な(あるいは率直な)感想を述べるという危ない橋を渡って墓穴を掘ったり突かれるよりも、名前と短い文言を引用(借用)するだけで事足ります。なにしろ作品を読んでいない機械にも、立派なもっともらしい感想文が書けるみたいですから。

 固有名詞(とくに人名)とキャッチフレーズは最強で最小最短最軽の引用だと痛感します。

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 では、まとめます。

 有名とは名前が無数に複製され引用されることであり、(有名無実という言い回しがありますが)名をあげることが必ずしも実とは関係がないままに権威につながることはよく見受けられます。

 いずれにせよ、複数されるという事実に注目すると、有名とは無数または星の数、無名とは有数(つまり少数)、またはたった一つの実物であるということになります。

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 有名は無数、無名は有数。有名は多数、無名は少数。有名はメジャー(major)、無名はマイナー(minor)。今回はそんな話をしました。

有名は有数、無名は無数。有名は少数、無名は多数。有名はマイノリティ(minority)、無名はマジョリティ(majority)。今回はそんな話をしました。
(拙文「有名は有数、無名は無数」より)

 有名は無数、無数は有名。有名は有数、無名は無数――。

 もしこんなレトリックトリックが可能だとすれば、それは多数ある「有名の複製」と、たった一つである「有名の実物」とを、人が同一視するからに他なりません。

 ただし、上でも述べたように絵と楽曲と小説では「有名の実物」のあり方に違いがあります

 重要な点なので、まとめ的に確認します。

・絵では「有名の実物」は版画を除きたった一つです。だから、美術館や展覧会があり、画商という職業が成立するし、高額な絵がたった一枚存在します。

・楽曲では「有名の実物」の定義は曖昧です。ライブより複製での鑑賞が現実であるのは、お存じのとおりです。器械を通しての再生による鑑賞を複製の鑑賞だと意識する人もあまりいない気がします。

・小説では「有名の実物」を想定するのは現実的ではなく、ないと言ってもかまいません。小説では複数以外の鑑賞はありえないと言ってかまわないという意味です。

 とは言うものの、なんであれ、複製がたくさんあれば、実物や本物があると考えるのが人情というものでしょう。実物信仰と本物信仰は根強いです。

 実物とか本物とは、それがなければ不安になるという点で、人にとって心の支えであり、その存在の有無にかかわらず信仰の対象であり、その存在を当然であると考えるという意味で一種の「宗教」だとも思います。

 なお、実物とか本物への信仰と、「同じ」とか「同一」への信仰は同義です。「何かとそれとは別の何かを同一視する」という点でつながっているのです。これについては近いうちに記事に書く予定です。

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 以上は「有名」についての話でした。

 ここからは「無名」の話をします。

 ところで、たったひとつの実物って潔くて格好よくないですか? もちろん、無名の話です。

 無名であるかぎり、その絵は、その演奏は、その原稿は、たった一つの実物ではないでしょうか。

 無名なのは、自分ひとりじゃないし、それひとつでもない。

 そこから出発すればいいのです。たったひとつのものを充実させることから始めましょう。

 ひっそりと たったひとつの ほんまもん 翼広げて 風をうかがう

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