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細部を読む(『檸檬』を読む・03)

 今回は梶井基次郎の『檸檬』の細部で、私にとって特に気になる部分を読みます。あえて細部に目を注ぐために、段落ごと、またはページごとに読んでいきます。


「『檸檬』を読む」という連載のこれまでの回で書いたことと重複する記述もありますが、今回は無理に全体的にまとめようとしない断片的な読みです。

「共鳴、共振、呼応(薄っぺらいもの・06)」:対象作品『愛撫』
「出す、出さない、ほのめかす(『檸檬』を読む・01)」:対象作品『檸檬』
「タブロー、テーブル、タブラ(『檸檬』を読む・02)」

 引用にさいして使用するのは『梶井基次郎全集 全一巻』(ちくま文庫)ですが、青空文庫でも読めます。

*塊、果、音楽


・p.13「えたいの知れない不吉なかたまり」、「いけないのはその不吉な塊だ。」、「どんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。」、「蓄音機」、「何かが私を居堪いたたまらずさせるのだ。」

 ここでは「不吉な塊」、そして「居堪らずさせる」「何か」と名指されているものが、立体的な物のイメージを取っているかのようです。

 何かが身体の中に「ある」、または「いる」気配――物といっても異物感なのです。

「結果した肺尖はいせんカタルや神経衰弱がいけないのではない。」(p.13)――この「結果」は「実(み)を結ぶこと。結んだ実。結実。」(広辞苑)なのでしょうが目を惹きます。

「結果」という言葉があることで、肺尖という具体的な症状と神経衰弱という見えない症状が、「塊」とが結びつくような印象を私は受けます。「塊」の異物感と成長する生き物感がいや増すかのようです。

「いけないのではない」と二回否定されていますが、この否定は「肺尖カタル」と「神経質」、そして「背を焼くような借金」という現実を免罪して、その罪を不気味な「何か」である「塊」に転嫁しようとする必死な叫びにも聞こえます。

 いま「生き物感」と書きましたが、頭にあるのは果実である檸檬です。タイトルに『檸檬』とあるのですから、この「結果」という言葉の使い方に目を惹かれ、檸檬を連想する人がいても不思議はないでしょう。

 塊 ⇒ 結果する ⇒ 果実(檸檬 ⇒ 結果する ⇒ 爆弾)
 塊 ⇒ 爆弾

 ラストの想像の中に出てくる「爆弾」が黄色ではなく「黄金色」つまり金「塊」の色であるのは象徴的です。

     *

「音楽」と「詩」と「蓄音機」は、いまでは「私」を「喜ばせ」てくれないものとして書かれています。音楽は蓄音機をとおして楽しむ音であり、詩もまた詩集を音読し暗唱して楽しむ音として理解できるでしょう。

 そうであれば、音楽も詩も立体的なものではありません。発せられたとたんに消えていく形のないものだからです。

 そうした形のない、見えない「美しい」ものを受けつけないほどにしているのが、「えたいの知れない不吉な塊」なのです。

「立ち上がってしまいたくなる」、「何かが私を居堪らずさせるのだ。」、「それで始終私は街から街を浮浪し続けていた。」――「私」の彷徨が始ります。

 さまよう場所が「街」であることは注目していいと思います。

 物のあふれる街。目に見えない音楽も詩も喜べないものとなった「私」にとって、いま欲し求めるのは形と色のある具体的な物しかないかのようです。それを求めて「私」は街に出ます。

「えたいの知れない不吉な塊」という異物を駆逐するためだろうという気がします。

*向日葵、錯覚、花火


・p.14「見すぼらしくて美しいもの」、「風景にしても壊れかかった街」、「汚い洗濯物が干してあったり、がらくた﹅﹅﹅﹅が転がしてあったり、むさくるしい部屋が覗いていたりする裏通りが好きであった」、「やがて土に帰ってしまう」、「土塀が崩れていたり、家並が傾きかかっていたり」、「勢いのいいのは植物だけで」、「吃驚びっくりさせるような向日葵ひまわりがあったり」
・p.14「清浄な蒲団ふとん。」、「匂いのいい蚊帳かやのりのよくきいた浴衣。」、「何も思わず横になりたい。」、「錯覚」(×3)、「想像の絵具を塗りつけてゆく」
・p.14「花火」(×4)

     *

 外に出てさまよう街には物があふれています。

「見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。」とあるように、描かれる光景と、そこに列挙される物たちは確かに「見すぼらしい」と言えます。

 でも、ちゃんと姿と形のある物たちです。蓄音機で再生しないと聴けない音楽でも、詩集に載っている詩でもありません。ずっとそこにあり、そこに見える物たちなのです。それぞれの匂いもするにちがいありません。そして、なににもまして、それらは立体なのです。

 上辺だけのきれいさにこだわる「表通り」の薄っぺらさと、剥き出しの物が雑然と転がる「裏通り」のごたごたした存在感が対比され、後者が「好きであった」とあります。

「覚えている」――ここでは物や風景がまるで失われていくものであるかのような郷愁を感じさせるイメージで描かれています。回想どころか懐古なのです。

『檸檬』という表題が作品の冒頭にある以上、「吃驚させるような向日葵」は、その色から檸檬を連想する読者は多いにちがいありません(そうであれば伏線です)。立体感と存在感のある花です。

「向日葵があり、カンナが咲いていたりする」――色が出ていないためにかえって色を感じます。言葉として出ていない色のほうが、かえって鮮烈な印象を読者に与える場合があります。

 出されたものを何となく受け取る(受動)のではなく、出されていないものを自分のほうから取り出す(能動)からかもしれません。目の前に出ているものは意外と見逃すものです。

 向日葵 ⇒ 黄色 ⇒ ゴッホ。こんな連想が脳裏をかすめる人もいるにちがいありません。不遇な芸術家というイメージがあります。

     *

「錯覚」という言葉が、一段落に三回くり返されているのを見過ごすわけにはいきません。具体的には、「誰一人知らないような市」に旅行しているという空想を「錯覚」と呼んでいます。

「錯覚」という言葉が選ばれていますが、「それ(錯覚)へ想像の絵具を塗りつけていく」と「私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。」という箇所から察せられるように、その空想があまりにも臨場感を持っていて、現実にいる街と重なって見えるからでしょう。

 そう受けとめると「錯覚」はいかにもあやうく、病んだ印象を与える言葉として迫ってきます。

 いま目の前にある立体の風景が、そのまま立体の別の風景に重なるかのようなリアルな印象を受けます。それが「錯覚」です。幻覚とは異なります。その妖しげなイメージには身を任せたくなるような甘美さも感じます。

     *

「花火」にまる一段落が費やされています。

 興味深いのは、たちまち消えてしまう打ち上げられた炎である「花火そのもの」は「第二段として」(刺身のつまという感じでしょうか)片づけられいることです。

 その代わりに、「花火の束」と、具体的な火薬としての花火の名前と、「一つずつ輪になっていて箱に詰めてある」「鼠花火」が言及されています。

 あくまでも火薬の段階にある花火という物が言葉として名指され挙げられています。

 この掌編の結末を知っている人は、この部分に最後に出てくる「私」の想像の中でのあの炸裂を読むかもしれません。そうであれば、向日葵と同様にそれも伏線です。

 色彩のとぼしい描写が長くつづいた後に、いきなり「花火そのものは第二段として、あの安っぽい絵具で赤や紫や黄や青や、様ざまの縞模様を持った花火の束」とあります。

 ここに「黄」が出ています。火薬の花火を記述しながら、花火の炸裂を連想させる描写です。「黄色」と「花火」の炸裂(炸裂という言葉は使われていませんが)のイメージですから、どう考えても伏線ではないでしょうか。

 伏線とは、読者にサービスしながら興味や関心を宙吊りにする形で維持する、つまりサスペンスを盛りあげる技巧ですから、少なくとも小出しにしながら色をそえることで、読者がいだくであろう檸檬への関心をつなぎとめているとは言えるでしょう。

 ミステリーとは異なり文学作品の場合には、伏線は明確なものではなく曖昧な形で読者を宙吊りにします。きちんと回収される伏線よりも、曖昧に放置される宙吊りのほうがずっと快いかもしれません。

 推理小説に不可欠な伏線とその回収は、文学作品にはないと思います。文学作品にある伏線とその回収があるとすれば、それには正解はありません。個人的なものだからです。

 作品に謎や秘密や不思議があるとしても、それは各人が個別に抱えるものでしょう。

     *

 夜空にとつぜん現われてたちまち消えていく立体的なまぼろしではなく、いつまでも目の前にあって手で触れることもできる物に惹かれている「私」がいます。

 まぼろしと物というふうに分けて考えると対立していますが、ここで描かれている花火はそうではない気がします。

 錯覚は幻覚ではないのです。

 たちまち消えてしまう幻想めいた花火(炎)ではなく物としての花火――。

 これは、蜃気楼のような実体のない空想としての「誰一人知らないような市」が錯覚として現実の街に「二重写し」されて現にそこに存在する、というさきほど指摘したイメージと酷似します。

「私」の単なる現実逃避ではなく現実に執着しようとする意志と願いが感じ取れます。

「私」は空想の世界に行きたいのではなく、生きたいのです。私にはそう思えます。

     *

 引きつづき、『檸檬』の細部を少しずつ味わいながら読んでいこうと思います。

(つづく)

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