小説の偽物っぽさ(小説の鑑賞・07)
「夏目漱石の『吾輩は猫である』」が、どこにでもあって、手軽に入手できる。「ショパンの「幻想ポロネーズ」」が、どこでも聴けて、たとえば、ここでも聴ける。「アンリ・マティスの「帽子の女」」が、どこでも観ることができて、ここでも鑑賞しようと思えば鑑賞できる――。
今回は、そういった話をします。つまり、小説も音楽も絵画も複製として鑑賞できるという話です。
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さらには、次のような話もしたいのです。
似ているもの、似たもの、似せたもの、似せもの、にせもの、偽物、贋物、別物――。このように、言葉をずらしていくと、複製、実物、本物、現物というものの境界線が、曖昧に感じられてきます。
曖昧なのは、あなたの頭でしょ? なんて言われると返す言葉がありませんけど。たぶん、そのとおりです。
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あと、偽物っぽさには濃度がある、偽物っぽくない偽物もある、なんて話も、時間があればしたいと思います。
つまり、複製について考えているのです。
偽物っぽさのランク付け
複製は、もっともらしい言葉だと思います。ようするに、複製とは別物であり偽物であり似たものだからです。
たとえば、「夏目漱石の『吾輩は猫である』」と「ショパンの「幻想ポロネーズ」」と「アンリ・マティスの「帽子の女」」は、ふつう複製を読んだり、聴いたり、観たりして鑑賞します。
本物や実物や実演ではなく、複製を鑑賞するのが、一般的な芸術作品の鑑賞の仕方だという意味です。
とはいえ、小説と楽曲と絵画では、その偽物っぽさに濃淡があるように私には思えます。
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偽物にもいろいろあるという意味です。いかにも偽物っぽいものがあれば、そこそこ偽物っぽいものもあるし、なかには偽物だとまったく意識しない偽物もあります――。
いまの文をいじります。
別物にもいろいろあるという意味です。いかにも別物っぽいものがあれば、そこそこ別物っぽいものもあるし、なかには別物だとまったく意識しない別物もあります――。
本物にもいろいろあるという意味です。いかにも本物っぽいものがあれば、そこそこ本物っぽいものもあるし、なかには本物だとまったく意識しない本物もあります――。
どうでしょう? 三つの文章に、ずれ(差)は、ありましたか? 私には大差ありませんでした。私にとって、文章の内容はないようなものだから、かもしれません。文章の動き(振り)のほうが大切なのです。⇒ 「でありながら、ではなくなってしまう(好きな文章・01)」
話をもどします。
偽物っぽさという場合に、よくできた偽物か粗悪な偽物かという、似せるのが上手いか下手かといった品質の問題は、ここでは除外させていただきます。
絵と楽曲と小説を鑑賞する
大ざっぱに小説(詩歌を含む言語芸術の一つ)と楽曲(演奏および歌唱される作品の一つ)と絵画(視覚芸術の一つ)で考えてみましょう。
具体的には、上で挙げた「夏目漱石の『吾輩は猫である』」と「ショパンの「幻想ポロネーズ」」と「アンリ・マティスの「帽子の女」」を例に取ってイメージしてみてください。
別に上の作品ではなく、あなたのお好きな小説と楽曲と絵でもかまいません。
*絵画の偽物っぽさ
絵画からいきます。
絵は芸術作品の中では「たったひとつ感」がきわめて強いものです。複数の「同一の作品」が存在する版画や浮世絵とは対照的に基本的にたった一枚しかないようです。
したがって、絵画は複製で鑑賞するのが一般的であると言えるでしょう。
一般的だというのは、たとえば教科書や画集やビデオを使わざるをえない教育の現場、美術館や展示会に出かけることができない遠くに住んでいる人や、出かける余裕のない庶民の鑑賞を指しています。
これが圧倒的に多い絵画の鑑賞の形態ではないでしょうか?
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「モナ・リザ知ってる?」「知ってる、知ってる、世界でいちばん有名な絵なんでしょ?」
「知っている」は複製を見て知っているという意味でしょう。つまり、複製での鑑賞を偽物での鑑賞だと非難する人はごく少数だと思われます。逆にそんな人はへそ曲がりだと非難されそうです。
余談ですが、たった一つの芸術作品が、オークションなどで売買されて個人の所有物になっている、つまり誰もが鑑賞できるわけではないという少なからぬ現状に敏感でありたいと思います。
*楽曲の偽物っぽさ
つぎに楽曲です。
これは実際の演奏で鑑賞するのが理想でしょう。楽器と肉声を拡声器など機械をとおさずに自分の耳で聞き、耳で聞くだけでなくその場の空気を吸いにおいを嗅ぎ、その場のざわめきを含む雑音(ノイズ)まで体験しなくては鑑賞したと言えないなんて人もいそうです。
じっさい、そんな意見を何かで読んだ覚えがあります。
また、演奏や歌唱は不動ではなく、つねにブレや揺らぎの中にあって、そのパフォーマンスは毎回違ったものになるという考え方も広く存在するようです。これが絵画や小説とは大きく異なる点です。
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とはいうものの、アナログであれ、デジタルであれ、ハイレゾであれ、ネット上で配信されたものであれ、CDやDVDを再生したものであれ、大型スピーカーで聞くのであれ、イヤホンで聞くのであれ、複製されたり加工された、つまり機械を用いて作られた音による演奏を聞くのが一般的な鑑賞であるのはみなさんご承知のとおりです。
(※余談ですが、重度の中途難聴者である私は補聴器(デジタル式)を装用していますが、つねに作られた(調整され加工された)音を聞きながら生活していると言えそうです。生の音が恋しいです。)
「わたし、一日に二回はアデルのハローを聞かないと駄目なの」「いいよね、アデル。ぼくは、ミスチルのHANABIを聞かないと一日が始まらない。 それも、Tour2015 のライブのじゃなきゃ駄目」「ふーん。おれは、エリック・サティの……」
楽曲もまた複製での鑑賞を偽物での鑑賞だと非難する人はごく少数だと思われます。逆にそんな人はへそ曲がりだと非難されるか、単に無視されそうです。
*小説の偽物っぽさ
では、小説はどうでしょう?
初版本でなければ本物ではない。文庫版より単行本、単行本よりも文芸誌での初出でしょ。電子本なんてとんでもない。あと印刷された本をコピペしたものをネット上で小説を読むなんてねえ……。んなことたーない、そんなものは全部が複製であり偽物であって、書き込みとかが分かる生原稿で読むのが真の文学鑑賞なのだ――。
そんな声が聞こえそうです。
文字だけがしつこく残る
私は言葉を広く取っています。話し言葉(音声)と書き言葉(文字)だけでなく、表情や身振りといった視覚言語も言葉だと思っています。このうち、いちばん不思議だし気になってならないのが文字なのです。
話し言葉と表情と身振りは発せられると同時に消えていきます。どんどん消えていきますから、受け手はつぎつぎと現れるものを聞いたり見たりして追いかけていかないと理解できません。
追いかけっこなのです。しかも現れる順に受けとっていく必要があります。忙しくて大変なのです。
ある意味面倒だし、いらいらさせることもあるでしょうね。つまり、話し言葉と表情と身振りを受けとるのはもどかしいのです。それは時間の制約があり、時間的にも空間的にも拘束されるからです。
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文字だけが残ります。
消さない限りしつこく居続けるのです。いつまでも残っているので、時間に拘束されません。残っている限りは、いつでも気の向いたときに読めます。しかも、はしょることができます。
ざっと読んだり、好きな箇所だけ読んだり、面倒なら見るだけで済ますことができる。これがおおかたの「文字を読む」であり、「文字を見る」なのです。
ところで、私には「文字を読む」ことが途方もなく難しい行為に思えてなりません。見るのではなく読むことが、です。たいてい見ているのです。見てしまうのです。
文字は複製であってなんぼ
文字で書いたものは、はしょって読める、飛ばし読みができます。素晴らしいとお思いになりませんか? 忙しい現代人にはぴったりの表現手段ではないでしょうか。
みなさんはいま私の記事を読んでいらっしゃいますが、ご覧になっている文字は画素の集まりだそうです。印刷物であれば文字はインクの染みです。つまり、複製できます。しかも簡単に。
文字においては無数のコピー(複製)が可能なのです。驚くべきことですが、身のまわりには、コピー(複製)された文章がげんに無数に存在します。それが当り前に思われていることが、私には恐ろしく感じられます。
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文字は、複写、印刷、筆写され、さらには文書や映像という形でデジタルデータ化されています。なぜなのでしょう?
文字には抽象的な側面があるために複製が可能なのです。抽象的というのは文字の形のことです。一方の音声の形は五感ではとらえにくいですが、抽象的な面があるからこそ複製されるのだと思われます。
具象の抽象的な面は「写す」(複製する)ことで「映る」(再生される)のです。「写す」と「映す」は、「移す」(物理的に移動させる)の代償行為です。
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現在ではありとあらゆることが文字になっていますが、文字は無限に複製できます。しかも、投稿と複製と拡散がほぼ同時にかつ瞬時に起きています。インターネットのことです。
文字は複製でしか存在できないと言っても言いすぎではない気がします。文字のオリジナル、つまり現物とか実物とか本物というのは、よく考えると、ナンセンスなのです。
文字は複製であってなんぼという意味です。
文字においては、人は文字の具象より抽象的な面を活用していると言えます。書道、カリグラフィー、文字や書体のデザインを除き、文字においてはオリジナリティが失われているのです。失念されていると言うべきかもしれません。
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文字の複製や引用は、同じ、つまりほぼ同一になります。
それが文字の抽象性なのです。抽象だから複製をしても偽物(似せたもの)どころか同じという理屈になります。
驚くべき性質ですね。こんなもの、ほかにありますか?
小説は複製という偽物で読むもの
ようするに、小説のオリジナリティ云々というのはそれが盗作とか剽窃であるかどうかという別の次元の話になります。
おそらく作者を除く――ひょっとすると作者も含んで――誰もが複製としての小説を手にし、複製である、いや複製でしかありえない文字から成る小説を読んでいるのです。
小説の偽物っぽさなんて言うこと自体がナンセンスであり戯言であるのが、よくお分かりになると思います。小説は複製という偽物で読むものなのです。
それ以外の読み方は、まずないでしょう。現実的ではないという意味です。
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小説こそが偽物っぽくない偽物だと言えそうです。
お察しのとおり、小説に限らず、文字で書かれたものであればどんなジャンルの文書でも、偽物っぽくない偽物ということになります。
そもそも小説を成り立たせている文字が複製であり、おそらく複製の複製だからでしょうか。切りのない話なのです。
さらに言うなら、誰が(AIなどの機械も含みます)いつどこで何を用いて書いても、あるいは入力しても「雨が降った。」は「雨が降った。」で、同じです。
これが私には不思議でなりません。どう受け止めていいのか分からないのです。よく考えると不気味だし恐ろしくもあります。
念のために言い添えますが、文書における偽物とは複製という意味ではなく、その内容の真偽(そんなものがあるとしてですけど)であるとか、盗作や剽窃や改変や改ざんという別の次元の話になります。文字というよりも文字列とか文章としてのレベルの話なのでしょう。
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吾輩はネコである。名前はまだにゃい。
その意味で、みなさんがネット上で上のような文章で始まる夏目漱石作『吾輩は猫である』をご覧になったとするなら、それは偽物である公算が大きいと言えるでしょう。
しかも複製された偽物です。偽物も複製、拡散、引用、保存の対象となるのが、ネット空間であることは、みなさんも日々体験なさっているのではないでしょうか?
複製ではなく改ざんされた偽物。改ざんされた偽物の複製。
こうした改ざんされた(数字や文言が書き換えられた)文書が公文書に存在します(黒塗りも改ざんです)。改ざんは報道にもあります。これこそが、ゆゆしい事態と言うべきでしょう。
まとめ
では、今回のまとめをします。
絵画の偽物っぽさ、楽曲の偽物っぽさ、小説の偽物っぽさ――。
絵画のたったひとつ感、楽曲のたったひとつ感、小説のたったひとつ感――。
絵画は、たったひとつ感がもっとも強い。そのために複製で鑑賞されるのが一般的であっても、その複製を偽物だとはまず感じない。つまり、絵画は複製の偽物っぽさがきわめて薄い。(なお、「偽物っぽさ」という言い方が気になる方は「別物っぽさ」、あるいは「本物っぽさ」と読み替えてください。以下同じです。)
楽曲は、できれば生で聴きたいと思う人が多い。その残念感のために、複製で鑑賞されるのが一般的であっても、その複製を偽物だと見なす気持ちにはなかなかなれない。つまり、楽曲は複製の偽物っぽさがそこそこ薄い。
小説は、複製としてしか存在できない文字の組み合わせであるために、複製で読んでなんぼという、きわめて希(レア)なもの。つまり、小説は複製の偽物っぽさが皆無。
どんな小説も複製で読むのですけど、なにか?
偽物っぽくない偽物というものがあるとすれば、それは小説である。
余談
ところで小説の実物とか現物ってあるのでしょうか?
私の好きな言い方をすると、私たちは「実物や本物のない複製」と「起源のない引用」があふれている世界に生きているのです。実物、現物、実体、実態、起源といった抽象がその意味を失っている世界なようです。
そうなっているのは人が大量に複製をつくりつづけているからだと思います。
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似ているもの、似たもの、似せたもの、似せもの、にせもの、偽物、贋物、別物――。複製、実物、本物、現物、起源――。
こうした抽象の境界がどんどんなくなってきている気がしてなりません。境界がなくなるのは、そのどれもが抽象だからにちがいありません。
おそらく私たちは具象の抽象的な面を利用し糧にして生きているのでしょう。たとえば、複製(たとえば文字)も具象として存在するのですが、私たちはその抽象性をもっぱら利用しています。
目の前にあるものを文字として見ないことから、すべての学問は始まる。
目の前にあるものを文字( letter )として見ることから、文学( letters )が始まる。
(拙文「【レトリック詞】であって、でない」より)
というのは、そういう意味です。
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