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錯覚を生きる(錯覚について・02)

 シリーズ「錯覚について」の二回目です。

 今回は私の大好きな作家吉田修一の小説を紹介します。

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 以前は退屈で仕方なかったこの朝のバス通勤を、最近なんとなく楽しめるようになったのは、まだ行ったこともないポルトガルのリスボンという街の地形が、私の暮らす街とどこか似ていることを発見したからだ。
 たとえばいつもバスに乗る「丸山神社前」という停留所の名前を「ジェロニモス修道院前」と言い換えてみれば、右手に海を見ながら丘を越えて市街地へ入っていく経路は、リスボンの地形とそっくりで、だったらこの「沿岸沿いの県道」が「7月24日通り」で、再開発で港に完成した「水辺の公園」は「コメルシオ広場」だ、などと言い換えているうちに、県庁所在地でもない、どちらかといえば地味な日本の地方都市に、リスボンの市街地図がすっかり重なってしまった。
 もちろん、こんな馬鹿ばかげた発見を、他人に話したことはない。話したところで、同僚の梅木さんなら、「へぇ、そうなの?」と、ちょっと驚いたふりをしてくれるだけだろうし、最近バイトで入った菜月なつきちゃんは、「リスボン? リスボンってアメリカでしたっけ?」などと言い出しかねない。ならば、いっそみんなには秘密にしておいたほうがいい。
(吉田修一『7月24日通り』新潮文庫・pp.8-9・以下同じ)

 冒頭の二ページ目の後半から続く三段落なのですが、吉田修一は文章も語り口もストーリー展開もうまくて、ぐいぐい引き込まれます。吉田修一の作品については、これまでに何度か記事で触れてきました。

 上は初めて載せるリンクなのですが、うまく反映されているでしょうか? 吉田修一の出てくる私の記事の一覧です。こうした一覧のリンクを貼ることがnoteのシステムに負担がかからないのなら、また使ってみたいと思います。

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 自分の作り上げた錯覚を利用し、その錯覚の世界の中で生活している人物が描かれていますが、小説としてなかなか魅力的な設定です。

 こんな世界に行きたいし、できればそこで生きたいと思わせる出だしの小説ではないでしょうか。

 前回に取りあげた梶井基次郎の『檸檬』に出てくる「錯覚」を作る話と似ていますが、この『7月24日通り』では「まだ行ったこともない」とは言え、「街の地形が、私の暮らす街とどこか似ていることを発見したからだ」という具合に、かなり克明に地理と地勢と風景を把握したうえでの錯覚作りであるのが大きく異なります。

 そっくり感が強調され、場所の名前を言い換えるというかなり手のこんだ鮮明な錯覚作りに熱中している点が特徴的です。自分で作り上げていく錯覚を楽しんでいる模様が描かれて読んでいて楽しくなります。

 自分の住んでいる街に「まだ行ったこともない」異郷の街の面影を見てしまう。「いまここにある」場所を歩きながら、一度も訪ねたことのない、でもよく知っている場所の既視感を覚える――。

 まだ訪ねたことのない土地の既視感。
 未だ ⇒ 既に

 よく考えれば込み入っていますが、楽しい錯覚ではないでしょうか。なにも珍しい現象ではないと思います。この種の錯覚は、超常的なものではなく誰もが日常的に体感している、ありふれた体験なのです。

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 今朝、港でちょうの死がいを見つけた。
 最初、ハンカチかと思ったが、近寄ってみると、黒い羽根に黄色い模様のある大きなアゲハ蝶だった。 
(p.2)

『7月24日通り』という印象的なタイトルの小説は、以上のように始まります。綺麗な字面の文章です。

 ちょうの死がい
 蝶の死骸

 上の二つの字面をくらべて見てください。

 ただでさえ重い蝶という画数の多い漢字にルビを振ってさらに重くすることで、次に来る重い言葉を軽くしています。しかも「死がい」と表記して、画数が多くて重く黒々とした「骸」を避けているのです。

 この作品の第一文に「骸」という文字はふさわしくないと思います。どうしても「死がい」を使いたかったので「がい」と柔らかいひらがなにしたうえで、蝶にルビを振ってそちらに読者の目と注意を向けさせる。そんなたくらみを感じます。

 いかにもこじつけた解釈に思われるかもしれませんが、長編小説の出だしですから、作者は心血を注いで書いたにちがいありません。詩人やコピーライターに要求される集中度をもって冒頭の一行を書いたはずです。

「黒い翅」、または「黒いはね」ではなく、「黒い羽」でもなく、「黒い羽根」という表記を選んでいるところにも注目しないではいられません。

 ハンカチ ⇒ 黒い羽根に黄色い模様のある大きなアゲハ蝶

 この転じ方は、薄っぺらくぺらぺらした二つのものが並置されることによって、それぞれが異化されて立ち現れる趣があり、絶妙な字面だと私は唸ってしまいます。

「黒い羽根に黄色い模様のある大きなアゲハ蝶」という修飾部分の長いフレーズに、飾りが多いため「模様」が擬態しているかのような視覚的な印象を受けます。

 小説とは見るものなのです。文字および文字列の形と姿と有り様を見ながら、読むものに他なりません。小説とは時間の芸術であるとよく言われますが、それに加えて視覚芸術だと私は受けてとめています。

 蝶という文字は蝶というものに似ていますか? それなのに蝶なのです。

 これは錯覚ではないでしょうか? 

 言葉による錯覚、文字による錯覚です。いや、言葉でしか、文字でしかできない錯覚だと言いたくなります。

 文字を読んで楽しむというこの甘美な錯覚を学習の成果であるとか、文字を体系化された錯覚製造装置である――確かにその通りなのですけど――という身も蓋もない話で片づけたくありません。

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 引用が多くなりそうなので文章全体の引用は遠慮しますが、一ページ目の終わりにある展開にも目が行きます。

「私」が「蝶の死骸」を跳び越え、岸壁を歩き出します。そこからの描写がいいのです。

・「まだ午前中だというのに、目が痛くなるほど真っ青な空だった。その真っ青な空が、港の水面にも映っていた。」(pp.7-8)

「真っ青な空」というフレーズが二回くり返されます。一つは空に見えて、もう一つは「港の水面」に映っているのですが、

 上(仰ぐ) ⇒ 下(俯く)
 青(現実) ⇒ 青(幻影)

 カメラの向きがさっと変るようで、その青から青への切り替えに思わず息を飲みます。この二つの青は同じではありません。

 後者は映っている幻影なのです。目の前の街(現実)とそれに話者が重ねているリスボンの街(幻影)の伏線と見るのは考えすぎでしょうか。

 いずれにせよ、同じ「青」が視点の移動によって異化されています。ここに作者の「企み」を感じるなと言っても無理です。たくさんの映画を見てきた吉田修一が書いたのですから、なおさらです。

 プロの作家の文章において反復、しかも近接した反復は理由なしにはおこなわれません。

 もしこれが「青い空」であれば、まことに陳腐な紋切型のフレーズになりますが、「真っ青な空」が二回反復されることによって、鮮烈なイメージの描写になっている。ここにも作者の聡明な「計算」が働いているのを感じます。

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 次の段落を見てみましょう。

・「「ジェロニモス修道院前」の停留所を出たバスは、小さな丘をいくつか越えて市街地に入る。」(p.8)

 この段落の第三センテンスに「「ジェロニモス修道院前」の停留所を出たバス」というフレーズが出てきます。

 冒頭からいわば無国籍的な雰囲気の文章が続いていて、いきなり「ジェロニモス修道院前」と来るのですから錯覚を起こしそうになります。

 この文庫本の裏表紙には「港が見える自分の町をリスボンに見立てるのがひそかな愉しみ。」とあるので、ある程度の予備知識をもって読者は読むだろうと想像はできるものの、「えっ?」というリアクションがあっても不思議はないでしょう。

 なにしろ、初めて登場する固有名詞なのです。

 これに続けて「平凡な建売住宅」や「コカ・コーラの赤い自動販売機」という日本を連想させる言葉が出ることで、いい意味での違和感(吉田修一が用いることもある「異和感」でもいいです)が起こり、次に(これも唐突に)鉤括弧なしのガレット通りという表記があり(ここも意識的でしょう)、上で引用した「以前は退屈で仕方がなかった」で始る段落となります。

 読者を話者の錯覚に巻きこむための導入が巧みに文章の中に仕掛けられているのです。

     *

 冒頭で、

1)ふいに読者を話者の無意識の錯覚(「ハンカチ ⇒ 蝶」)に巻きこみ、
2)さりげない形で現実と幻影の対比(青 ⇒ 青)をおこなって、二つの街の二重写しを暗に予告し、
3)徐々に話者による意識的な錯覚(暮らす街 ⇒ リスボン)へと巻きこみ、
4)おもむろに話者による錯覚の種明かしに言及する――

というふうに小説への導入がおこなわれているのです。これで読者は話者である「私」と錯覚を共有することになります。

 小説への導入 = 錯覚へのいざな

 一時期には新刊が出るたびに読んでいた作家なのですが、吉田修一はすごい書き手だと私は思います。文章のテクニックと小説作法上の技巧が群を抜いているのです。

『7月24日通り』、お薦めします。


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