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小説をよごす(小説の鑑賞・04)


小説は複製、文字は複製


 小説は複製で鑑賞される。複製として読まれるのが基本。複製として存在し遍在するという状態が、小説の常態。

 複製として――これが絵画や映画や演劇や音楽にくらべてきわだった特徴として挙げられます。

 たしかに絵画も映画も演劇も音楽も、ライブや実演ではなく、複製として鑑賞されるようになっていますが、それは複製文化というよりも複製文明と化した現在だから言えることなのです。

 なんでもかんでも大量生産され大量消費されている。つまり、複製として作られ、不要になれば処分される。それが「当たり前化」した現在だから、言えることなのです。

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 こうなる以前から、いわば「小説の原型」とも言える(大雑把な言い方で、ごめんなさい)、物語や宗教的な説話や経典の写本として、文章は複製として読まれてきたわけです。

 これは、小説の最小単位である文字が複製としてのみ存在するという当たり前でありながら驚くしかない事実から来ていると言えます。

 文字は複製なのです。誰が手で書こうと、キーボードで入力しようと、文字は複製であり、その他大勢のひとつ( one of them )なのです。この事実に本気で驚こうではありませんか。

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 どんどん複製が可能な印刷された文字は複製の権化とも言えるでしょう。なお、どんどんコピーできるネット上の文字のことは、今回は脇に置いて話をすすめます。

 デジタル情報として複製される(投稿、配信、複製、拡散、流通、保存、継承が、同時に、かつ瞬時におこなわれる)文字については、近いうちに記事にする予定です。

小説をよごす


 だから、小説をよごすことがあり、小説はよごれることがあるのです――。

 と、短絡してみます。

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 作品としての絵画や映画や演劇や音楽を、たとえそれが複製であっても、よごすことがあるでしょうか?

 書き込みと劣化のことです。

 本好きの老人と化した私は、書き込みのある小説の本と、経年劣化した小説の本に囲まれて生きています。

 たとえば、以下の文庫本は、書き込みと破損がひどくなってきたので、買い換えました。『杳子』も『妻隠』も、まだまだ読みたいのです。

 一度読んで、「はい、さようなら」とは言えない小説があるのです。たぶん、まだ読んでいないからだと思います。「読む」は私にとって重い言葉です。

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 印刷された小説は、複製でありながら物でもあるから、「よごせる」し、「よごれる」のです。

 物なのです。手に取って、手のひらにのせて愛でることのできる物なのです。形ある物はいつか壊れます。消えてしまう可能性も高いです。火の用心。

 愛おしいです。愛している小説が愛しくてたまりません。

 いとおしい、あいしている、めでる。
 愛おしい、愛している、愛でる。

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 私はこういうふうに言葉を転がすのが好きです。病的に好きなのではないかという自覚もあります。

 言葉は複製です。

 口から発する声という形でも、手で紙に書く文字という形でも、複製( one of them )なのですが、それでいて、本人やその言葉を受けとる相手にとっては、実物・実体( the only one )でもあります。

 複製と実体、複製と実物、複製と本物、複製と起源

「と」でつながれた両者の関係は固定しているものではなく、いわば宙吊りにされている。そんなふうに見えてきます。⇒ 「であって、ではない(反復とずれ・03)」

 だって、たとえば文字や文字からなる小説は、複製でありながら実物・本物・実体でもあるのですから。

 複製と、実物・本物・実体・起源が反対の関係にないことは確かでしょう。⇒ 「アンチ・アンチ」

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 私の好きな言い方をすると、小さくて短い言葉(声・文字)と大きくて長い言葉(話・文章)は、「起源のない引用」であり、「実物や本物のない複製」なのです。

 複製と実体、複製と実物、複製と本物、複製と起源
 引用と起源――

 その関係を言葉にしたところで、それはありえない抽象でかないとでも言うか、この関係をすくえる、掬える、救える言葉は、おそらくないのです。もちろん「起源のない引用」や「実物や本物のない複製」もです。

かりた言葉をかえす


 言葉は借り物です。誰にとっても、生まれた時にすでに自分のまわりにあったものです。

 それを真似るという形で借りてつかいます。つかってよごれるのは致し方ないでしょう。というか、借りた言葉は誰もが勝手に自分の都合でつかっていい、と私は考えています。

 きれいにして返すなんて無理です。言葉をきれいにつかってきれいに返していれば、言葉は大昔から変わっていないはずです。つまり、誰にもできないことなのです。

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 だからこそ、言葉を「きれいにつかおう」などというのは、誰にもできない綺麗事でしかありません。「きれいだった」大昔の言葉を復元して、そのとおりに発音し、(当時に文字があれば)そのままの文字としてつかうことが、誰にできるというのでしょうか? 

 言葉を「きれいにつかおう」なんて、美辞麗句どころか、麗句になりそこなった疑似麗句でしかありません。響きはいいかもしれませんが、荒唐無稽で空疎なのです。

 引用と起源、複製と実物・本物・実体――。

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 たとえば、「正しい」日本語とか、「美しい」日本語とか、「乱れていない」国語を標榜するのであれば、せめてその実体と起源をたどる――「美しい」はともかく「正しい」と「乱れていない」を求めて、いったいどこまでさかのぼる気なのでしょう? 平安時代? それとも縄文時代?――覚悟と実践を示してから口にしてもらいたいと思います。

 たとえ、「正しい」と「乱れてない」に明確な基準がないからといって、「歯止めをかける」という後退した言い回しや、「ケースバイケース」という曖昧な言辞を弄してお茶を濁さないでもらいたいものです。

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 言葉は生きている(ずれていく)のです。ただ生きている(ずれていく)のではなく、人とともに生きている(ずれていく)のです。

 辞書の語源の説明に頻出する「転じて」「訛って」「○○か」という言い回しが証左です。ある言葉の語源にそうした記述があるからと言って、その言葉が「きたない」とは私は思いません。

 生き物である人は、よごすし、よごれます。綺麗事で生きることはできないでしょう。

 その人が使う言葉も同じです。

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 いろいろ使いまわして、どっぶり浸かった水はよごれているでしょうが、最後は大きな河にお返しするしかないでしょう。

 どっぷり浸かってさんざん使って垢で汚れた水を、この世とのお別れのときになって、大きな大きな河に流してお返しする。感謝してお返しする。

 それでいいのではないでしょうか。

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 よごす、よごれる、汚す、汚れる、けがす、けがれる、汚す、汚れる

 よごし、よごれた水も言葉も、決して、けがし、けがれたものではないと信じたいです。

 きれいはきたない、きたないはきれい。
 よいはわるい、わるいはよい。
 Fair is foul, and foul is fair.(『マクベス』ウィリアム・シェイクスピア)

 見た目にはよごれていても、けがれてはいない大きな河があるそうです。いつか、みんな、そこに返し、みんな、そこに帰るのかもしれませんね。

感謝


 いとしい小説たち、本たち、言葉たちへ

 乱暴に扱って、ごめんなさい。いつもいっしょにいてくれて、ありがとうございます。引きつづき、いっしょに年を取りましょう。これからも、どうぞよろしく。

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 私の大好きな曲です。

 この歌詞を読んでいると、言葉、本、小説のことを歌っているように思えてなりません。

 どんなに勇気づけられたことか。



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