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交尾の出てこない『交尾』
今回は、「共鳴、共振、呼応(薄っぺらいもの・06)」の続きです。
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梶井基次郎の掌編『交尾』には交尾が出てきません。
この時私は不意に驚ろいた。先ほどから露路をあちらへ行ったりこりこちらへ来たり、二匹の白猫が盛んに追っかけあいをしていたのであるが、この時ちょうど私の眼の下で、不意に彼らは小さな唸り声をあげて組打ちをはじめたのである。組打ちと云ってもそれは立って組打ちをしているのではない。寝転んで組打ちをしているのである。私は猫の交尾を見たことがあるがそれはこんなものではない。また仔猫同志がよくこんなにして巫山戯ているがそれでもないようである。なにかよくはわからないが、とにかくこれは非常に艶めかしい所作であることは事実である。私はじっとそれを眺めていた。遠くの方から夜警のつく棒の音がして来る。その音のほかには町からは何の物音もしない。静かだ。そして私の眼の下では彼らがやはりだんまりで、しかも実に余念なく組打ちをしている。
(『梶井基次郎全集 全一巻』(ちくま文庫)pp.229-230・以下同じ)
「私は猫の交尾を見たことがあるがそれはこんなものではない。」とあるのですから、この作品で描かれている二匹の白猫のさまは交尾を描写したものではないと考えられます。
『交尾』は「その一」と「その二」に分かれていて、上の文章は「その一」から引用した段落です。
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「その二」は次の文で始まります。
私は一度河鹿をよく見てやろうと思っていた。
(p.232)
そして次の段落で終わるのです。なお、「彼」と「彼ら」は河鹿を指します。
勿論彼は幸福に雌の足下へ到り着いた。それから彼らは交尾した。爽やかな清流のなかで。――しかし少なくとも彼らの痴情の美しさは水を渡るときの可憐さに如かなかった。世にも美しいものを見た気持で、しばらく私は瀬を揺がす河鹿の声のなかに没していた。
(p.236)
「その一」にも「その二」にも交尾の直接的な描写は出てきません。描写されているのは交尾に至る前のいとなみばかりなのです。
交尾の出てこない『交尾』という作品の読後感は「爽やか」です。ごく短い作品なのでぜひ読んでいただきたいと思います。
私は『梶井基次郎全集 全一巻』(ちくま文庫)でこの作品を読んでいるのですが、以下の青空文庫でも読めます。
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『梶井基次郎全集 全一巻』(ちくま文庫)は、「作品」と「習作」と「遺稿」に分かれています。三部を比較すると、重複する内容や細部の作品と断片があり、実に興味深いです。
梶井の場合には、完成した作品だけでなく、草稿や未完成の断片を読むのが醍醐味だとも言えるでしょう。私はそれを楽しんでいます。
上で引用した『交尾』は「作品」に収められているのですが、「遺稿」にも『交尾』というタイトルの文章があります。
二つの『交尾』には重複が見られませんが、前者の最後には「(昭和五年十二月稿 *『作品』昭和六年一月号)」、後者には「(昭和五年十二月)」という、おそらく出版社が付けた断り書きが添えられています。
二編の『交尾』がある事情については調べれば分かるにちがいありません。夭逝した梶井基次郎の研究者は多いようです。
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後者の『交尾』は、次の文で始まります。段落の第一文です。
堺の水族館をよく見に行った時分がある。
(p.512)
第三段落の第一文を以下に引用します。
何度も行っていたのだから、そのうち一度くらいは変ったことに打つかるのは当然だったのだが、ある日私は偶然すっぽんの交尾を見る機会に会った。
(p.512)
とはいうものの、それに続く文章には交尾を観察して克明に描写したと言えるほどの長めの細部はなく、状況を説明する文から、すっぽんの「顔貌」についての戯作めいた余談になり、その余談の中に織り込まれ付け足される形の短い文があるだけです。
・p.513「平生はあまり立留らない槽なのだがひょいと覗いて見ると、二匹のすっぽんがもつれあっている。そのまま私はその前に立留ってしまった。」:状況の説明。
・p.513「その彼が今や、膝栗毛の主人公の指に噛みついた角質の歯でもって雌の頸にかじりついているのである。」:余談を引き継ぐ形で描写が織り込まれている。
上の何気なく挿入された一文が私にはもっとも直接的な交尾の描写に見えます。短いだけにぞくっとするほどリアルなのです。
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私はその前に大阪ですっぽん料理を食っていた。だからすっぽんに対してはまた「うまそうだ」という感じを持つことも出来た。彼の齧りついているのはあのぶよぶよの頸である。
(p.513)
ここも鳥肌が立つくらいにどきりとする箇所です。「私」の目の前で雌の頸に雄が齧りついているというすっぽんの様子が、人間の食事に重ねられているからです。
いわば小動物の性事とヒトの食事とが二重写しにされている感があります。
言い換えると、同じ種同士のいとなみに、異種であるヒトとすっぽんの「食う・食われる」を重ねているのです。
ヒトと動物の接触や交流を描くさいに、こうした異化的な手法を用いるのが梶井基次郎はとてもうまいと思います。
『愛撫』における「猫の手の化粧道具」と、同じく『愛撫』のラストで人間の眼球が猫の肉球によって「愛撫」される描写が好例です(「共鳴、共振、呼応(薄っぺらいもの・06)」をご参照願います)。
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すっぽんは水槽に入れられて飼育されたり鑑賞される対象にもなると同時に、食材として食われる対象にもなります。ヒトと動物との関係には綺麗事では済まされない側面がありますが、「私」の眼差しはリアリストのそれです。
動植物に対する真摯な人間の眼差しはリアリストのものにならざるを得ない、というのが私の意見です。人間も動植物だからにほかなりません。
これに続く文章を引用します。
ところが私がそうやって見ているところへ、順を追って魚槽を廻って来た見物客がやって来た。すると私の専心な動物的関心のなかには俄然人間的関心がはいって来た。正確に云えば、私はこれを人と一緒には見物したくなかった。
(pp.513-514)
この「人と一緒には」の「人」は「ヒト」ではないでしょうか? 他人という意味の「人」ではなく、人類や人間やホモ・サピエンスという意味での人です。
直前の「動物的関心」と「人間的関心」という対照から考えて私はそう感じます。
いま述べた点については「人というよりもヒト(する/される・03)」で詳しく書いているので、よろしければお読みください。
いずれにせよ、「人間的関心」と対照されている「私の専心な動物的関心」というフレーズには、話者が自分を動物の側に置いている身振りが感じられます。注目すべき点です。
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引用を続けます。
「私」が槽にいる二匹のすっぽんに見入っていると、「田舎の親爺さん」が近づいてきます。
しばらく硝子へ顔を寄せて見ていたが
「さ、さかっとる!」
なんとも云えない変な顔をして先客である私の顔を振り向いた。私は――私は信じるのだが――私の顔はその時意味のわからない謎のような表情を浮かべていたにちがいない。
(p.519)
そして、「親爺さん」が隣の槽に行ってしまった後に別の人が来ます。以下は、後者の『交尾』の「ラスト」です。
それからやって来たのは商人風の若い男である。彼は別に魚を見るでもなく蹌々踉々と歩いていたが、私がじっと立っているので一寸覗いて見る気になったのだろう。そばへやって来たが、忽ち発見してしまった。その時雌のすっぽんはまともに腹を硝子へつけて踊るような恰好を物憂く繰返していた。するとその男はぐるっと後ろを見廻して盛に手招きをはじめた。連れがいるらしい。…………(欠)
(p.514)
「若い男」は「蹌々踉々」(そうそうろうろう)つまり、よろめいているのですから酔っているのでしょう。
この書き方からすると「連れ」は女性だとほのめかしている、と考えられます。そうであれば、ここは見逃すことのできない細部です。
人間の男女がすっぽんの雌雄のいとなみをガラス越しに眺めるという図になるからであり、よく考えると、ある意味グロテスクなのです。広義の異化だと思います。
前者の『交尾』にくらべると、後者の『交尾』はヒトの本質を突いているだけに、読後感は正直言って「爽やかな」ものではありませんでした。
すると私の専心な動物的関心のなかには俄然人間的関心がはいって来た。正確に云えば、私はこれを人と一緒には見物したくなかった。
(p.514)
ヒトはヒトのヒト的な部分を見たくないのかもしれません。ヒトのヒト的なところに、ヒトが動物でもあることが透けて見えるからでしょう。
だから、人は人事(じんじ)をまるで他人事(ひとごと)のように眺めるのです。
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