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「めずらしい人」(錯覚について・03)

 川端康成の掌編小説『めずらしい人』は次のように始まります。

「今日はまためずらしい人に会ったよ。」
 近ごろ、父は学校から帰ると、娘にそう言って、その日会った「めずらしい人」の話をすることが度重なった。三日目おきか、五日おきである。
(川端康成『めずらしい人』(『掌の小説』新潮文庫)所収)

 地の文で「めずらしい人」と括弧でくくることで読者の興味を惹いています。括弧付きなのですから、意味ありげで訳ありっぽく見えるわけです。

 めずらしい人に会うのはめずらしい出来事ではありませんが、それが度重なるとめずらしいことになります。しかも三日おきか五日おきにめずらしい人に会う人こそ、めずらしい人だと言えるでしょう。

 冒頭の数行で読者に不思議な気持ちをいだかせる川端康成はすごい、と思わないではいられません。

     *

「今日はまためずらしい人に会ったよ」と父がこれだけ頻繁に言えば、「娘」だけでなく読者もまた、「父」が人違いなり勘違いをしているのではないかと思うでしょう。あるいは、父親が嘘をついているのではないかとも考えられます。

 人違いも勘違いも錯覚ですが、本人以外には見えない「出来事」です。ある意味他人にはどうしようもない、つまり確認できない「現象」なのです。おそらく共有もできないでしょう。

 嘘をついているのであれば、たとえばその人の後をつけて、その日の行動を監視すれば分かるかもしれません。「今日はそんな人に会っていないじゃないの」と、とっちめることもできます。

 父がほんとうにこう度々「めずらしい人」に出会うのか、娘はたしかめてみたくなった。

 いま引用したのはラスト近くの一文ですが、最後に何かが起こりそうな気配を感じます。掌編ですから、落ちやどんでん返しを期待する読者もいるにちがいません。

 ネタバレになるのでラストに触れることはできませんので、どうか『掌の小説』をお読みください。最後に収録されている作品です。

 掌編ですから、すぐに読めるはずです。ごく短いながらも、完成度の高い心理サスペンスに仕上がっていると思います。

 最後の展開は何通りにも解釈できそうです。そうした余韻のある終わり方がこの掌編の持ち味であり、いちばんの読みどころだと私は理解しています。

     ◆

 ここからは余談です。

 人違いも勘違いも錯覚ですが、本人以外には見えない「出来事」です。ある意味他人にはどうしようもない、つまり確認できない「現象」なのです。おそらく共有もできないでしょう――。 

 さきほどはこう書きましたが、この作品を読むと、錯覚を共有するというのは大いにあり得る気がしてきました。ときには他人の錯覚に巻きこまれる可能性があるという意味です。

 人違いであれば、人違いをしている人といっしょになって人違いをしてしまう。ミイラ取りがミイラになる。これは十分に考えられます。

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 たとえば、友達といっしょに街を歩いていて、友達がある人を俳優の○○だと言って指差したとします。

 俳優の○○がそこにいるはずがないと確信していても、そう言われてみるとなんとなくそのように見えてくるとか、友達の勢いにつられてそう見えてくるとか、大切な友人に忖度して「そうだね」なんてうなずいているうちに、ほんとうにそう思えてくる。

 そういうことは意外とあるのではないでしょうか? 

 さらに言うなら、二人でいっしょになって人違いや勘違いをするどころか、複数または多数でいっしょになって、人違いや勘違いや、もっと広い意味での錯覚をするなんてこともあり得る気がします。

 恐ろしいのは、勘違いや錯覚をする人が増えるほど、勢いにつられるとか、雰囲気に飲まれるとか、まわりへの忖度が働くという集団や社会や共同体の心理です。

 国家にまで話の枠を広げるときな臭い話になりそうですが、そこまでは広げません。

     *

 冗談半分の話として聞いていただきたいのですが、先日テレビドラマを見ていてはっとしたことがあります。

 ある俳優を別の俳優と人違いしていることに番組の最後のほうになって気付いたのです。人違いをしょっちゅうしている私には、この種の出来事はけっして「めずらしい」ことではないのですが、ある考えが浮んで鳥肌が立ちました。

 ドラマやお芝居や映画というのは、集団で人違いをすることで成り立っている芸術ではないか。そんなふうに思いあたったのです。

 突飛な考えですが、歴史物だと分かりやすいかもしれません。たとえば、源義経はこれまでにさまざまな場でさまざまな演出と俳優によって演じられてきたはずです。同一人物を、です。

 別に歴史上の人物でなくてもかまいません。演じる「別人」をみんなでもって、ある人物だと思いこむのが劇です。「演じる」とは別の誰かになりきる行為であり、お芝居を観るとはそのなりきりを集団で共有することなのです(現実=世界という「お芝居」もそうだとは言いませんが)。

 とはいえ、いまこうやって落ち着いて考えていると、いかにも勘違いの甚だしい私らしい馬鹿げた思い付きなのですが、実はさっきもテレビドラマを見ていて不意に鳥肌が立っている自分がいました。

 あくまでも冗談半分の話でした。

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『めずらしい人』は『掌の小説』のほかに、高橋英理編『川端康成異相短篇集』(中公文庫)にも収められています。

 後者は、広い意味での錯覚の宝庫のようなぞくぞくするアンソロジーです。以下の資料をご覧になると分かりますが、現在入手可能な他の選集にはないめずらしい佳作が収録されています。

 私は常時パソコン脇に置いているくらいです。お薦めします。



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