見えないものを描く、見えないものが描く
梶井基次郎の『交尾』は二部構成になっていますが、今回は「その一」について書きます。引用にさいして使用するのは、『梶井基次郎全集 全一巻』(ちくま文庫)です。
『交尾』は青空文庫でも読めます。
◆写実的な俯瞰の難しさ
上の引用文から、「その一」は物干し場を定点とした俯瞰だと分かります。
語り手である「私」が物干し場から移動しない、しかも双眼鏡のたぐいを使うのでもないとすれば、「私」の目から「家の裏横手の露路を見通すことが出来」たとしても、見た物を写実的に描くことはきわめて難しいのではないでしょうか。
なにしろ夜です。
それなのに、この「その一」では路上の二匹の猫と夜警のあいだに繰り広げられるドラマを描いているのです。どうして、そんなことが可能なのでしょう?
*
『交尾』の「その一」を初めて読んだ時の違和感を思いだします。「その二」には感じられない、ちぐはぐな印象を持ったのです(突飛な言い方になりますが、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』を読むときの違和感に似ています)。
いま考えると視点のせいだと思います。
さきほど挙げた引用箇所から分かるように、語り手である「私」が近所を俯瞰している設定なのですが、その視点とそこからの視線が、その対象である「二匹の白猫」と「夜警」にあまりにも近接した描写をしているための違和感を覚えたのです。
描写を撮影にたとえると、俯瞰による撮影と言うよりも、近接あるいは接写による撮影を連想させる描写が随所に見られます。
具体的に見てみましょう。
猫の場合には、その描写に記憶が織り交ぜてあるせいで、描写が細かくなっていると言えます。たとえば次の箇所です。
ダッシュの使われている部分に回想が見られますが、回想を交えることで描写が細かくなる分、接近した印象になるのです。目の前の描写に回想がまじって描写に厚みが出て艶が生じる――細かやで濃やかという感じ――とも言えます。見習いたいテクニックです。
夜警についても、描写に回想と状況の説明が織り込まれているため描写は説明に近づき、その分だけ文章に厚みが出ます。以下で紹介するのは、上の引用文の続きです。
このように、夜警はまず「杖の音」として登場するのですが、いきなり姿を現すのではなく、まず音として現われるところに臨場感を感じます。
それから状況説明的な一段落があって、その次の段落から夜警の描写が始ります。夜警は副次的な存在ですから、描写が徐々に猫と夜警との駆け引きへと移行していく展開が見どころです。
いわば対峙している猫と夜警――その両方の心理に分け入るような筆致に、はらはらどきどきしないではいられません。
・p.227「私の立っているのは、半ば朽ちかけた、家の物干場だ。ここからは家の裏横手の露路を見通すことが出来る。」
これはもはや距離を置いた「物干場」からの俯瞰とは言えなくなります。見えないものを描いているからです。
それなのに見えているように読者が感じられるとすれば、それは見えていないところを創作しているからにほかなりません。
ここで言う創作とは、目に見えるものだけを写そうとする写生の対極にあるものです。
創作にはいくつかの方法がありますが、次の三つが思い浮かびます。
1)見えていないところを記憶で補う、つまり一人称の小説では語り手に、三人称の小説では視点的人物に回想させる形で見えないところを記憶で置き換え、見た目を取りつくろって創作する。
2)見えていないところを、語り手や視点的人物の想像や空想で補う、つまり百パーセント創作する。
3)一人称の語りと描写に伝聞を交える。【※これがうまいのが古井由吉です。というか、古井は意識的にこの書き方を選んでいました。】
4)見えていないところを、見えていないように見せない工夫をする。要するに読者の気をそらす。
たとえば、一人称の小説である、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』では、上の四つが巧みに用いられている気がします。
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話を「その一」に戻します。
「その一」の描写には興味深いことがあります。
「夜」しかも「深夜」という記述があるにもかかわらず、光、つまり光源がないのです。
夜の街灯も出てこないし、夜警が何らかの灯りを手にしている記述もありません。これは不自然と言えば不自然です。
具体的に例を挙げると、「光」という言葉が出てくるのは冒頭の段落である、次の一箇所だけなのです。
そのほかに光を感じさせるものは、上の「星」が二つくらいだと思います。
光がないのに呼応するかのように「影」や「陰」や「闇」もありません。
正確には「陰」は二箇所に出てくるのですが、「肺病は陰忍な戦である。」(p.228)と「陰気な感じのする男である。」(p.231)であって、物理的あるいは光学的な現象の「陰」ではありません。
明暗という言い方がありますが、「明」という文字すら出てこないのです。かろうじて「暗」が一箇所出てきますが、「隣の物干しの暗い隅すみでガサガサという音が聞こえる。セキセイだ。」(p.229)だけです。
以上、もしも見落としがあったら、ごめんなさい。
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ここまでを、まとめます。
この作品を初めて読んだ私のいだいた違和感の原因は、
1)定点からの俯瞰という視点が選ばれていることと、
2)「その一」全体の描写に「光」と「影・陰」および「明」と「暗・闇」が欠けているからではないか、
と、いまでは考えています。
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何度かこの掌編を読んだいまでは私の意見は、初めて読んだ時の印象とは大きく変っています。
ちぐはぐだという違和感が消えて、この光と影のない、それでいて細やかで濃やかな風景を積極的に肯定する気持ちに移っているのです。
1)定点からの俯瞰という視点を選びながらも、回想を交えたり説明的な記述を加えることで、近接や接写による描写を実現している。
2)「光」と「影・陰」および「明」と「暗」という言葉を出さないことで、夢の中の出来事、あるいは夢の風景のような不思議な夜の世界を創りあげている。
光と陰影のない夜の場面――夜なのに光源と陰影、そして明暗がない世界、これは夢に出てくる夜の風景ではないでしょうか? 夢のようなというのはそういう意味です。
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夢の世界と現実の世界とは別物です。光源があってそれに応じる形で影や陰ができるのが現実の世界なら、たとえば光源と陰影がなくてもくっきりと見えるのが夢の世界でしょう。
夢の世界で律儀に光源があって、それに律儀に応じる形での陰影を期待するほうが不合理というものではないでしょうか? 言葉の世界もそうでしょう。言葉の世界が物理現象に沿う必然性はないと思います。
言葉の世界で現実の世界(夢や思いの世界でもかまいません)の帳尻合わせをしようとしたり、現実の世界で言葉の世界(夢や思いの世界でもかまいません)の辻褄合わせをしようとしている人はたくさんいるようですが、それは両者を同一視している、つまり混同しているのではないか、というのが私の意見です。
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だから夢のようでいいのです。私たちが読んでいるのは現実の出来事の報告書ではありません。言葉からなる小説であり文学作品なのです。
この作品に描かれているのは、絡み合う猫二匹の様子(「私は猫の交尾を見たことがあるがそれはこんなものではない。」p.229 と語られていますが)と、それを見つめる夜警のあいだの視線と視線の織りなすドラマです。
もしこれを写実的な俯瞰で真っ向から描ければ、味も素っ気もない描写になるか、あるいは逆に露骨で扇情的な描写になりかねません。それを、夢の風景のようにふんわりと言葉で描いた作者の手腕に脱帽しないではいられません。
もう一つ脱帽したくなるような点があるのですが、それは次の見出しの文章で書きます。
◆見えないものを描く、見えないものが描く
「その一」の出だしは名文だと私は思います。何度読みかえしたか分からないほど好きでもあります。
音もしないし見えないものを描写しています(蝙蝠そのものは描写していないのです)。その描写が巧みで、読むたびに唸らないではいられません。こんな描写を人生に一度でいいから書いてみたいものです。
とりわけ感心するのは「瞬間瞬間光を消す星の工合から」というフレーズですが、「畜類」という言葉の選択が印象的です。
何匹もの畜類が星空を飛んでいる――このイメージは不気味であると同時に不可思議な光景にも感じられます。幻想的と言うにはあまりにもリアルなのです。
話は変わりますが、いまでは畜類が空を飛ぶのが不思議ではない時代に私たちが生きているリアルさ、と言えばお分かりいただけるかもしれません。
もちろん、私たちのことです。空を飛ぶ畜類。私たちは蝙蝠に似ているのです。実は私がこの蝙蝠の描写を初めて読んだとき、人間を連想しました。
蝙蝠とヒト以外に、空を飛ぶ「気味の悪い獣類」なんていますか?
突飛な言い方になりましたが、このところ梶井基次郎の作品を集中的に読んでいるせいか、いまの私にはヒトと動植物の境目がきわめて曖昧に感じられます。
梶井はヒトと動植物をつなげた比喩と暗示による描写がうまいと思います。うまいどころか、梶井の持ち味と言えるでしょう。
比喩とは別個のもの同士を、ある一点の類似や一致でつなげる修辞なのですが、そのつながりが言葉同士のつながりにとどまらない感じがします。そこが梶井基次郎のすごさと言うべきなのかもしれません。
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最後に、「その一」のラストを読んでみましょう。
「物干しの上の私には気づかないで。」という最後の一文を目にして、はっとしないではいられません。
くり返します。
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「その一」の出だしは名文だと私は思います。何度読みかえしたか分からないほど好きでもあります。
音もしないし見えないものを描写しています(蝙蝠そのものは描写していないのです)。
蝙蝠の聴覚と視覚の機能については私はよく知りませんが、「私」だけでなく、おそらく猫と夜警さえも俯瞰できる形で飛んでいるのは確かでしょう。そう考えると、冒頭で姿を見せずに出てくる蝙蝠が暗示的であり象徴的な存在(=非存在)に思えてきます。
また、いるはずの蝙蝠の「見えなさ」は、鏡を覗きこんだ時の、いるはずの「自分」の「見えなさ」とも似ている気がします。それ自身ではなく、別の物で見えるようにする(見えている気になる)しかない点が似ています。
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見えないものを描く、見えないものが描く――。これが「その一」の仕掛けであり仕組みだと思います。
*見えないものを描く
・見えないもの(蝙蝠)を見えるもの(瞬間瞬間光を消す星の工合)で描く。p.227
・いまここにはないし見えない「独逸のペッヒシュタインという画家」の絵について触れる。p.227
・「物干しの上の私」から見えないが聞こえるものを音だけで描く。「露路に住む魚屋の咳」p.228。セキセイ(セキセイインコ)の立てる音。p.229
もっとも興味深いのは、話者である「私」が一方的に猫と夜警を見ていることです。
猫と夜警にとっては、見えないもの(「私」)が見えないもの(自分たちを俯瞰している風景)を見ていると言えます。
俯瞰している「私」は全能的な存在なのでしょうか?
ところが「私」も一方的に見られているのです。話者=「私」にも「見えないもの」があることを忘れてはなりません。
そうです。私たち、読者です。「物干しの上の私」には気づかれないで見ていたのは、実は私たちだったのです。
話者=「私」にとって見えないもの ⇒ 蝙蝠
猫と夜警にとって見えないもの ⇒ 話者=「私」
話者=「私」にとって見えないもの ⇒ 読者
話者を含む登場人物全員に見えないもの(作品)を描く・書く ⇒ 作者
これが、「その一」の仕組みであり仕掛けだと言えるでしょう。
こう考えると、冒頭の段落が、この「その一」の俯瞰を暗示する比喩であるだけでなく伏線にも感じられてきます。
そして、最後の段落の最後の一文である「物干しの上の私には気づかないで。」が伏線の回収に思えてきます。
ところで、
話者を含む登場人物全員に見えないもの(作品)を描く ⇒ 作者
というフレーズは、必ずしも適切な言い方だとは思いません。いったん書かれた作品は作者を離れて作者にも「見えないもの」になっているからです。
作品とは誰にとっても「見えないもの」なのです。それは作品が誰に対しても開かれたものとしてあるからにほかなりません。
(誰にでも見えるものだからこそ、誰にも見えないもの、それが作品です。さらに言うなら、誰にも見えないもの(作品)を描いているのは人ではなく言葉であり文字だと思います。つまり、見えないものが描いている、見えないものが書いている――。)
作品とは、たとえばこの「その一」の冒頭に出てくる「蝙蝠」のように、その姿は見えなくて、その姿ではない別のものによって、一人ひとりが感じ取り、思い描くものなのかもしれません。
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「私はここへ逃げ出して来て」の「ここ」とは、露路を俯瞰できる「物干場」であると同時に、いまあなたのいる「ここ」にちがいありません。
そして、その「ここ」とは「どこでもないここ」ではないでしょうか。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
【梶井基次郎の『交尾』「その一」はとても短い作品ですが、小説、描写、語り、一人称、視点、虚構、文学、創作行為についていろいろ考えさせてくれる優れた散文です。お薦めします。】
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