冬の馬・六月の春

主に作品等見た読んだものの感想・考察を、大学の講義レポートのような形式で。 自分の感じ…

冬の馬・六月の春

主に作品等見た読んだものの感想・考察を、大学の講義レポートのような形式で。 自分の感じたことを日々の思考や実感と結びついた言葉にするのが目標。 そうやって書いたものが別の誰かの実感とつながってくれたらうれしい。 その人の糧になってくれたらもっとうれしい。

マガジン

  • トラペジウムまとめ

    『トラペジウム』について書かれた文章が入っていきます。

  • エッセイ

    冬の馬・六月の春によって書かれたエッセイ、といいつつ、ここには雑文状の文章たちが収納されていく予定です。

  • ガールズバンドクライまとめ

    冬の馬・六月の春によって書かれたガールズバンドクライについての感想をまとめていく予定です。よろしければ。

記事一覧

固定された記事

エッセイ:世界はあった、かのように、うしなわれて

線より下は、本当のなかに嘘を、嘘のなかに本当を、まじえて書かれる。  以前、「感情移入」という言葉について記事を書いていたことがあった。それがどのページかはここ…

映画『トラペジウム』における「写真」

見られるものとしての写真 東ゆうが喫茶店でシンジに言ったこの言葉から。  この発言を聞いてまず頭をよぎるのは、橋本環奈を撮ったある写真だろう。その写真は、福岡…

刹那的たまゆらエセー:失楽園の知らない私

同じ歌を何度も執拗に聞き返しているのは、それが与えた痛みを薄めようと欲しているようでもあれば、もう一度痛みを欲しているようでもあり、二つの欲望のあいだを揺れるこ…

刹那的たまゆらエセー:美しい引き算と罪深い足し算とその「和」と「差」

引き算の美学はあっても足し算の美学はない。すくなくとも日本におけるそれを知らない。私たちは要素を引いて余分と思われるものを省いていくときには、気持ちいいと思うが…

刹那的たまゆらエセー:生きるデジャブ知る忘れる動物

走るなかで、息が体に追いついてしだいに慣れていくなかでそれでも慣れないであるもの。それが生きることだ。と、デカルトは言ったのか? * デジャヴとかいう時間の返し…

刹那的たまゆらエセー:エッセイ優しさ息誰か走れ

エッセイという文章はある時間的長さを含意している。エッセイとは「試みる」ことだからだ。しかし逆に、瞬時に行われるような「エッセイ」もあるのではないか。このように…

映画『トラペジウム』 東ゆうの「なぜアイドルになりたいのか」について

はじめに 『トラペジウム』はわかる限りでは、かなり精巧に計算されている作品だと思う。演出の面でも些細な点まで入念だ。  たとえば、与えられる情報が、主人公、東…

熊本からの来訪者たち:『三四郎』と『ガールズバンドクライ』

「熊本」という偶然?の一致 このページはある一致からスタートする。ガールズバンドクライともうひとつの作品をつなぐ一致から。  そのもうひとつの作品とは、タイト…

ガールズバンドクライ考察 ルパが「喧嘩」の中で求めているもの

「喧嘩上等」なルパ トゲナシトゲアリのベースを担うルパは、他の誰かが「喧嘩」しているのを見たがるキャラクターだ。実際に彼女が、バンドの他の面々が争う様子をどこ…

ガルクラ第12話 仁菜の「知らない」がゆえの強さと危うさ

 第12話では、これまで描かれてこなかった仁菜のある側面が、それとなく描写されている。それはある意味、彼女の弱点と言ってもいい側面だ。  仁菜は、理想と現実の…

ガルクラ第8話 言葉はどんなふうに「生きる」のか まちがっていないまちがいについて

 「言葉は生き物である」という言葉がある。このページは、ガールズバンドクライという作品を手がかりに、この言葉の意味を、特に言葉が生きるとはどういうことなのかを考…

ガルクラ「空白とカタルシス」MV感想 二次元とCGの使い分けに注目して

   この感想は以前書かれたものを下敷きにして、「空白とカタルシス」のMVについてどんなことが言えるか、を考えようとしている。  そこでは、第7,8話について考え…

安和すばるはどんなふうに「嘘つき」なのか? ガルクラ第4,6,11話

はじめに  ガールズバンドクライのキャラクターたちは、それぞれに特有の鬱屈を抱えているけれども、安和すばるのそれは「嘘つき」であることだ。この「嘘つき」というキ…

感情移入の2つのタイプ ガールズバンドクライ第8話を例にとって

 仁菜は「空の箱」が背中を押してくれたと言う。けれど、それはいったいどういうことを意味しているんだろう? こんなことも言う、「なんかいちばん行き詰ったときに聞い…

ガルクラ第10話 すれ違うことはきっと「まちがっていない」 

 正直に言って、この感想を書いていくにあたって、感じたことをうまく言葉にのせられる自信がない。言い足りないところ、まちがっていると思えるところも多々あると思う…

ガルクラ第3話 「ループマシン」が意味するもの、あるいはむしろ意味しないものについて

 「ループマシン」について愚痴りたい。つまり、ガルクラ第3話には、これでもかと「ループ」が、「繰り返し」が登場しているんじゃないか、ということ。いくつも、さまざ…

エッセイ:世界はあった、かのように、うしなわれて

線より下は、本当のなかに嘘を、嘘のなかに本当を、まじえて書かれる。

 以前、「感情移入」という言葉について記事を書いていたことがあった。それがどのページかはここでは書かない。プロフィールをさかのぼってもらえれば、デカデカ「感情移入」を題に含んだページが見つかると思うので、そちらをあたっていただければ。

 それを書いている途中で、「感情移入」という言葉の文脈を無視して突貫していることにソワソワし

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映画『トラペジウム』における「写真」


見られるものとしての写真 東ゆうが喫茶店でシンジに言ったこの言葉から。

 この発言を聞いてまず頭をよぎるのは、橋本環奈を撮ったある写真だろう。その写真は、福岡でアイドル活動をしていた橋本環奈を一躍スターへと導いた。彼女はその写真によって、「千年に一人の逸材」といったフレーズとともに瞬く間に人気と知名度を獲得していったのだ。そして今でも女優として第一線で活躍しつづけている。

 SNSがもはや生

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刹那的たまゆらエセー:失楽園の知らない私

同じ歌を何度も執拗に聞き返しているのは、それが与えた痛みを薄めようと欲しているようでもあれば、もう一度痛みを欲しているようでもあり、二つの欲望のあいだを揺れることで生じる酩酊を、欲しているようでもある。



自分の心の状況をそのままに体現しているような作品に出会うことはない。人が作品に自分を重ねるとき、たいていはどこかがズレている。たいてい作品の中の美しい部分が、私たちに重なってくれないのだ。

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刹那的たまゆらエセー:美しい引き算と罪深い足し算とその「和」と「差」

引き算の美学はあっても足し算の美学はない。すくなくとも日本におけるそれを知らない。私たちは要素を引いて余分と思われるものを省いていくときには、気持ちいいと思うが、逆に意図的になにかを足そうとすると、なんだか申し訳ないような気になる。罪の意識さえ芽生えてくる。



引き算によってできた空白によって美しさをつくりだすこと。これは日本においては「和」にたいする抵抗と服従のまじった両義的な応答だ。と、

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刹那的たまゆらエセー:生きるデジャブ知る忘れる動物

走るなかで、息が体に追いついてしだいに慣れていくなかでそれでも慣れないであるもの。それが生きることだ。と、デカルトは言ったのか?



デジャヴとかいう時間の返し縫い。あれもまた自分という織物を補強するためにあるのかもしれない。補強されているはずの自分たちにはまったく理解できないけれども。



電灯の白いカバーのなかで、光に照らされつつづけている死んでいる虫の影。イカロスの神話をつくった人の

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刹那的たまゆらエセー:エッセイ優しさ息誰か走れ

エッセイという文章はある時間的長さを含意している。エッセイとは「試みる」ことだからだ。しかし逆に、瞬時に行われるような「エッセイ」もあるのではないか。このように? あるいはもっと別の?



瞬間的なエッセイは即興に結びつく。ある光をつかみとる。ありえたかもしれないものと、書かれるものの時間差を限りなく短くしつつ、その二つのあいだに広がる可能性の余白を最大限に広げる。



それは考えずに書く

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映画『トラペジウム』 東ゆうの「なぜアイドルになりたいのか」について


はじめに 『トラペジウム』はわかる限りでは、かなり精巧に計算されている作品だと思う。演出の面でも些細な点まで入念だ。

 たとえば、与えられる情報が、主人公、東ゆうの視点から得られるものにできるだけ絞られていること。そのためにかえって彼女は露悪的に描きだされることになる。けれどもその露悪的な描写の隙間を縫うように見る側で観察していくと、言い換えると、彼女のバイアスの向こう側をうかがってみようとす

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熊本からの来訪者たち:『三四郎』と『ガールズバンドクライ』


「熊本」という偶然?の一致 このページはある一致からスタートする。ガールズバンドクライともうひとつの作品をつなぐ一致から。

 そのもうひとつの作品とは、タイトルにもある通り『三四郎』。夏目漱石が1908年に発表した小説だ。

 この『三四郎』という作品の主人公三四郎は、熊本から東京に出てくる。熊本は『ガールズバンドクライ』の主人公、井芹仁菜の故郷でもある。また三四郎は、熊本から東京の大学に通う

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ガールズバンドクライ考察 ルパが「喧嘩」の中で求めているもの


「喧嘩上等」なルパ トゲナシトゲアリのベースを担うルパは、他の誰かが「喧嘩」しているのを見たがるキャラクターだ。実際に彼女が、バンドの他の面々が争う様子をどことなく楽しげな様子で眺めている場面は、ガルクラの全編にわたって散見する。その振る舞いは、一種の愉悦を求めるキャラクターと映らなくもない。

 けれども、彼女が「喧嘩上等」を標ぼうするとき、それは必ずしもただ喧嘩を見るのが楽しいから、というだ

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ガルクラ第12話 仁菜の「知らない」がゆえの強さと危うさ


 第12話では、これまで描かれてこなかった仁菜のある側面が、それとなく描写されている。それはある意味、彼女の弱点と言ってもいい側面だ。

 仁菜は、理想と現実の衝突を、本当の意味ではまだ経験していない。学校で現実と衝突したときと、今とでは明らかにちがっていることがひとつある。それは今では彼女が、桃香の歌を歌うという理想とともにあるということである。この理想と現実が実際に衝突をきたすという点は、こ

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ガルクラ第8話 言葉はどんなふうに「生きる」のか まちがっていないまちがいについて

 「言葉は生き物である」という言葉がある。このページは、ガールズバンドクライという作品を手がかりに、この言葉の意味を、特に言葉が生きるとはどういうことなのかを考えようとしている。

 繰り返すけど、「言葉は生き物である」という言葉がある。

 最近は、言葉遣いのまちがいを(悪い言い方をすれば)正当化するために、この言葉が用いられることがある。

 たとえば「延々と」という副詞。最近はYouTube

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ガルクラ「空白とカタルシス」MV感想 二次元とCGの使い分けに注目して

 

 この感想は以前書かれたものを下敷きにして、「空白とカタルシス」のMVについてどんなことが言えるか、を考えようとしている。

 そこでは、第7,8話について考えられていた。<二次元⇔CG>の違いは、<過去⇔現在>あるいは<幻想⇔現実>という対立に対応している、という考えを、仁菜と桃香の回想を手掛かりにして考察したのだった。

 以下はこの観点をもとにして話を進めている。このMVの二次元とCG

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安和すばるはどんなふうに「嘘つき」なのか? ガルクラ第4,6,11話


はじめに
 ガールズバンドクライのキャラクターたちは、それぞれに特有の鬱屈を抱えているけれども、安和すばるのそれは「嘘つき」であることだ。この「嘘つき」というキャラ付け、一見したところ他メンバーたちと比べて、特徴として弱く映るかもしれない。学校中退やら南アジア系で天涯孤独といった背景を負った他の面々と比べると、崖っぷち具合もさほど深刻ではないように見える。「安」と「和」という苗字が象徴するように

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感情移入の2つのタイプ ガールズバンドクライ第8話を例にとって

 仁菜は「空の箱」が背中を押してくれたと言う。けれど、それはいったいどういうことを意味しているんだろう? こんなことも言う、「なんかいちばん行き詰ったときに聞いて。今の自分の気持ちを、そのまま歌ってる、って。…負けちゃだめだって(第1話)」。

 こういった状態というか現象というかを指すのにぴたりとくるワードがあるだろう。感情移入。

 このページは感情移入とは何なのかをまず考えて、その考えをもと

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ガルクラ第10話 すれ違うことはきっと「まちがっていない」 


 正直に言って、この感想を書いていくにあたって、感じたことをうまく言葉にのせられる自信がない。言い足りないところ、まちがっていると思えるところも多々あると思う。

 勝手を言うけれど、できればそういう部分を、読んでくれる皆さんのなかで補い、あるいは訂正していってくれると嬉しい。ここに書かれるのは、親がどう見えるのか、無数にあるだろうその見え方のうちの、ささやかなひとつだと思ってほしい。

なぜ親

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ガルクラ第3話 「ループマシン」が意味するもの、あるいはむしろ意味しないものについて

 「ループマシン」について愚痴りたい。つまり、ガルクラ第3話には、これでもかと「ループ」が、「繰り返し」が登場しているんじゃないか、ということ。いくつも、さまざまなレベルで、「ループ」とか「反復」とか、言ってみれば、「繰り返し」が起こっているのではないか? という……

 というのもこの第3話、やたらいわゆる「天丼」的な要素が多い。そこに「ループマシン」なんていう小道具を桃香が持ち込んできたものだ

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