刹那的たまゆらエセー:失楽園の知らない私
同じ歌を何度も執拗に聞き返しているのは、それが与えた痛みを薄めようと欲しているようでもあれば、もう一度痛みを欲しているようでもあり、二つの欲望のあいだを揺れることで生じる酩酊を、欲しているようでもある。
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自分の心の状況をそのままに体現しているような作品に出会うことはない。人が作品に自分を重ねるとき、たいていはどこかがズレている。たいてい作品の中の美しい部分が、私たちに重なってくれないのだ。このズレが存在しないと錯覚することが、私たちのなかに快い感情、自分が浄化されるような感覚を生む。
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もしも仮にすべてがぴたりと自分と重なり合うような作品に遭遇したとき、人を訪れるのはどんな感情なのか。
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そこではすべてが作品に奪われ、私たちにはなにかを感じる余地はない。なにかを感じることは、作品と私たちの重ならないズレの部分で起きる。だからそれは「感じる」ではない。自分の全体が、まるごと作品と共振してしまうとき、それは「感じる」という言葉であらわせる状態ではない。
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自分というものが仮にあるとして、その自分を、まるごと作品に簒奪されているような状態をなんと呼ぶべきか。そこでは自分が自分でありながら、それが同時に知らない誰かでもある。その作品に出遭うまで、まるで私が私のことを知らなかったかのようなのだ。
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その作品に臨んだ瞬間に、戻りたいと何度も願うだろう。そんなことは叶わないのに。そのひとときのあいだにしか、その作品は存在しなかったのだ。その瞬間の世界の組成のなかにしか。
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あらゆる失楽園の原型として自分自身が知らない声になっていく。
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まるで予言のようにしてそれは私たちに来るのだろう。けれどもそれは未来ではなく現在を歌う。そうやって現在を振動させることで、一瞬先から果てに至るまでの未来を、響かせるような予言。
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過去が過去になる。それは、今までの自分がいなくなるということ。
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そこには何もない。この「そこに」が、「自分」であり、「過去」であり、「現在」であり、「未来」でもあった、そんな瞬間。誕生と死。
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