ガルクラ第10話 すれ違うことはきっと「まちがっていない」 



 正直に言って、この感想を書いていくにあたって、感じたことをうまく言葉にのせられる自信がない。言い足りないところ、まちがっていると思えるところも多々あると思う。

 勝手を言うけれど、できればそういう部分を、読んでくれる皆さんのなかで補い、あるいは訂正していってくれると嬉しい。ここに書かれるのは、親がどう見えるのか、無数にあるだろうその見え方のうちの、ささやかなひとつだと思ってほしい。

なぜ親と子はすれ違うのか

 といって、ガルクラ第10話の話ではある。そこから何を語れるか、その可能性を探ろうという試みではある。引用。

 仁菜「私のつくった歌、今度歌うから、もしよかったら聞きに来て?」
 父「……わかった。……仁菜」
 (抱きしめようとする父から離れ、振り返って小指を立てる仁菜)
 仁菜「行ってきます!」

ガールズバンドクライ 第10話 ワンダーフォーゲル

 宗男の心情は、この一瞬に尽きるだろう。抱きしめようとして抱きしめられない。愛しているのにその愛が届かない。なぜか? 

 理由は主に二つある。ひとつには、宗男が親だから。彼はどこまでも父親としてしか仁菜に接する方法を知らない。ふたつめには、宗男の守りたがっている仁菜は、今目の前にいる仁菜ともう重ならないから。

 このズレのせいで、宗男のコミュニケーションは、仁菜には耐えがたいものになる。

父「お前はまだ未成年だ。それがどういうことかわかるか。大人の庇護のもとで、管理下にあるということだ」
仁菜「だから言う事聞けって言うんだ。いじめなんかなかったことにしろっていうんだ」

同上

父「仁菜がそんなことを言う必要はない。お前は被害者なんだ」

同上

 未成年であるから守られなければならないという考えも、被害者である仁菜を守ろうとする姿勢も、宗男にとって、仁菜はどこまでも「子」であるからだ。そのような向き合い方を、今の仁菜は求めていないことに彼は気づかない。

桃香「お前がいちばん引きずってんのはさ、受験でも、いじめでもないだろう。父親が味方してくれなかったことじゃないのか」

同上

 「この父親が味方してくれなかったこと」がどのような状況だったのかは、私たちには詳しくはわからないし、宗男の側に落ち度がないわけではないのだろう。とはいえ、それも仁菜の将来のことを考えてだったのは確かだ。けれども仁菜はそれよりも今この瞬間の「自分らしさ」を選びたいと願っていたのだった。この「自分らしさ」を、宗男の対応は無視していた。だから仁菜の主観では、父もまた味方をしてくれなかったと映る。

 こういったズレに気づかないから、宗男には娘の振る舞いが子どものわがままと見え、仁菜にも父の接し方は歯がゆいものとして映る。宗男は「子」として仁菜を扱いつづけることで、仁菜は仁菜で自分自身と向き合ってほしいと思い続けることで、父娘は互いとすれ違う。互いに話が平行線のまま「通じない」。

すれ違うことと親であること

 それでも、宗男は仁菜のことをたしかに愛している。もう一度冒頭の引用を引こう。

仁菜「私のつくった歌、今度歌うから、もしよかったら聞きに来て?」
 父「……わかった。……仁菜」
 (抱きしめようとする父から離れ、振り返って小指を立てる仁菜)
 仁菜「行ってきます!」

同上

 そのもっとも根っこの感情が、この一瞬に顔を出している。とっさに娘の背に伸びようとするこの手にだけは、どんなすれ違いも挟まらない。でも、それでも、この手は娘を抱きしめられない。娘は、抱擁の前にその手から離れていく。

 彼が父として抱きしめようとしている「娘」はもういないのだ。

 宗男の、親の哀しさがここにある。親である以上埋められない隙間。親はどうしたって親子という立場を抜け出せない。それなのに、子はそこから脱して自分自身になっていこうとする。親にとって子はいつまでも子なのに、子はもはや親の思いより大きくなっている。

 親子という関係は、こうやってすれ違いつづけることを運命づけられているのかもしれない。

 けれども、そうやってすれ違えるようになっているということ、子が子ではなくなっていくということ、それ自体が独り立ちしていくことの証だ。いつか和解が訪れるなら、そこにいるのは親子というより、むしろ二人の人間なのだろうと思う。仁菜が、父を離れて小指を立てるとき、その小指は親と子という関係からの決別を意味しつつ、そうやってすれ違った全てを肯定している。

 だから、宗男は、彼が思った形では正しくなかったのだろうけれども、親として「まちがっていない」。仁菜が「まちがっていない」のとは違う形ではあれ、宗男もまた「まちがっていない」のだ(※)。

 子どもを導くことと同じくらいに、こうやってすれ違うことも、親であることなのだ。このすれ違い自体もまた、親が親として与えられる教えだ。けれどもそれは、そこからどんなことを子が学ぶのか、それさえお互いにわからないような教えでもある。その教えを通して、わかりあえるかもしれない、さらに溝が深まっていくかもしれない……

 ここから生まれるのは、その内容もいつ届くのかも不明なメッセージのようなものかもしれない。そのメッセージは、一生かけてやっと届くということさえある。あるいは、受け取ってくれたのかどうか、それも親にはわからないかもしれない。自分がメッセージを送ったことさえ、父たち母たちが気づいていないこともある。仮にそのことで子が感謝しようとしても、親としては何のことかわからない。子どものほうで伝えたってわからないだろうと、胸中にしまっていることもある。そうして打ち明けられもせず、それを送ったことも、受け取ったことも、この世界から忘れられていく、そんなメッセージなのかもしれない。

おわりに わかりあう、とは別の

 仁菜は、自分の抱きしめた父が自分を抱きしめ返そうとしていたことに気づいていない。父ののばした手はおそらく、私たちと宗男だけが心に留め、他のすべてから忘れ去られる。

 こうやってすれ違って、忘れられた愛情が、世の中にはどれだけ数えきれないほどあるのだろう。親子と呼ばれる関係が生まれてから、どれだけの言葉や抱擁が、交わらずに忘れ去られていったのだろう。

 その忘却は、けれども、それでいいのだと思う。たぶん愛することと通じあうことは、思っているほど重なり合わないし、重なり合わなくていいのだ。むしろすれ違いを経ていくことで、かけがえのないものになっていく関係だってあるのだろう。仁菜と宗男がそうであるように。

 ガルクラ第10話は、こうした親子のすれ違いのかけがえのなさを、たしかに描いている。


(※)「まちがっていない」が、この物語のキーワードのひとつであることは明らかだ。けれども、仁菜が自分のことを「まちがっていない」と言っても、それは「正しい」を意味しない。「まちがっていない≠正しい」であり、むしろ「正しい⇔間違い」と線を引いたとき、そこからこぼれ落ちてしまうものに向けて、彼女は「まちがっていない」と感じている。その線引きからこぼれてしまう「まちがっていない自分自身」を救うこと、さらにはその「まちがっていない」で、「正しい⇔間違い」の対立を揺さぶっていくこと、それがこの物語の基本的な構図に思える。
 この「まちがっていない」は仁菜だけでなく、物語中に散りばめられている。バンドメンバーたちにもまた、彼女たちなりの「まちがっていない」がある。そのような前提のなかで、このページは、井芹宗男の「まちがっていない」についても、ちょっと考えてみようとした結果だ。

自分によって書かれたガールズバンドクライの記事を以下にまとめていこうと思います。この記事が面白かったなら。

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