刹那的たまゆらエセー:生きるデジャブ知る忘れる動物

走るなかで、息が体に追いついてしだいに慣れていくなかでそれでも慣れないであるもの。それが生きることだ。と、デカルトは言ったのか?

デジャヴとかいう時間の返し縫い。あれもまた自分という織物を補強するためにあるのかもしれない。補強されているはずの自分たちにはまったく理解できないけれども。

電灯の白いカバーのなかで、光に照らされつつづけている死んでいる虫の影。イカロスの神話をつくった人の頭の中には、こんなイメージは思い浮かばなかっただろう。火に近寄って死んでいく虫は知っていたとしても。

こんなにも堂々巡りの思考をしているのに、どうして知らないことを思いつくのだろう。知っていることと知らないことはどんな通路でつながっている。昔の人はそこに神や霊や狂気で道をつくったのだろう。

「知る」ことと、「知っている」と「知らない」は違う意味を持っている。「知る」は「知っている」と「知らない」をつなぐものだ。「知る」の反対はだから、「知らない」ではない。じゃあ何だろう。「私は知らないが神は知っている」つまり「神のみぞ知る」だろうか。

「知る」の反対は個人的には「忘れる」だと思う。「知らない」⇒「知っている」が「知る」という意味なら、「知っている」⇒「知らない」は「忘れる」だろう。

だけど「忘れる」と「知る」は対立しているわけでもない。相いれないわけでもない。なにかを忘れないことには知ることはできない。たとえばこの文章もなにかを「忘れて」書かれているのだし、それによって「知る」が起こる。

どこかで聞いた話だという気もするのだ。デジャヴとはまた違う形で忘れている。

デジャヴと「忘れる」の違い。冷たさとあたたかさ。デジャヴの感覚はどこか空恐ろしさを隠し持っている。「忘れる」はなにかじんわりとした火照りがある。忘れていることを恥ずかしいと感じているのだろうか。

だけどデジャブの感覚にも、どこかしら酩酊のようなものが潜んでいて、それは変なんだけれど、「生きている」感じを感じさせてくれる気もする。あの奇妙な空白にとらえられる瞬間、というよりも、それが過ぎ去ったあとのあの妙な心地には、たしかに「生」の余韻のようなものがある。

あのデジャヴの隙間には動物が潜んでいるんじゃないか。「自分」というものが消えてふいに動物にもどる瞬間がデジャヴのなかにはあるのだ。その感覚があの妙な心地だ。

それは人間としては死なのかもしれない。ひょっとするデジャヴとは死の予行演習なのかもしれない。死が近づいて意識が解体していく最中の感覚を想像する。人間が失われて生が残る。そこに永遠の終わらないデジャヴが待っている。



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