ガルクラ第8話 言葉はどんなふうに「生きる」のか まちがっていないまちがいについて

 「言葉は生き物である」という言葉がある。このページは、ガールズバンドクライという作品を手がかりに、この言葉の意味を、特に言葉が生きるとはどういうことなのかを考えようとしている。

 繰り返すけど、「言葉は生き物である」という言葉がある。

 最近は、言葉遣いのまちがいを(悪い言い方をすれば)正当化するために、この言葉が用いられることがある。

 たとえば「延々と」という副詞。最近はYouTubeなどで文字としてより音としての言葉に接する機会が多いせいか、この「延々と」は、その「えんえんと」という音が「永遠と」=「えいえんと」と聞き間違われ、書き間違いをされていることが多い。編集者のつけた字幕なんかでは、この誤用のほうが用いられているのもよく見かける。

 このまちがいも、「言葉が生き物である」という言葉のある使い方でもって、正当化できる。「永遠と」もまた、刻一刻と変化しつづける言葉のシステムのなかで生じた変化のひとつにすぎない。言葉は生き物のように常に絶えず変化しているのであって、だからこの「まちがい」は、言語が孕む止むを得ない当然の帰結だ……

 たしかに、言葉の歴史はこんなふうな「まちがい」、「誤用」の歴史でもあるのだろう。今私たちが使っているこの言葉だって、もとはどこかの訛りだったにちがいない。その意味では「まちがい」だったはずで、それがたまたま勢いを増して、ほかのたくさんの訛り=「まちがい」たちを調伏して、自分を「正しい」にしてしまったというだけなのだろう。

 正しい言葉なんて突き詰めればない。私たちの日々使っている今のこの日本語も、過去か未来のどこかの時点で、「大まちがい」だった(になっている)ということだってあり得なくはない。こんなふうな変化のダイナミックさに注目して、言葉は「生きている」と比喩的に言うのはあながち「まちがい」とは言えない。

 言葉の変化、すなわち「まちがい」にその「生」を見出す。いずれにせよ重要なのは「まちがい」らしい。

 このページの目的は「言葉は生き物である」という言葉の意味を考えることだった。「まちがい」が要(かなめ)なのだとしたら、ここで言う「まちがい」とはいったい何なのか、それを考えてみる必要があるだろう。つまり「言葉が生き物である」ときの「まちがい」。言葉が「生きる」ときの「まちがい」……

 言葉自体が、「まちがい」によって「生きる」ことになるのだとしたら、それはどういうことを意味するのか。「言葉が生き物である」とはどういったことを意味しているのか。

 このことを探ってみるために、ガールズバンドクライ第8話に登場する台詞のある箇所に目を向けたい。ガルクラ第8話には、たしかに言葉のまちがいと呼べる、すくなくとも私たちの普段の言語感覚から、「まちがい」と見える言葉がある。それがどんな「まちがい」なのかをちょっと考えてみよう。それによって、「言葉が生き物である」というフレーズに、ちょっとでも新たな光を投げかけられたらと思う。

――指先が震えようとも、あなたの歌で、生きようとおもった人間もいるんです
あなたが守らなきゃいけないのは、思い出の中のあなたじゃない
自分の歌を誰かに届けたいという気持ちです
自分の思いを喜びを、怒りを、哀しさを、
誰かに届けたいからバンドを始めたんですよね!
学園祭で歌って、東京に出てきたんですよね
プロになったんですよね⁉
何怖がってるんですか!
何ビビってるんですか!
ここにいるんですよ
あなたに勇気づけられ、元気をもらい、あなたがいたから飛べた人間が 
あなたと一緒に歌うことを幸せに感じて、賭けようと思っている人間が! 
あなたを信じている、あなたの歌が!
…桃香さん 私で逃げるな

ガールズバンドクライ 第8話 もしも君が泣くならば 

 仁菜を過去の自分自身と重ねて、思い出のなかに閉じ込めようとする桃香にたいして、仁菜は取っ組み合いとしごく真っ当な反論の末、「私で逃げるな」と言い放つ。

 「私で逃げるな」。この言葉に注目したい。日常の言語感覚に照らして、これは明らかに「まちがい」だ。「私」という主体をあらわす代名詞に、「で」という手段の助詞は普通つかないし、「逃げる」という言葉もなおさらつくはずがない。

 しかしこの場面では、この言葉が「まちがい」どころではなく、あまりに大きな意味を持ってしまう。この言葉にかけられた思いの重みが、その破裂しそうなほどの激しさが、ひしひしと伝わってくる。この瞬間にかぎって言えば、「私で逃げるな」という言葉は、すこしも不自然でないのだ。むしろ「こう言うしかない」という切実ささえ帯びて、私たちに迫ってくる。

 「まちがい」に言葉の「生」が宿るとしたら、まちがいとしての言葉が「生きる」としたら、それはこのような瞬間じゃないだろうか。

 つまり、こう言いあらわすしかないというところまで、追い詰められたときの必死さ、切実さのなかであらわれる「まちがい」でこそ、言葉は「生き物」なんじゃないか。

 「私で逃げるな」という仁菜の言葉は、なぜか腑に落ちてしまう。こう言うしかなかったというような不思議な感慨にさえ打たれる。こんなふうに彼女の「まちがい」の言葉が私たちに響くのは、彼女が積み重ねてきた「生」に、その言葉が裏打ちされているからだろう。

 言葉の「まちがい」が「生きる」のは、そこに人間の「生」がかいま見えるときなんじゃないか。

 この視点からなら、冒頭にあげた「永遠と」という「まちがい」にだって、「生」を見出せるかもしれない。この誤用は、娯楽の媒体が文字から音声へ移行する時代の狭間に、起こるべくして起こった「まちがい」だろう。その意味で「生きている」まちがいではある。もちろん、それを全面肯定するわけじゃない。とはいえそこに時代の一断面がのぞいているのもたしかで、ここでも言葉は生きていると一応言える。

 結局、大切なのはその「まちがい」に潜んでいるなにかに向かい合おうとする姿勢なのだろう。「永遠と」にだって、時代のはらんだ切実さがあるのかもしれない。人びとの「生」が響いているのかもしれない。「私で逃げるな」も仁菜の思いの芯を響かせているのかもしれない。

 「まちがい」を前にして「言葉は生き物だから」と言うだけで終わらせず、その「まちがい」の向こうにあるかもしれないなにかに、のぞもうとすること。

 それによってはじめて言葉も、「言葉は生き物である」という言葉自体も「生きる」のだろうか。まちがった形で、けれどもまちがいではなく。


自分は「言葉は生き物である」という言葉の裏側にどんな歴史的な蓄積があるのか知らないし、言語学とかそういった分野についてもまったく無知だ。だから、このページはただ「まちがい」に「まちがい」を重ねていっただけという気もする。「言葉は生き物である」という言葉の意味を考えると言いながら、勝手な方向にこの言葉を振り回しただけという印象もぬぐえない。せめて、言葉は多少なり誤用していても、ページ全体としてはちょっとは説得的なものになっていてくれれば、と思う。

ガールズバンドクライについての記事は以下にまとめてあります。リスト型等いくつかレイアウトの型があるみたいですが、どのレイアウトが一覧として見やすいんでしょう……


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