映画『トラペジウム』における「写真」


見られるものとしての写真

奇跡が起きれば、一枚の写真でだってアイドルになれるかもしれないよ

『アニメ映画 トラペジウム』原作・高山一実, 文・百瀬しのぶ, 角川つばさ文庫, p.39

 東ゆうが喫茶店でシンジに言ったこの言葉から。

 この発言を聞いてまず頭をよぎるのは、橋本環奈を撮ったある写真だろう。その写真は、福岡でアイドル活動をしていた橋本環奈を一躍スターへと導いた。彼女はその写真によって、「千年に一人の逸材」といったフレーズとともに瞬く間に人気と知名度を獲得していったのだ。そして今でも女優として第一線で活躍しつづけている。

 SNSがもはや生活を浸食するどころではなくその一部となった現在、一枚の写真や動画で一気に有名になるという現象は、もうそれほど真新しい事態でもない。けれど、橋本環奈がいわゆるバズった2013年当時は、その熱もまだ人びとには新鮮だったはずだ。

 たった一枚の写真で人生が変わる。そんな偶然の出来事を求めて、東ゆうは写真を求める。彼女自身が橋本環奈を念頭に置いていたのかはわからない。けれども、橋本環奈に似た道を、このときのゆうが二番煎じ的に求めていたのはたしかだろう。

 この「写真」についての言及、この物語におけるキーなのではないかと思う。先に言ってしまうと、ここでゆうが語る「写真」のあり方は、後に実際に登場する「写真」のあり方と対比されているように思えるのだ。

 まずは、この喫茶店で示された、橋本環奈的な写真について考えてから先へ進もう。ここで示唆されているのは、きわめてSNS的な写真のあり方だ。つまり、見られるものとしての写真。

 たとえば橋本環奈の写真を考えてみよう。彼女は例の写真が話題になり、そこから<千年に一人の逸材>というキーフレーズを得て、それまでとはまったく別の自分になった。それまでも彼女はたしかにアイドルではあったけれども、それを考えても、たった一枚の写真によって起こった変化は、あまりに大きい。

 こんなふうに、誰かに見られることによって、自分のアイデンティティを上書きしてくれるような写真。ゆうがここで写真に見いだしているのは、こちらの機能だ。これはSNSという媒体によって、爆発的に広まった写真の機能だと言える。

 そのような写真においては、自分ではない誰かによって見られることが、機能をはたすために重要になっている。

見るものとしての写真

 たいして、のちにゆうが見いだし、そして彼女を救うのは、これとはまた別の写真の働きだ。

 それはまず、東西南北が解散したあと、みんなで練習していた場所に、ゆうが一人やってきたときにあらわれる。その日に至るまでのあいだに、彼女は自分の「これから」について考えている。美嘉とのやりとりや、ラジオで流れた自分たちの曲を聞いたことで、彼女はすこしずつ前向きになりはじめている。

 そんななかで、彼女はふと、自分のスマホの写真フォルダを開く。そしてそこで、はじめてのライブが終わったあと、東西南北の四人で撮った写真がゆうの目に入る。

 ここで写真に写った自分の表情を見て、ゆうははっとする。

 このとき彼女は写真を見て何を思ったのか。彼女はその瞬間の自分の気持ちを思い出し、それが今の自分とつながっていることに気づいたのではないだろうか。ひょっとすると、映画での彼女が再びアイドルになろうと決意したのは、この瞬間なのかもしれない。

 ここでの写真は、先ほど橋本環奈の写真を例にして考えたときとは、別の働きをしているように思える。その写真は、ただ他の誰でもないゆうにだけ、自分の過去と今を意識させ、自分のアイデンティティを確認させるような働きを持っている。いわばそれは、SNS的なものを介した役割とは別の、個人的な機能を果たしている。

 考えてみれば、私たちがSNS以前に写真に求めていた働きのひとつは、このような個人的なものだったはずだ。それは言いかえると、誰かに見られるための写真ではなく、見るための写真だったということだ。すくなくとも、そちらの役割が大半を占めていたということだ。

 ある場所へ行った、こんなことがあった、この感情を残しておきたい。そういった自分自身を忘れないでおくための手段として、写真はあった。もちろん、写真の役目はそれだけではないだろう。たとえば、写真を見て、これが本当に自分なのかと戸惑うこともある。そこに写っている自分と、今ある自分の連続性が、アイデンティティが、かく乱される。けれどもそれも、SNS以前には、内的な出来事だったはずだ。

 ゆうがこの場面で接している写真は、このような個人的な体験を与えるものとして登場している。それは他の誰でもない彼女自身が見るものとしての写真だ。

 このような体験は、時を経てトップアイドルの一人となったゆうに、ふたたび訪れる。そうして、この物語を締めくくるのは、「トラペジウム」という名前を与えられた写真なのだ。その写真を他の東西南北のメンバーたちと一緒に「見」て、ゆうは思う。

 ただひたすら、アイドルになりたかった。このときの私は今よりも幼稚で、馬鹿で、格好悪くて……、格好よかった。夢を叶えることのよろこびは、叶えた人だけにしかわからない。
 私ははっきりと言える。あのときの私、ありがとう。

同上, p.188

 ここにある写真が、冒頭の引用でゆうが言っていた、SNS的な見られるものとしての写真ではないことは明らかだ。ここでゆうは、自分の過去を肯定しつつ、自分自身を再確認している。そしてそれは、他の東西南北の面々たちとともに、個人的な領域で起こっている。この「トラペジム」はまさしく見るものとしての写真なのだ。

写真のあり方の変化

 こんなふうに、「写真」をキーワードに、映画版の『トラペジウム』を考えてみた次第だ。写真論はわからない自分だけれど、SNSの登場によって、写真の役割が変化してしまったのはたしかだと思う。そして東ゆうは、そういった現代的な感性によって、写真という媒体に接している。見るものとしてより見られるものとして、彼女は写真をまず意識する。

 もちろん、見られるものとしての写真が、SNS以前になかったわけではないだろう。けれどもSNSの登場が、写真の見られるものとしてのあり方を、飛躍的に増幅させたのはまちがいない。SNSによって、写真の役割のなかで、見ることと同じかそれ以上に、見られることのほうが大きな比重を占めるようになったのだ。

 『トラペジウム』は、そんな見られるものとしての写真にたいして、見るものとしての写真の働きを強調しているように思える(※)。ゆうの個人的な契機には、写真を「見る」ことが密接に関わっている。写真を見るという経験を通して、彼女は自分の過去と現在を再確認する。そのとき写真は、SNSにおける写真とは別の働きをする。いわば個人的な機能を果たす。

 この対比を通じて『トラペジウム』は、「見られる」ことを意識しすぎている今の私たちに、自分自身を見つめ直すことの重要さを伝えようとしている、と言うとさすがに言い過ぎになるだろうか。けれどもすくなくともSNSによって写真に起こったあり方の変化が、この作品には刻まれているのではないか。


トラペジウム関連の記事は下にまとめてあります。2024年7月現在、もうひとつ考察記事が予定されています。よければ。

(※)ふと思ったけれど、冒頭に引用した喫茶店のシーンでは、シンジがテカポ湖に行ったとき撮った「写真」をゆうに見せていた。ここですでに、ゆうの念頭に置いている写真と、シンジの写真との対比があらわれている。とはいえこの対比を考えるためには、このページで考えたのとは別の視点を設ける必要があると思う。

2024年7月時点では媒体の入手が難しいので、角川つばさ文庫のノベライズ版を映画版のかわりに引用しています。ノベライズ版は台詞や物語の流れが映画にほぼ忠実なので、この流用が大きな間違いにつながることはないかと思われます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?