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ホームレス、未来の自分

私がシェルターに入ったすぐにコロナが始まりました。
シェルターの窓から外を見ているだけでホームレスが急激に増加したのがわかるほどでした。

彼らはどこかのスーパーなどで盗んできたショッピングカートに私物を入れて移動していますが、そのショッピングカートにその辺に落ちている物(ペットボトルだったり、食べ物の残り?)などを拾って入れていきます。

ゲートがついているガレージの柵の隙間から手を入れてものを取ろうとしているホームレスを見ていると、彼らをとてもかわいそうと思うと同時に、明日は我が身だと悲観してよく泣いていました。

コロナ前からホームレスはたくさんいましたが、コロナ後は明らかに増えました。
私がいたシェルターの近所は特に治安の悪いエリアだったので、子供を保育園に送っていくときなどは車でも毎朝緊張していました。
車がない時は徒歩で15分ほどの場所に送り迎えをしていましたが、明るいうちでもホームレスがウロウロしていて近づいてきます。
もう彼らはいないものとして、私には見えていないものとしてやり過ごすしかありません。
目を合わせたら寄ってきて、いつまでもついてきます。
それでも尾行されたことがあり、子供に絶対に振り返るな!と言い聞かせ誰かの家の車の影にしばらく隠れていたこともありました。

ナイフを振り翳していたり、棒のようなものを持っていたり、、アメリカは銃を持っている可能性もあるのでいっさい油断はできません。

シェルター周辺はアジア系は私たちしかいなかったため、相当目立っていたと思います。
白人もいません。
南米、アフリカ系のみのエリアでした。

このようにまともな人は外を歩いていない、そんな環境でした。
そもそも洋服などは寄付でもらった古着か、古着屋さんでヨレヨレの服などしか買えないほどの貧乏だったのでその地域に馴染んでいると思っていましたが、あれほどアジア人がいない地域になると嫌でも目立ってしまいます。

まず歩いている人がほぼいない上に、歩いていればそのような人たちなので、もし夫が周辺を車で通ったとしたら、すぐに見つかるでしょう。

これは命のために車は必須だと悟り弁護士費用にと手をつけていなかった日本の貯金を車代に充てました。
離婚て手続きが終われば日本に帰れる、それまで持てばいいとボロボロの中古車を買いました。

それでも子供を保育園に送るには近所に路駐して1分ほど歩きます。
その1分もかなり緊張していました。
まずその周辺には普通の人はいつもいません、家はありますが歩いている普通の人はいません。
ただホームレスか薬中の人しか歩いていません。

コロナ禍では保育園が閉鎖され、オープンしても病院勤務の人の子供が優先的に預けられることになっていました。
でも私は家もなく、離婚が終わっていないのに日本にも帰れない立場で働かないということはできません。
まず求人が出ていなのに職を見つけることが難しい上に、精神的に言葉を発することができない状態で、何年も人と会話をしていないという英語が話せない以前に乗り越えるべき問題がたくさんありました。

でもシェルターを出る日は決まっています。
そして子供を預けないと仕事ができません。
そして子供を預かってもらっている間しか働くことはできません。
知り合いも誰もいないので送迎を頼める人はいません。

そんな中でやっと預かってもらえるところは見つかったのです。

私が普通の生活をしている人間なら間違いなくそこには預けなかったでしょう。
でもそんなことはあの時は私にとっては贅沢だったのです。
預かってもらえるところが見つかっただけでも涙が止まりませんでした。
普段神様なんて信じていないのに、神様に感謝しました。

それほど過酷でした、そして奇跡でした。
チャンスを与えてもらえた、だから頑張ろうと思いました、命が繋がった、それほどのことなのでした。

東京でも待機児童になり結局入園できなかったという経験がありますが、あの時は夫が働いていて、自分たちで借りている家もあり、困ったら電車で実家に帰れる環境であったことがなんて贅沢な環境だったのだ。。と思います。
もちろんそう思うのはその過酷な体験があったからで、この体験がなければそのことは普通で贅沢だなんて思うことはなかったでしょう。











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