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音楽ジャンルを「商業的/芸術的」「低俗/高級」「幼稚/精巧」というレッテルで判断できるのか。

いつの時代も一般的感覚として、「権威側」に関連する音楽は「仮想敵」であり、「被支配者側」に属する文化は我々の味方であり大切にされるべきだ、という感覚がある。そのような暗黙の前提により論が展開される音楽批判が非常に多いと思う。

しかし、そのような価値判断は果たして本当に正しいのだろうか。「卑劣な権威側に牙を剥く正義の市民側」というスタンスの批評が、逆に差別的な視線へと繋がってはいないだろうか。


クラシック音楽史では、次のような捉え方が一般的である。

18世紀までは音楽は貴族のために隷属するものだった。しかし、ベートーヴェン以降、音楽が市民に開かれた。これが「ロマン派」の開花である。

と。

しかし、クラシック音楽はロマン派以降も含めて、全く庶民側ではなくむしろ権威側に紐づいている高級文化であろう。音楽史を精査していっても、19世紀に産まれた数々のポピュラー音楽ジャンルが、同時代の「正当な音楽史」からことごとく無視されてしまっている。ロマン派の音楽家から見てさらに「低級な音楽」は批判・排除の対象のままだった。

ロマン派は市民のための自由で開かれた音楽というスタンスを装いながら、実態はブルジョワ層や知識人のための高級文化なのであった。当時から重要視され始め、現在もクラシック学問の前提となっている「美学」というゲルマン民族の学問的考え方は、高級文化と低俗文化の分断を促す、差別的視線を増長させるものだといえる。

どうしてこのような立場の逆転現象が起こっているのかというと、18世紀までの「貴族音楽・権威側の文化」は「娯楽」というものと結びつけられ、それに対して19世紀以降の「市民文化」は「芸術・学問」というふうに結びつけられたからである。

つまり、娯楽的なものが悪であり、道徳的に大切にされるべきものは深遠な芸術や学問だ。というロジックを用いると、貴族的なものを糾弾する市民側のスタンスでありながら、さらに下級な階層の大衆文化も「反道徳的な娯楽」として差別することができるようになるのだ。

結局は上だろうと下だろうと関係無く、自分たちの音楽文化のみを肯定し、他の価値観の音楽を否定したいだけなのだろう。


そのようなハイカルチャーに牙を剥き、俗民のためのカウンター文化として台頭してきたはずのロックなどのサブカルチャーについても、批評や攻撃のスタンスにいつしか立場の逆転現象が起きてしまっている。

もともとは「精巧で完成度の高い」「練り込まれた」ポップスの権威を「商業的」だとして、それに対し「ストレート」「稚拙で単純」なものを下層階級側の価値として登場したはずのロック。

しかし、今は逆に「稚拙で単純」な庶民向けの音楽を「商業的」だとして攻撃し、「精巧で完成度の高い」「練り込まれた」サブカルチャーが評価されるべきものとなっている。一体、どちらが権威的なのだろうか。

「稚拙で単純」「ストレート」な音楽と、「精巧で完成度の高い」「練り込まれた」音楽の、どちらが「商業的」なのか。そこに一貫性のある答えは無いし、そんなことはどうでもいいのだ。結局は、自分たちの音楽文化のみを肯定し、他の価値観の音楽を否定したいだけなのだろう。


どんな音楽が「良い音楽」で、どんな音楽が「悪い音楽」なのか。

答えは明白である。「そんなものは無い」。

もう使い古され聞き飽きた文句かもしれないが、当noteの出発地点であり最終ゴールである言葉をもう一度記す。

「みんな違って、みんな良い」。

あらゆる立場の批評家が、あらゆるもっともらしい論理を用いて「良い音楽」を評価し、それが自明の価値であるかのようなロジックによって差別の基準を生み出してしまう。

しかし、本当はそこにあるのは、「好き」か「嫌い」か、という個人の好みの違いだけだろう。

主観的な「好き/嫌い」という感想を、客観的な「良い/悪い」という価値と混同させてしまっている人がほとんどではないか。


ただ、だからといって一口に「みんな違って、みんな良い」と理想論を口にしただけでは、何も解決しない。

伝わりやすい音楽、分かりづらい音楽、広まる機会がたくさんある音楽、認知される機会がなかなか無い音楽、地域や特定の文化圏特有の音楽など。

ジャンルの「違い」「差」はいくらでも存在し、そこには必ずポジティブな状況だけではなくネガティブな状況も生まれる。

一人間が今現在この世にある膨大な音楽の全てを好きになれるはずが無いし、なる必要もない。ある人が「苦手だ」と感じるジャンルが存在することはとても自然なことである。だから、

全ての音楽を好きになろう!

と言っているわけではないし、むしろそれを否定したい。自分の感性として「苦手な音楽」「嫌いな音楽」が存在することを自分で認めることは重要だとまで思う。全ての音楽を好きにならなくてもいい。嫌いな音楽があっていい。

そのかわり、その手前で、まずどのような音楽文化があるのか、どのような音楽ジャンルがあるのか、その地図を知っていくことが大事なのではないか。

ジャンルの全体像を見渡す目次・メニューすら無く、ひたすら「考えるな、感じろ!」「好きになってくれ!」と自ジャンルの鑑賞へ誘う紹介ばかりに溢れている現状。

「このような低価値な音楽に対し、このような素晴らしい音楽が登場した」というような、特定の価値観の視点からしか描かれない音楽史や音楽批評。

そろそろ、そういうのから脱皮しませんか。音楽以外の色んなトピックではもう、そういう時代ではないでしょう。「多様性」「多文化理解」というのは、ここから始まると思うんです。

そんなスタンスで、これまで音楽史をまとめてきました。その追求に正解は無いし終わることも無いですが、是非再度お読みいただければ非常に嬉しいです。

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