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音楽の学問における「西洋視点の反省」。正しいはずなのに、どこか感じる違和感の正体。

音楽における最新の"正当な学問的分野" では、19~20世紀に正しいとされてきた「音楽 = 西洋音楽のこと」「正しい音楽 = 西洋音楽理論に則ったもの」という態度を反省する流れにあり、既存の西洋音楽理論で説明できない非西洋の民族音楽に注目したり、既存の音楽理論の正解を否定するような実験が推奨されています。

狭義のクラシック音楽の美学は19世紀ヨーロッパのブルジョワ階級による視点であり、帝国主義の植民地支配に深く関係するものであったことは間違いありません。これまでの史観では民俗音楽が軽視され、無視されてきたことも間違いないでしょう。なので、その視点を反省する態度、"西洋のまなざし"を疑問視するポストコロニアル的な大義は大変結構だとは思います。

ですが、そこで彼らはむやみやたらに調性音楽を否定したがるのです。「西洋由来の調性音楽に囚われていることは視点が狭い、調性音楽を志すことは悪だ。」というような圧力さえ感じてしまいます。

西洋植民地主義の反省から非調性音楽や実験音楽を推奨してみたところで、「バロック → 古典派 → ロマン派 → 近代 → 現代」という西洋クラシック特有の一方向的な音楽理論の発展史観(ヘーゲル弁証法的史観)から全く抜け出せておらず、むしろその視点の正当性・権威を強化するものになってしまっていると感じてしまうのは、僕が間違っているのでしょうか?


「調性音楽が正義であるというのは19世紀のヨーロッパが推し進めた"ロマン派"という特定の時期のものであり、現在ではそのような音楽に囚われるのは悪です。(ドヤッ」

というようなロジックを用いることで、むしろ現在の知識的エリートが、多くの庶民の『調性音楽の範疇にあるポップスや民衆音楽』までもを抑圧し弾圧する構造になってしまっていると思うのです。

そもそも「古典派」や「ロマン派」といった特定の時代区分の概念が調性音楽の代名詞として持ち出されて語られがちなこと自体に既に傲慢さを感じています。クラシックの時代区分っていうのは、もっと特定の狭い概念なんだよ、調子にのるな。と言いたい。

この一番の問題点は、クラシックと地続きの調性音楽的な大衆音楽がすべて「ロマン派の下位互換」と位置付けられてしまい、クラシック的なロマン派と一緒くたに「否定されるべき過去のもの」とされてしまうことです。

クラシック学が強制的に「過去のもの」とした「植民地的」な理論は、もはや20世紀以降の数多のポピュラー音楽・大衆音楽の中に強化されて息づいているのです。

それらを全て「遅れているもの」「否定されるべき視線」だと断じてしまうこと自体が、知識エリート階級の立場から大衆文化を見下す、非常に差別的な視線ではないですか?

まるで、さんざん肉ばかりを食べてきた貴族が突然一切の動物を食さないヴィーガンに転向し、今まで狩猟を強制させて押し付けていた狩人達に今度はそれを禁止して職を奪い、ヴィーガン生活を強いるかのような、非常に極端で強引なものでしょう。

世界各地それぞれ異なるあらゆる音楽の考え方を知っていくことも大切ですが、それと同時に、我々にとって浸透し最も身近である音楽にもきちんと目を向けて向き合っていくことも大事ではないのでしょうか。

音楽の正当な学問について僕が感じる違和感の正体は、おそらくこれなのだと思います。

音楽や価値観における「客観性」や「差別」について再度、再考していきたいものです。

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