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『ぼっとんじじい』



『ぼっとんじじい』



小学三年の凌が住んでいる家は、地方の田舎の一軒家である。赤錆びが吹いたトタン屋根の二階建ての家は、砂壁の和室、あまりにも急な階段、薪風呂、ぼっとん便所という如何にも古い屋造りだった。

その家での生活の中で凌が苦手なことがある。それがぼっとん便所だ。汲み取り式便所のことである。便器内の全体に穴が開いており、その穴に小便や糞を落とす和式便器なのだが、その穴にフタがないので、穴の底にある汚物が放つ悪臭がひどかった。
のみならず、腐った煮豆みたいなすえた臭いが個室の天井や壁にこびりついており、便器の右手にある小さな窓からは日が入らなくて、常に薄暗かった。


あー、またやっちまったぁ!
こんちくしょうめ、このやろう、この。

そう言いながら、汗で濡れた肌着のランニングシャツにステテコの格好で便所から出てきたじいちゃんは、酒焼けした赤ら顔を皺くちゃにさせた。小便をしているときに長財布を便器の穴に落としたらしい。財布には現金四万円と免許証が入っていた。


じいちゃんは酒に酔っており、些か足元が覚束なかった。糖尿病を患っているじいちゃんは医者から酒を止められているはずなのだが、家族に隠れて酒を飲んでいる。そして、酔って前後不覚になり、部屋の砂壁を足蹴りして穴を開ける、冷蔵庫に小便をして中の食材を全部ダメにする、ふらりと外へ出ていって他人の家の前で大きな鼾をかいて寝ているなどの醜態をさらし、みんなに迷惑をかけていた。
案の定、その夜も家の外の物置小屋に隠れてワンカップ酒を飲んでいたらしく、この体たらくである。
茶の間でテレビを観ていた凌は呆れながら、

「じいちゃん。そんな大事なものをなんで便所なんかに持っていったの?」
「うるせぇ、この。おらは財布を肌身離さず持ち歩く性分なんだ。寝るときも枕の下に挟んでる」

ずいぶんとがめついじじいだな。こんなに野蛮であさましい大人にはなりたくないな、と凌は思った。
じいちゃんは苛立った様子で茶の間を不必要にうろうろしていたが、出窓の前でタバコを一本吸うと、ようやく気持ちが落ち着いてきたらしく、

凌、腹減ってないか?さっき食った晩飯のシチューは本当に不味かったよな。少し粉っぽくてさ。
ばあちゃんが作るものは全部不味いんだ。焼きそばなんて麺がベタベタしているし、味噌おにぎりなんて糞でも食ってるみてーな酷い味がするもんな。
自分でラーメンでも拵えた方がよっぽどいいや。ほれ、自家製の干し柿だ。食え。一個、やる。

と言って、凌に干し柿を渡すと、じいちゃんは干し柿にかぶりついた。すると、「なんだこれ。ものすごく硬いぞ、この!」とわめいた。
じいちゃんの黒ずんだ前歯が二本ともかけている。じいちゃんは干し柿と欠けた前歯を口からぺっと吐き出すと、ささくれ立った畳に立て膝をついて、

どいつもこいつもなめくさりやがって、この!
なんなんだこの石みてーな干し柿は!
これもあのババアが拵えたものだろ。
こんな粗悪なもん作りやがって、この!

そう言うと、テーブルの上の麦茶を一息に飲んで、茶の間を飛び出していった。素足で薄暗い廊下をバタバタとやかましい音を立てて走っていく。奥の部屋にいるばあちゃんに文句でも言いに行ったのだろう。凌は夫婦喧嘩がまた始まるなと心配した。
そのとき、じいちゃんが「あいたァ!」と叫んだ。驚いた凌は様子を見にいくと、じいちゃんは廊下の中途に座りこみ、足の裏を手でおさえている。


「大丈夫かい、じいちゃん。どーしたの?」
「どうしたもこうしたもあるかい、この。ああ、いてー。クソ。とんでもねーな。煎餅だよ。割れた煎餅がここに落ちてたんだ。考えられねーな、この。凌、頼む。は、は、早く電気を点けてくれ…」

凌は急いで廊下の電気を点けると、じいちゃんの足の裏が切れていた。血が出ている。じいちゃんの足元には割れた煎餅の鋭利な欠片が落ちていた。家族の誰かがそれを廊下に落として、そのままにしていたらしい。凌は吹き出しそうになり、こみあげてくる笑いを必死にこらえていた。じいちゃんは額に油汗を浮かべて悶えているが、凌は助けなかった。
それから、じいちゃんは、白髪の鼻毛がはみ出ている形の悪い団子鼻をフガフガさせながら、「ババア、この!」と言って、廊下を這っていった。

凌は便所に入った。天井から吊るされている裸電球が窓からの隙間風で微かに揺れている。天井は雨漏りの跡の黄色い染みが残っており、薄汚なかった。また、足元の床はジメジメしていて、四五匹の便所コオロギがぴょんぴょんと活発に飛び跳ねている。
便器の穴は真っ暗であり、穴の底から糞の臭気と共にコォォーという風の音みたいな不気味な音が間断なく聞こえていた。穴をのぞいていると、凌は身の毛がよだつ恐怖を感じた。もし、この穴に自分が落ちてしまったら、二度とこの世に戻ってくることができないような気がした。無論、じいちゃんが落とした長財布も回収することはできないのだろう。


三日後の正午、虫取りをするために外出していた凌が帰宅すると、玄関の土間には見たことがない小汚い革靴が置いてあった。じいちゃんは茶の間でひとり、どんぶりでラーメンを貪るように食べており、

「凌、いいところに帰ってきたなぁ!おらがラーメンを拵えてやる。うめーぞぉ。こいつはベロが抜けるほど絶品のラーメンだ。特にスープがうめー」
「あ、大丈夫。朝、お母さんが作ってくれたいなり寿司の残りが台所にあるから。それよりも、玄関にあるあの革靴は誰の?あんなのあったっけ?」
「ああ、あれはおらのじゃねーが、おらのだ。午前中に町の公民館へ行ってきたんだが、帰るときに誰かの革靴を間違えてはいてきちまった。おらのはばあちゃんから買ってもらったばかりの新品の革靴だったのによ。まあ、考え事をしながらだったから、仕方ねーさ。今頃、おらの新品の靴を誰かが代わりにはいているだろーよ。ハッハッヒ!」

などと言って、豪快に笑うが、凌はくすりともしなかった。とんだ間抜けじじいだと思って、げんなりした。そして、コイツは頭がおかしいのだと決めつけ、蔑んだ目でじいちゃんの顔を注視していると、

「ん?なんだ、この黒い塊。おら、こんなの入れた覚えねーぞ。あれ。おかしいな。おい、凌。これなんだい?このどんぶりの底に沈んでいるものは?」
「じいちゃん、それ、便所コオロギだよ…」

すると、じいちゃんは目を剥いて激昂しかけたが、すぐに嘔吐を催して、便所に入って行った。
自分で拵えたラーメンの出汁が便所コオロギだったことに気づかずに、うめーうめー、と言って、夢中で食べているその愚かさに心底情けなくなった。じいちゃんの狂的な味覚障害は以前からである。


ニ日後の夕方、凌は茶の間でタコ煎餅を食べながら昆虫図鑑を見ていると、外が急に暗くなり、烈しい驟雨が町を襲った。周囲はみるみる暗くなり、ついぞ聞いたことのない轟音が空に響き渡ると、鮮やかな紫色の閃光があたりに明滅した。そして、堰を切ったように大地に土砂降りの雨が降り注ぎ、窓の外に見える大小の山々が雨の中に沈んでいった。



凌は怯えた。まるで恐ろしい夏の魔物が空から地上に降りてくるような薄気味悪さを感じていた。
茶の間にいたばあちゃんは甲高い声で騒ぎながら、庭に干している洗濯物を急いで取りこむと、ずぶ濡れになって戻ってきた。そのとき、停電になった。家の中が真っ暗になる。誰がどこにいるのかわからない。凌の両親は仕事から帰ってきておらず、家には凌とじいちゃんとばあちゃんの三人だけだった。


家の中が暗くなった途端に雨脚が烈しくなり、雷鳴が大きくなった。やがて、胸を圧迫するような轟音が近づいてくると、それは家の二階の屋根の上で鳴り響いているように耳をつんざいた。すぐにタンポポの根のような造形の青白い稲光が、家の近くに落下していく。家の裏にある竹藪からは、けたたましい鳥の啼き声と獣の咆哮のような不気味な声がしていた。やがて、ばあちゃんは台所から蝋燭に火をつけて持ってきた。懐中電灯は電池が切れていたらしい。その蝋燭を茶の間のテーブルの真ん中に立て、凌とばあちゃんとじいちゃんは座布団に座った。
三人はほとんど喋らずに蝋燭の炎をぼんやり見つめている。庭に面した出窓から見える外の景色は暗澹としており、この世の終わりを感じさせた。


そのとき、誰かが家の玄関の引き戸を叩いた。
しかも、それはやかましいくらいに乱暴である。
家の玄関には呼び鈴があるが、今は壊れていた。
ばあちゃんは背中を丸めながら声をひそめて、

「こんなときに誰が訪ねてくんだべか…凌の母ちゃんと父ちゃんは帰りが八時半頃になるはずだからあきらかにおかしいね。わし、鍵を締めておいてよかったよ。変なやろうが来たのかもしれないな…あんだ、警察に連絡した方がいいべか?どうすっぺ?」
「こんなときにわざわざこんな山の中まで来るバカはふつうはいねー。とんだあんぽんたんだな…どれ、おらがちょっくら見てくるから、おまえらはここから動かずにじっとしていろよ。あぶねーから」
「あんだ、台所の出刃包丁を持っていけ。自分の身は自分で守らねばならぬ。命をだいじに!」
「あいよ。その前にタバコだけ吸わせてくれや」

そう言うと、じいちゃんは蝋燭の炎でタバコに火をつけて、それを根本まで吸い尽くすと、茶の間から忍び足で出ていった。無論、その間も玄関の引き戸が壊れそうなほど、誰かが乱暴に叩き続けている。
じいちゃんは出刃包丁を握りしめ、緊迫した面持ちで玄関口へ向かっていった。床板の軋む音がする。
玄関口の下駄箱の上には凌が大切に飼育しているカブトムシとクワガタムシの虫籠が置いてあった。

すると、突然、ガシャンと大きな音を立てて、引き戸のガラスが派手に割れた。じいちゃんは驚いて、後ろにひっくり返り、土間にドスンと尻餅をついた。そして、白目を剥いて、泡をふきそうになっている。しかし、出刃包丁は握ったままだった。
寒心した凌とばあちゃんだが、じいちゃんの身の危険を感じたので、勢いよく茶の間を飛び出した。


土間の真ん中には濡れ鼠になった父が立っていた。
強度の近視である父は分厚いレンズの眼鏡をかけているのだが、レンズを曇らせて、全身から雨水を滴らせながら、はあはあはあはあ、と肩で息をつき、凌たちを威嚇するような目でにらみつけていた。

おい!誰なんだ、戸締りしたヤツはッ!
どういう神経なんだ、バカモノ。
常識的に考えてみろ。
わたしがまだ帰ってきていないことくらいバカでもわかるだろッ!しかも、こんな悪天候のときに鍵なんか締めるヤツがあるか、タコ!

と声を荒げて言うと、やけに広い額にはりついている横髪を手で拭いながら、子どものように地団駄を踏んだ。びしゃびしゃのスーツ姿で真っ暗な土間に突っ立っている父は無様であり、憐れだった。


そのとき、ばあちゃんが懐中電灯を持ってきた。
どこかに替えのストックがあったらしい。
ばあちゃんは明かりをつけて、父の顔を照らした。
懐中電灯の青白い光が父の眼鏡を白くすると、

おい、何やってんだ、まぶしいからやめろッ!
わたしの目を照らすな、ボケ。
もっと常識的に考えて……

そう言って、眼鏡を外した父は、前屈みになり、体を犬みたいにぶるぶる震わせながら、玄関の上がり框に腰かけると、スーツの上着とシャツとズボンを脱いで、それらを苛々したように床に叩きつけた。
地方公務員である父は自分のことを「わたし」と言う。それが凌には滑稽に感じたし、なんだか自分が偉い立場の人間であることを誇示しているような気がして鼻についた。実際は大したことがない。


玄関の引き戸には穴がぽっかり空いていた。そこからビュービューという風が吹きこみ、雨の匂いが侵入してきた。また、穴の奥では軒先から流れる大量の雨水が川のようになって庭を流れていた。
夜の七時になった。茶の間にあるゼンマイ式の柱時計がボーンボーンという陰気な音を出した。母はまだ仕事から帰ってこない。玄関の上がり框にパンツ一丁の格好で偉そうに腰かけている父が居丈高に、「おい。わたしに早くバスタオルを持ってこい!風邪を引いてしまうじゃないかッ!」と言って声を尖らせた。すぐにばあちゃんが廊下を走った。
凌の背後の砂壁では、小さな赤い虫が十匹もニ十匹もチョロチョロと這い回っていた。凌はザラザラする砂壁を小さな赤い虫ごと後ろ手で触りながら、「こんな傲慢で下品な大人にはなりたくないな…」と思った。それから父は、素足で廊下に上がるとすぐに妙な顔をした。父の足の裏にはリンゴの食べ滓がはりついている。父はみるみる仏頂面になり、

クソッ、な、なんだこいつは!気持ち悪いッ!
ナメクジかなんかだと思ったじゃないか。
わたしは虫が嫌いなんだ。驚かせるなよ。
こんなところに食べ物を落として放置するなんて、常識的に考えられない!わたしはもうキレる!

耳障りなどら声でそう言うと、足の裏をパンパンと手で叩いた。操狂した父は、玄関の下駄箱の上に飾ってあるばあちゃんが作った千羽鶴をめちゃくちゃに破壊し、凌が大切に飼育しているカブトムシとクワガタムシの虫籠を土間に乱暴に放り投げた。
籠の中のおがくずが方々に飛び散り、カブトムシとクワガタムシもどこかへ消えてしまった。

凌は憤慨し、じいちゃんの部屋に飾ってある日本刀で父の生白い首を斬首してやろうかと思ったが、臆病な凌は父が怖くて、ただただ狼狽するばかりだった。そのとき、玄関脇にある便所の中から、

うぎゃああ、やっちまったぁ!!!


というじいちゃんの断末魔の叫びがした。驚いた凌が便所に入ると、便所の中にじいちゃんがいない。恐る恐る便器の穴をのぞいてみると、じいちゃんは即身仏みたいな姿で闇の底に蹲っていた。父のすごい剣幕に怯え、ばあちゃんや凌のことを助けようともせず、便所に逃げたじいちゃんらしい悲しい最後だった。穴の中は静かだった。物音ひとつしない。便所の壁を隔てた向こう側に台所がある。そこの少しゆるんだ水道栓から雫が垂れるポタポタという音が、なぜだか凌の耳にはっきりと聞こえていた。


          〜了〜





愚かな駄文を最後まで読んでいただき、
ありがとうございます。
大変感謝申し上げます。

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