ある日のこと。 息子(4歳)が、私のiPadの標準メモ帳アプリ&Apple Pencilでお絵描きをしていた。 iPadの標準メモアプリには、定規(ツール)というものがあって、それを使うと、実際の定規のように直線を引くことができる。 息子が、iPadのメモ帳の定規ツールを使って、直線を書けることを発見したようだ。角度も自由に変えて線をかけたので、お母さんのところに見せに行った。この投稿のヘッダ部分の画像である。 しかし、そもそもiPadをそんなに使えないお母さん。メモ
三連休の最終日 早朝、昨晩みんなで仕掛けた昆虫トラップを確認しに3人で宿を出た。 同じ道のりなのに昨日に比べると息子の足取りが明らかに軽いのが分かる。 「やはり期待と興奮は、人を前進させる大きな推進力になるのだなあ」 なんて感慨に浸っているうちに、あっという間に目的地の山に到着した。 なんてことはない。 彼だけじゃなく、僕や妻の足取りも軽くなっていたのだ。 そして、僕たちは朝露でどことなくキラキラして見える山道を急いだ。 しかし、一個目、二個目のトラップには彼
一緒にお風呂に入る前に、息子が服を脱ぎながら、歌を歌い始めた。 くまの子みていたかくれんぼ〜 おしりをだした子いっと〜しょ〜 そして、実際に、こちらに向けてプリってお尻を突き出してくるものだから、僕はたまらず吹き出してしまった。 彼のユーモアのセンスはたびたび 僕という地球を救うけど、 ふと不思議に思うことがあったから、本人に尋ねてみた。 「なんでこんな古い歌知ってんの?」 「お母さんが教えてくれたんだよ〜」 なる〜。 息子のユーモアは彼女の英才教育の賜物
「誕生日、何たべたい?」 案の定、僕と違って食にあまり執着のない彼からは、なかなか答えが返ってこなかった。 仕方がないから、僕からいくつか候補を提案した結果、 今年の記念すべきバースデーディナーは 天ぷら に無事に決まったのだった。 そして、彼の誕生日当日の6/14、はやる気持ちを抑えきれない僕は、お店の予約時間の30分前には最寄駅に着いていた。 途方に暮れて思わず仰いだ天が、なんだかとてもいい感じで、それだけでちょっと感無量になる。 なんとなくオザケンのあの
子供の頃の流行歌だった 西田敏行の 「もしもピアノが弾けたなら」 まだ幼かった僕は、この歌のサビの歌詞、 だけど、僕にはピアノがない 君に聴かせる腕もない を聴いて、文字通り、 両腕がない男性の歌だと思って、必要以上に切ない気持ちになったのを昨日のことのように思い出せる。 まあそんなどうでもいい記憶はさておき、こんなにも音楽が大好きな僕はあくまでいわゆる聴き専に過ぎず、ピアノに限らず楽器の類が全く出来ない。 実際、大学時代の夏休み、実家でアコースティックギタ
最近、紙のノートに自分の気持ちを書く「モーニングノート」とやらを始めました。 朝起きてすぐに自分の思ってることを何でもいいから書くという朝日記みたいなもの。 noteでも日々いろんなことを書いていますが、自分の気持ちに偽りはないにしろやっぱり人に見られる用の文章になっているかもなと思い、もっとざっくばらんにどんどん書いてみようと思ったのです。 モーニングノートを書き始めてふいに出てきた「弟」のこと。 実は私、2つ下の弟がいるのですが、この弟がまー癖が強いと言いますか、
ある小説をきっかけに身近な人の過去を知る 昨年のある日、私は好きな作家さんのある小説を読んだ。第二次世界大戦中から始まるその物語は決して戦争の話ではない。その時代から始まり、現代までの数世代に渡る家族の話だ。 しかし私はその小説を読み始めてすぐ、物語の序章にあった戦時中に日本がとったある国策に個人的に注目した。 というのも、その少し前に実家に届いた私の祖父にまつわる本に同じワードがあったからだ。 ある日届いた祖父にまつわる本と、見つけた新聞記事 実家に届いた本とは、私
きのうは"父の日"でしたが、『お父さん、ありがとう』ということばを目にするたびに、心の表面にさざ波がたつような感じをおぼえました。 わたしが11歳のとき、両親が離婚しました。 まえぶれのようなものはなにも無く、ある日から父親が家に帰ってこなくなりました。 仕事からの帰宅時間がいつもおそくて、忙しいときには職場に泊まりこむこともあったので、最初の数日間はあまり気にかけていなかったのです。 "お父さん、ぜんぜん帰ってこないなぁ…?" そう思いはじめたころ、母親から離婚することに
ずっきーさん企画『真夏のリレーnote』に初参加させて いただきました。 青松里香さんからバトンを受け取りました とても切ない花火大会の出来事を 奇麗な文体で 細かにつづっていらっしゃいます 是非 ご一読ください 題「回り灯篭の中の夏祭り」詩子供の頃の 一番の想い出は 八幡神社様の 夏祭り。 心の 思い出箱の中では 記憶の粒が キラキラと輝く。 お祭りの朝 家の前の通りは 浴衣姿の 母さんのような 淡い 美しさの 人の流れができる お神輿は 金色の鳳凰が、屋根で 大
春。 猿が小脇に野菜抱え森へ帰る田舎から上京した季節。 東京。 空の星は見えないと聞かされていたけど見えた都市。 部屋。 親のすねを齧りつつ初めて手にした自分だけの空間。 引越。 2tトラック借り親戚総出で僅かな荷物運び込む作業。 家具。 私の意思などはないと父親が勝手に買い揃えた静物。 円卓。 丸い緑のサイドテーブルは大き過ぎ居場所奪う存在。 なんだよ、これ。しかも、広がるじゃん。 父親。 癇癪持ちで、乱暴で、見栄っぱりで、声がでかくて、やることが大袈裟で、繊
公開記事 猛烈社員だった夫が転職し、 ここ何年かで、夫か料理に目覚め、ついでに洗濯、ゴミ出しをするようになりました。 さらに、猫の額ほどの庭で植物を育て始めるように‥。 読者の皆さまは、「猛烈社員」という言葉をご存知の世代でしょうか。蛇足ながら説明すると、戦後日本の高度経済成長を支えた朝から晩まで猛烈に働く会社員のことを指します。その後、バブル経済の頃には栄養ドリンクのCMで「24時間、戦えますか?」と、土日祝日なく朝から晩まで働く文字通り24時間仕事をする、そういう社員を
今朝、寝ぼけ眼でLINEを開いたらパートナーからたくさんの連絡が来ていた。noteが添付されていたので読んでみたら、まあボロ泣きした。 パートナーとはこれまでいろんな話をしてきたので(本当にびっくりするくらいずっと喋っている。。。)、「よかったね〜」「そうなんだよ、あなたは家族にめちゃくちゃ愛されているよ〜」とどんどん気持ちが込み上げてきて、なんだかとってもエモい朝だった。 本当は今日は早起きして明日の引っ越しに備えて準備をてきぱきとやる予定だった。でも、泣いた余韻のせい
おはようございます、ほっしーです。 (4月下旬のお仕事です) 最近ちょっと日雇いを楽しみすぎとる。 いや全然それでえーねんけど、もうちょい刺激というか、修羅場をくぐらんとあかんのんとちゃうんちゃう? そう、わしはドMやから🤣 とはいえ、身体に致命的なダメージを喰らうと本業や家庭に支障をきたすから、それはアカン。 ならば、これならどーや。 ゴミ屋敷の清掃業務❗ どや、ゾックゾクしてくるやろ❓ いや、募集がポンッと出た時、めっちゃ迷ったよ。 テレビとかで見る分にはえーんやけど
こんにちは! 今回は早速「父と母、姉、そして私ー脱北こぼれ話」の続き(後編)を書いていきます。 母とまともにお別れの挨拶もせず、私は国境地域を目指して出発しました。 その後、私は国境地域にあるソンボン市という街に行き、父の友達に会って事情を説明しました。 彼は長女の(私より一つ年上)セラさん(仮名)と一緒に中国に行き、私がもし日本に行ける時は長女も連れていってほしいといいました。 私は彼と約束しました。 可能な限りセラさんと一緒に日本に行けるように努力する。それが難し
いくつになってもキレイでいたい。 そんな気持ちは、絶やす必要はないのだよ。 家族がいなくなる 私の母と祖母はそれぞれ70歳と93歳。 それぞれ4年前、そして先日、最愛の夫(私からすると父と祖父)を亡くした。 私にはその気持ちは計り知れないけれども、その一部始終は見ていた。それは心から「お疲れ様でした」と言いたくなる体験だった。 最愛の人はいなくなった。 でも、人生は続いていく。 彼女達は今もたくましく、静かに日常を生きている。 父が亡くなってから、母のことは以前より
sponsored by JR東海 この春、10才の娘と初めての2人旅をしてきました。行き先は大阪。 東海道新幹線のぞみで東京駅から新大阪まで2時間半の旅です。 娘は初めての新幹線、そして大阪、ユニバ旅行となり、予約をした3か月前から毎日がワクワクの日々でした。 親の私は何回か新幹線の乗車経験もあり、大阪もユニバも経験済みでしたが娘同様に毎日楽しく準備期間を過ごしている自分に驚きました。 というのも、私は幼少期から旅の記憶が薄く、仲間や家族にエピソードを言われても写
今日は、質問箱にいただいたご質問に回答させていただきたいと思います。 そうですよねわかります〜! 息子たちが小さい時は、どうやって説明しよっかなァと私も思っていました。 夫の方のお父さんはとても素敵なじいじで、定年前はバリバリにお堅い仕事を頑張っていたお義父さん。今も知的好奇心旺盛で、歴史に関する講演会に登壇したりもするかっこ良くて優しいじいじです。 じいじが実はもう一人いるんだけど、借金と酒乱と家庭内暴力で絶縁してるよ〜なんて、どうやって説明しよう…と思っていました。
こんにちは。 今日は私が最も触れることを避けていた“家族の話”に踏み込んでみようと思います。 noteを始めたとき、家族のことだけは書く自信がなかったため、質問が来ないような書き方を心がけていました。 しかし、最近、私の考えは変わりつつあり、自らに課したタブーを破ることにした次第です。 私の家は4人家族でした。 父と母、姉、そして私。 父と母はともに医科大学を通信で卒業し、父は医療機関に勤め、母は家にいました。 姉は私より2歳年上、ハムン芸術学院でクラシックギタ
以前、ワンオペも続いたし、小1の壁も落ち着いたし自分へのご褒美でも…と思ったのに何をご褒美にしたら良いのかわからない記事を書いた。 そしてやっと昨日今日とこの問題がスッキリ解決した気がする。 昨日は家族で近隣の県へ出かけた。 その帰り道に、高速のカーブを抜けるとまん丸でおっきな、醤油に大事に漬けた卵の黄身のような夕日が見えた。 空が広くて、オレンジ色の夕日の色が一面に広がってそれは贅沢な夕日だった。 いつも、窓の向こうに、それもビルとビルの隙間に僅かに見える夕日の余韻
9月7日は父の命日。ちょうど一年が経つ。 その日私は長野にいた。旅行に行っていたのだ。 旅行の少し前に見舞いに行ったけど、コロナ禍で面会制限があり、結局病室には入れなかった。 旅行に行くのは迷ったけれども、前々から決めていたことだし、医者の見立てでは大丈夫だろうということだったので、出かけることにした。 でも結局旅行の間に父は亡くなってしまった。 私はなんで実家に帰らなかったんだ… やっぱり後悔した。 上田駅から実家に帰る新幹線の中で、声を殺して泣いた。多分周
昭和34年。私は20歳を迎えたばかりだった。戦後の復興が進み、街は活気を取り戻しつつあったが、私の心には深い悲しみと不安が渦巻いていた。 あの年、私は一度に二人の兄弟を失った。兄の修一が自ら命を絶ったという知らせが届いたとき、全てが一瞬で凍りついたように感じた。家族の中でいつも明るく振る舞っていた兄が、そんな選択をするなんて、誰も想像していなかった。父は商売に没頭し、母は家庭を支えるために懸命だった。そんな中で、修一は一人で悩みを抱え、どこにも逃げ場がなかったのだろうか。
いい写真とは?の定義を調べたり、聞いたりすると、まず出てくるのは「構図」の話ではないだろうか。 どれだけ高級なカメラでも、被写体が美しくても、構図がバラバラではいい写真とは言えない。みたいな話をよく耳にする。 でも、これって本当にそうなんだろうか? 家族が人生を終えるたびに写真を見返すが、結局のところ大切に持っておきたい写真に共通するのは、構図ではない。 なんだか違う気がする。 家族写真が教えてくれるもの最近は気軽にフォトグラファーの方に写真を撮ってもらえる時代にな
義父が、6月の92歳の誕生日を待たずして亡くなった。 息子と娘の誕生日は、月は違えど、日はおなじで、義父も息子と娘の誕生日とおなじ「日」に亡くなった。 朝6時に夫の携帯に「血圧が下がってきたので・・・」と、病院から一報をいただき、駆け付けたが、微弱に脈を打っているだけで反応はなく、手も既に冷たかった。 入院の予定期間は1カ月ほどで、その後のことは、施設に入るか、家に帰るか決まっていなかったが、期間いっぱいまでもたずに命が尽きたのは、義父の思いやりだろうか。 家に帰って
お試し的にトラつば、と略して呼んでみるのは親愛とか馴れ合い感覚の確認でしょうか。こういうカジュアルな作文をする際はそれほど厳密を求めませんが、何かや誰かを略したりニックネーム呼びしたり、何らかの空気を共有しているクラスタから発生した新語や流行り言葉を「ふむふむ、なるほど」と眺めるのはともかく、気安さの表象として使ったり、ファッション的な自分アピールとして着こなしてみせたりするのは、かなりイヤなほう、だと思う。 第24週は、寅子が「水源のようなもの」「綺麗な水(法の比喩)を守
3児の父の枝瀬です。 自分の長男は 今年15歳、高校受験の年です。 つい先日、学習塾の三者面談にいってきました。 僕も去年まで高校教師をしていて、 その前は塾講師もしていましたから、 親目線と高校教師目線と塾講師目線で 面談に臨みました(ややこしい)。 それでも、やはり 実子の子育ては難しいものですね。 思い通りになんてなるわけない。 気になるあの子の親は???教師時代を振り返ります。 多くの生徒と付き合っていると、 自分の子どもが、 こんな風に育ってくれたらい
どんな時も私は愛されていた。 父や母、妹から。 それを強く感じられたとき安堵感で胸がいっぱいに広がり涙が止まらなかった。 家族に心を閉ざしてちょうど4年が経っていました。 4年前、実家に戻り色々なことがあり、それまで一番大切だと思ってきた人たちが全員「敵」になりました。 私を苦しめる人たち。 こんなに苦しいのは父のせい、母のせい、妹のせい。 なんで私だけがこんな思いをしなければならないの! あななたちのせいで私の心はズタズタになった。 あれもこれも全部あななたち
*小1の終わり頃から不登校気味の 現在小2の次男について振り返っています。 思うに私はまだラッキーだったと思う。 子育てをほぼ終了している人や 不登校児と向き合っている人たちと オンラインで出会っていた。 だから、いろんな話を聞いていく中で不登校や 発達障がいといわれる子どもたちの話に対して、 ある程度の知識と免疫がついていた。 そして、まがりなりに子育てをしていく中で うちの次男くんは一筋縄でいかないニオイが ぷんぷんしていたので(笑) それなりの覚悟はできていた。
2020年9月13日。 父が70歳で突然の余命宣告を受け、数ヶ月で亡くなったその日。 もう4年がたった。 毎年この日は、少し特別な気持ちで迎える。 家族で墓参りに行く 亡くなってからもう何度もお墓参りには行ったけど、久しぶりに家族総出で行った。 母と、弟と、弟の子ども達。 大体、墓参りに行く日は、ものすごく天気がいい。 亡くなった日も、驚くほどに、天気がよかった。 深夜に病院に呼ばれて、結局次の日の昼まで病院で過ごした。 いつ亡くなってもおかしくない状態。 コロナ
小学生を四人連れてゲームセンターに行くこととになった。 今のゲームセンターは、開放的だ。前向きで楽しげなゲーム機がたくさん並び、プリクラ機はきらびやかに装飾され、隣に女優ライトが付いた化粧直し台まである。 私にとってゲーセンと言えば、薄暗く、たばこの煙が充満し、ちょっと怖い人たちが集まる場所。しかし今は、そんな過去とは決別したようだ。 明るいクレーンゲームには、ご丁寧に攻略法やアドバイスまで書いてある。それを見ると、いかに今までの自分のやり方が間違っていたかが分かる。ク
先日、義母の一周忌を終えた。 早いなぁ、もう一年経つのか、、、 今回は義母のこと。感謝と親愛をこめて。 初対面 オットとのお見合いの席で、私は初めて義母に会った。 もう32年も前のことだ。 私はこのお見合いに乗り気ではなかった。 「いい人だから!」という仲人さんの顔を立てるために一応お見合いはするけれど。 私はオットのお見合い写真がどうにも気にいらなかった。 お相手は絶対3高(高学歴、高身長、高収入)が良い!とかいう、自分のことを棚に上げて選り好みしようなどではない。
「そうか、お前がタマゴ鳥なんだろう」 30代の頃、長女と一緒に「タマゴ鳥」を目撃しました。 幼い頃、私の郷土で噂となっていた謎の鳥で、実際に見たのは初めてです。その出会いは、自身の価値観と人生に大きな影響を及ぼした出来事となりました。 以降は、「タマゴ鳥」と出会った話を時系列で説明していきます。 タマゴ鳥はじまり昭和50年代後半、私が小学3年生の頃、郷土で謎の鳥の目撃証言が相次いだ。子供達は、その鳥を「タマゴ鳥」と呼んでいた。 遠足のバスの中、友達が「俺、タマゴ鳥を
私は手紙が好きだ。LINEやメッセンジャーやメールで伝わる言葉ももちろんあるけれど、手紙じゃないと伝わらない気持ちもあるんじゃないか、と何処かで思っている。 なぜ、手紙がそんなに好きかというと、母とのエピソードが大きい。 母は、筆まめな人だった。何かしらあれば、誰かに手紙を書いたり、贈り物をしたり、人への感謝を常に忘れない人だった。今もそう。 記憶に強く残っているのが私が小学4年生の時。沖縄に行って戦争の歴史を学ぶという平和学習ツアーがあった。なんと3泊4日で、参加費は
この七月、子供の誕生日とわたしの誕生日の間のある日、末っ子の弟が天に召された。 お葬式は家族だけ。 わたしは泣かなかった。死ぬことが悲しいことだと思ってないのだ。 弟は弟の人生を十分生きた気がする。 彼とは仲良くなかったけど、幼い頃の面影と理由のない感謝だけが残る。 母は静かな涙の海に浸かっていた。 海といっても、バスタブくらいのサイズ感。 父は涙は流してなかったが、泣いてないのか、それはわからなかった。 なぜか葬儀や弟と関係のない話をよくしていた。 式の前の段取り
皆さん、こんばんは! 今週の火曜日の朝に小さい頃から、物心つくころまでずっと色々なことを教えてくれた、僕の先生みたいな存在だったおばあちゃんの妹=K子ちゃんが97歳で安らかに永眠しました。 そんなこんなでここ数日は、色々なことへのやる気を一気になくしてしまったジセおじGAMIです。 ここ3年あまりで家族と呼べる人を3人亡くしてしまい、父も障害者になってしまい、なんだかんだ激動とも言える月日が流れていきました。 凡そ3年前に99歳で亡くなる直前まで元気だったおばあちゃん、
夫に癌が見つかって、ホスピスに入院することになった。 年の差夫婦なので、夫を看取る覚悟は出来ていた。 そして、入院してすぐに夫に認知症の症状が出た。 毎日見舞いに行っているが、もう私のことを妻だと認識していないようだった。 私たち夫婦には双子の娘がいる。 娘たちは私によく似ていた。 2人とも結婚をしていたが、よく見舞いに来てくれていた。 あるとき、次女が1人で見舞いに行ったら、夫が次女を私と勘違いして抱きしめようとしたそうだ。 夫のなかの時計の針は何十年か戻ったようで、
こんにちは、愛音です 昨日は朝のカフェオレに氷をいれませんでした 温かなカフェオレはじんわりと幸せをくれました 喉を通って、じんわりと体が温かくなり、 ふわ、と、ふわ、とした気分になりました 熱い日になってからカフェオレには氷を入れていました 冷えたカフェオレは背筋がピンとなる 喉を通って、その冷たさに背中を押される、 コレを飲めばきっと今日も上手くいく そんなメッセージが込められているよう 朝ご飯を食べ終えてから始まるカフェオレタイム 私にはとても大切な時間です ホッ
大きなお腹と共に、車に揺られて約2時間。 父が運転する車に乗るのは、随分久しぶりな気がする。 目的地は母方の祖父がお世話になっている介護施設。 その前に一人で近くのマンションに住む祖母を迎えに行きつつ、父・母・祖母・私の4人で祖父のお見舞いに行きました。 マンションで転んでしまい、車椅子に乗る祖父。それでも、頭はハッキリしていて。ハキハキと近況を話しながら、大きなお腹に目をむけて「おめでとう」と言ってくれました。 この人が今年106歳なるというのは本当なのだろうか。
小さい頃から兄は「長男」、わたしは「末っ子」だった。箱入り娘、お姫様、そんなことばで形容される愛情たっぷりの環境でありながら、ずっと「長男」である兄が羨ましかった。長男は、ずっと家にいられるから。 振り返ると、わたしは小さい頃から「それじゃお嫁に行けないよ」とか「いいお嫁さんになるね」と声をかけられて育ってきた。「お嫁に行く」というトロッコに自動的に載せられているのがずっと怖かった。 何歳になったら、ここを追い出されてしまうんだろう。わたしが女の子だから、女の子であるせい
ポケモン映画’ミュウツーの逆襲,でお馴染みのミュウツーボールを開封した際の動画です。 1998年公開のポケモン映画であり、ポケモン映画の記念すべき第1作目である’ミュウツーの逆襲,。 兼ねてより欲しかった食玩フィギュアが仲間入りで大満足でございます○ 是非ご覧下さい♪ ではでは👋
ごあいさつはじめまして! 🐼(女性)と🐶(男性)の20代夫婦です。 私たちは2021年に結婚。事実婚(夫婦別姓)・交際0日婚と、なかなかにおもしろい道を歩んでいる自負があります🌱 普段はひっそりゆるゆると暮らす私たちですが、事実婚・別姓を選んでいる夫婦はなかなか周りにいないため、ちょっと珍しい夫婦のかたちを残しておこうと思い、noteを始めるに至りました。 プロフィール🐼:Webデザイナーとして働きつつ、通信制大学でデザインを勉強中。絶賛卒制に悩んでいるところ。名字で呼ばれ
「きんこさん、どうしてそこまでしてくれるの?」 母は、小学生時代の恩師であるきく先生の最期を看取りました。 でも、その先生は母の担任ではなく、母の妹の担任だったんです。 この50年にわたる不思議な縁を通して、母がどんな人に対しても変わらず心を込めて大切にする姿を見て、私はその一貫した想いに深く感銘を受けています。 50年前、鹿児島県の甑島で母ときく先生が出会いました。 小さな島の村では、地域の人たちや学校の先生たちが集まって宴会を開くのが普通の光景でした。母の曽祖父
#創作大賞2024 #恋愛小説部門 誰にでも忘れてしまいたい記憶や体験がある。 取り除くことができたら、そこから新しい未来に踏み出せる。 「もう、忘れていいよ」その言葉に、心に刺さったトゲ(傷)のようなトラウマから解き放たれる。 生涯をかけてあなたを愛していきますと、誓い合う運命の人との出会い。 そして「もう、忘れていいよ」この言葉に、あなたもきっと救われる。 ここから本文 タイトル「もう、忘れていいよ」 第1章【こうして俺は、忘れさせ屋になった】 残業で終電の一
お父さん、ハンターになるって 家族解散だよ 母からの連絡に頭がクラクラした わたしの父は自分勝手な料理人で 小さい頃の記憶からずっと あまり家に居なかった 仕事仕事と言って わたしの入学式も卒業式も発表会も ほとんど来たことがない 成人式の振袖姿も見てくれなかった わたしが家で体調を崩しても 病院に連れて行ってくれることはなくて 俺は仕事があるからと 救急車を呼ぶような人だった でも別に寂しさを感じたことはなかった気がする 愛情も感じなかったけど 父は数年おきに転職を繰
幼少期、わたしは祖父に甘やかされていました。 あれは俗に言う「猫可愛がり」というやつだったと思います。 祖父は職人気質で頑固な人だったので、周りはよく大目玉を食らっていたし小言も多かった、けれども家族の中でわたしだけが祖父からお叱りを受けることなく「ちゃん」付けで呼ばれていました。 だからわたしは気難しい祖父の、笑った顔しか記憶にありません。 祖父は家族が集まるとよくわたしを呼び、膝に座らせました。 祖父のことは好きだった、けれども、膝に座ると自由を拘束されて退屈だっ
息子に声をかけるとき、あ、これは母の言い方だなと思うことがよくある。 この間、ギャン泣きする息子を抱っこしながら「大丈夫だよ〜、●●は大丈夫なようにできてるからね」と言う言葉が思わず口から出てきた。 これは私の母の言葉だ。 子供のときから、本当によく言われてきた。 あなたは大丈夫だよ。大丈夫なようにできてるんだよ。 子供の頃の私は、「なにそれぇ?」って思っていた。大丈夫なようにできてるって、どういうこと?お母さん、神様じゃないのになんでそんなこと分かるの?? 「大きく
改めまして、はじめまして。 すぎのん家の長女と申します。 ここでは自分(一人称)のことを長女と言わせてください。 長女は1999年に誕生し関西で生まれ育ちました。私の家系は男家系だったそうで親族総出で「女の子が生まれたぞ!」と長女の誕生を喜んだそうです。 そんな訳でみんなに可愛いかわいいと育てられてきましたが、長女は私って 可愛いんだなんて思わず、うるせー奴らだなぐらいに思ってました。 今考えたら少しひねくれているような気もしますね。 幼少期からなぜかトマトが好きで幼少期
本日。 息子は友達とプールへ。 かっちゃんが送迎してくれた。 「車使っていい?」 「イーヨー」 何も考えずに下した決断を 数時間後、死ぬほど悔やむ事になろうとは。 この時のつくねは知る由もなかった。 ふと。 (ハンバーガー食べたい……マーック!) 4時半頃、かっちゃんに電話。 「今は?マックのハンバーガー食べたいんじゃけど!」 「あー……息子を6時位に迎えに行くんよ。で、今は杉本さんとおるから……夜なら買って帰るけど……遅いよね?」 「あー、じゃ、いいわ」 こ