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下町のゲーセンと、煙草の匂いがする団地 | 創作大賞2024

小学生を四人連れてゲームセンターに行くこととになった。

今のゲームセンターは、開放的だ。前向きで楽しげなゲーム機がたくさん並び、プリクラ機はきらびやかに装飾され、隣に女優ライトが付いた化粧直し台まである。

私にとってゲーセンと言えば、薄暗く、たばこの煙が充満し、ちょっと怖い人たちが集まる場所。しかし今は、そんな過去とは決別したようだ。

明るいクレーンゲームには、ご丁寧に攻略法やアドバイスまで書いてある。それを見ると、いかに今までの自分のやり方が間違っていたかが分かる。クレーンは、ただ掴むだけではだめなのだ。押したり、引いたり、弾いたりといろいろな使い方があるらしい。どうりで取れるはずがない。(残念ながら、やり方が分かったとて、取れないことに変わりはないのだが。)

連れてきた子どもたちは到着するや否や、財布を手に握りしめ、クレーンゲームへと向かう。最近導入されたという10円クレーンがお目当てらしい。取れるのは飴玉とか、おやつカルパスとか、そういう些末なものなのだが、気軽にできるからか、小さな子どもたちが殺到している。

私が連れて来たのは少し大きめの小学生たちだったが、彼らは小さな子ども達に交じって、クレーンにいそしんだ。しかし、数回やったところで、さっさと違うエリアに旅立ってしまった。

曰く、10円で取れるものはしょぼいし、毎回取れるわけでもないし、それなら手堅く駄菓子屋で買った方がいい、らしい。若干負け惜しみのように聞こえなくもないが、堅実な小学生よ、と感心しつつ、ふらふらする彼らについていくと、通常の一回100円のクレーンゲームを物色し始めた。

大袋のお菓子や、スーパーには売ってないパーティー仕様のお菓子が彼らにとっては魅力的なのだという。そういって、100円をいろんなクレーンに注ぎ込む。ドンキで行けば買えるのに、と思ったものの、口にはしなかった。若人の夢をつぶしてはいけない。彼らは湯水のごとくお金を使ったが(10円クレーンの10倍の速度だ)、もちろん、景品はひとつも取ることはできなかった。

あまりの取れなさに、「社会の闇だ!」と中学生に差し掛かりつつある彼らは、悔しそうに声高に叫んだ。思春期特有の言葉選びが微笑ましい。そうだそうだ、と仲間内で同調しながら、きっぱりと財布をポケットにしまい込んだ。これ以上使っても景品を獲得できないだろうと判断したようだ。

だが、名残惜しそうに、みんなでクレーンの周りを徘徊している。闇であると理解はしつつも、透明のケースの中に置かれた景品は欲しいのだ。
クレーンが得意な保護者が取ったのであろう大きな景品を抱える男の子に、羨望の眼差しを向けている。そんな彼らが、愛らしい。

私はといえば、遠くのベンチから、その物欲しげな姿をぼんやりと眺めていた。私は彼らがお金を使うことを止めもしなかったし、むしろその姿を見てえらいとさえ思った。彼らは、まだお金が残っているのに、強い自制心で財布のひもを締め、ただ徘徊している。それで満足しようとしているのだ。えらい。えらすぎる。

ゲームセンターでそんなにお金を使って!とか、無駄なことに使わずに役に立つものを買いなさい!とか、そのように指導される親御さんもいるだろう。その気持ちも分かる。でも、私にはそんなことをする資格がない。

なぜなら私は、彼らのような自制心を持ち合わせておらず、お年玉でもらった2万円をその日のうちに一銭も残さずに使い切った、元小学生だからだ。

下町の薄暗いゲームセンター。メダルゲームの前に置いてある、しっとりした肌触りの赤い生地が貼られた、少し高い椅子。うつろな目でジャラジャラと落ちていくメダルを見つめている大人に混ざって、小学の私もその椅子に座っていた。

そして、階段状になった動く板にめがけてタイミングよくメダルを投入し続けていた。その時、私のポケットには、さっきもらったばかりの2万円(厳密に言うと、すでに少し減っていたが)が、メダルに両替された状態で入っていたのだった。

ーーー

子ども時代。正月はいつも、東京の下町にある祖母と祖父の家に行く。母の姉の家族とともに、総勢10人ほどで押し掛けるのだが、祖母と祖父は団地住まいだから、全員揃うと少しばかり窮屈だ。

団地は昭和の雰囲気が残る建物で、私はその水色の重い玄関ドアが好きだった。開くときにギイィと音がするドアの横には、牛乳配達用のポストと、音符のマークがついた壊れたインターホン。中は3DKで、玄関を開けるとすぐにユニットタイプのお風呂とトイレがあって、そこには色あせたリボンシトロンのポスターが貼ってあった。自分の家と比べると狭い、正方形に近い深いお風呂は小さい頃の私には逆に新鮮で、いとこと一緒に入るのが楽しかった。

生活スペースには通年でこたつが置いてあり、そのすぐ前にはテレビがある。祖母専用のくるくる回る籐の椅子に座れば、冷蔵庫、流し、テレビに座ったまま手が届く距離感だ。

団地は、二つの道路に面しており、入り口からそのまま真っ直ぐ反対側の道路に抜ける作りになっている。少し下がった、反対の道路に面した部屋は、生活スペースとは引き戸で隔てることができて、そこではかつて祖母が駄菓子屋をやっていたという。私が生まれた時にはもう廃業していたが、もんじゃ焼きなども出していたと母がよく話していた。

その名残か、たくさんのおもちゃが入れられた段ボール箱がいくつか置いてあって、私達子どもはそれを漁るのが常だった。キン消しをはじめとするオレンジとかピンクとかの色々な形の消しゴムがそこにはあって、だから私は消しゴムには事欠かなかった。

私達は祖母と祖父をばーばとじーじと呼んでいた。じーじはくっきりとした顔立ちで、いつもきれいに坊主頭に刈り揃えた、清潔感のある人だった。しかし入れ歯の調子が悪いのか、いつも何を話しているのか明瞭に聞き取れない。少々コミュニケーションが難しく、だから、なかなか話しかけにくい存在だった。でも、とても優しくて、いつも私たちをにこにこと迎え入れてくれた。

いつだったか彼がビルの清掃の仕事をしている時について行った記憶がある。働き者で、定年後もアルバイトとして働きに行っていたようだった。そうやって稼いだお金を私たちにお小遣いとしてくれていた。

ばーばは少し釣り目で、ふくよかだった。よくしゃべるし、少し気が強く、母に言わせれば、きつい言葉でよく怒る人だったそうだ。でも私たちには甘く、じーじと同じく、いつもお小遣いを渡してくれた。

おせっかいで、面倒見が良くて、近所のおばあちゃんがよく家を訪ねて来た。私たちがいない時は、家に上がって一緒にお茶を飲んでいるようだった。パーマを当てていて、外出するときには色付きの眼鏡、たばこをよく吸っていた。たばこにはプラスチックのフィルターを必ず付けていて、大量にあったフィルターをおもちゃだと思って遊んでいたら怒られたのを覚えている。

そんな二人の家に私たちは大勢で押し掛けるけれども、特に長居するわけでもなく、お年玉を一通りもらったら、みんなで早々に出かける。ばーばとじーじは留守番だ。のんびり歩きながら近所の神社にお参りし、ご飯を食べて、もらったお年玉を各々好きなものに費やしてから団地に帰るのが毎年の流れだった。

その年、私は2万円のお年玉をもらった。小学校3~4年生の頃だったから、結構な大金だ。うきうきした気持ちで、初詣に向かう道すがら、このお金をどうしようか、ずっと考えていた。お参りの後、ご飯を食べ終えて、おしゃべりに花を咲かせている大人たちより先に、同い年のいとこと共にそそくさと店を出た。

子どもは、私と、私の兄と、いとこが三人。同い年のいとこ以外は男だったから、私たちはいつも女二人でつるんでいた。くだらないことを言い合って、笑い合っていた。この日もよく分からないけれど、何かがおかしくて、ずっと二人で笑いながら、ゲームセンターへと向かった。私たちには、行きつけのゲームセンターがあった。

そのゲームセンターには、ばーばがよく連れて来てくれた。当時は、小さなお菓子、カラフルなセロファンでくるまれたラムネとか、キャンディとか、そういうものをざっくりとすくうクレーンゲームがあって、私はそれがお気に入りだった。

現代の明るいゲームセンターでは、一回のクレーン動作では一個取れるか取れないか(あくまで私のレベルでの話だけれど)。でも、私のお気に入りのクレーンは、ひとすくいでラムネが何個も取れたのだ。しかも一回二十円くらいで。今のように、絶妙なバネの調整とか、そういうものはなかったのかもしれない。ラムネだって、密封されていないし、いつからそこに置いてあるのか分からない。でも、沢山とれるその様子が楽しくて、毎回そこに一番に向かうのだった。

ばーばは私たちを連れてくる時、いつも端っこのベンチで私たちが遊んでいる様子を眺めながら待っていた。お金をすべて使い切ってそこに戻ると、「はいよ」と言いながらまた500円玉を渡してくれた。私たちはそんな調子でたくさんのラムネを獲得し、よく団地に持って帰った。母たちも、それに驚いてくれるから、うれしかった。

ラムネはその時に一度に食べるのではなく、帰りの車の中とか、次の日のおやつとか、少しずつ食べる。大人になった今でも、私はラムネが大好きだが、それはきっと、当時の思い出が影響しているのだと思う。

さて、この日はいとこと二人きり。ばーばをはじめとする大人はいない。大金を持っている時のあの開放感が、大人に見られていない、ということでさらに増す。私たちの笑いは止まらない。

二人はまず、両替機に向かった。一万円札を入れたら、今まで見たことがないくらいの、たくさんのお札と小銭が出てきた。細かくなったお金を大切に財布にしまい、いつもの調子でお気に入りのクレーンの前に立ち、二人でラムネを順番に取った。たまに他の子どもがきたら順番を譲りながらも、繰り返し、お金を入れて、クレーンを動かした。しばらくしたら、ラムネは肩にかけていた小さなポシェットには入りきらないくらいの量になった。

店でもらったビニール袋にラムネ詰め込んで、いとこと共に、どうしようか、と周りを見回した。もう、ラムネはいらない。二人とも同じタイミングでそう思った。いつも以上に大漁だ。しばらくラムネは買わなくていいくらい。でもまだお金はある。これで帰るのは、なんだか惜しい。

すると、ふと、ぬいぐるみがたくさん並んだクレーンが目に付いた。ぬいぐるみはいつだって、私たちの心をくすぐる。

私たち二人はラムネの入ったビニール袋を握りしめながら、ふらふらと、ゲームセンターの奥の方へと向かった。今思えばそこが、運命の分かれ道だったのかもしれない。

……気づいた頃には、私は一文無しになっていた。代わりに、ゲームセンターでしか使えないメダルをたくさん持っていた。クレーンではもちろん何も取れず、早々に諦めた私たちはメダルゲームに興じることにしたのだ。

保守的で計画的ないとこは、少しずつ換金し、ある程度の金額を残しながらゲームをしていた。それとは対照的に、私は次々にお年玉をメダルへと換金した。つまり、両替機と、メダルゲームの椅子を行ったり来たりしていた。

私たちの横には、少しアンニュイな雰囲気の年老いた大人がいて、正月の昼間からメダルゲームを楽しんでいた。いや、楽しそうではなかった。けれど、ずっと手を止めずに、ただひたすらにメダルを入り口から投入し、動く階段状の板に飛ばし続けていた。

私も彼らと同じように、メダルを飛ばした。たまに一つのメダルが階段に山積みになったメダルにうまく引っかかり、そこから沢山のメダルが取り出し口にジャラジャラと落ちてくる。それがなんだか楽しくて、ずっとメダルを投げ続けた。

2万円が大量のメダルになって、私は大金持ちになった気持ちでいたが、結局最後には、そのメダル全てをゲーム機に投入してしまった。いとこは若干引いた目で私を見ていたが、私は気にしなかった。お金は使うためにあるのだから。宵越しの金は持たない。いや、持てない。未だに私は、そういう人なのだ。

二人でとぼとぼと団地に帰った。夕方近くになって、笑うようなネタがなくなってしまったのと、お金もなくなってしまったし、疲れていたので、私たちはあまりしゃべらなかった。

団地に着くといの一番に、いとこは私が2万円をゲーセンですったことを大人たちに告げ口した(私はそのことを今でも根に持っている)。それを聞いて、「ええ、バカだねえ!」とばーばは言って、あっはっはと笑った。でも、それだけで、別に怒られなかった。私は少し拍子抜けして、でも照れ隠しで、一緒に笑った。

私はばーばと、母と、母の姉(つまり伯母)が言う「バカ」が好きだった。下町の勢いある口調で放たれる、「バカ」。そこには愛がある。私はその時も、その言葉の裏にある愛を感じたし、実際に私は、大人たちに説教めいた何かを言われなくたって、この2万円事件から学んだ。それ以来、私はゲーセンに行くことをやめた。

ーーー

じーじが亡くなったのは私が中学生の頃だった。私たち親族は、もちろん悲しかったけれど、死に対してとてもおおらかなところがあった。それはしっかりと良く生きたからこそであるけれど、葬式もからりとしていて、思い出話に大笑いしたり、坊さんの読むお経が下手くそだった、と、こそこそとなじったり、はたから見たら、大層ばちあたりなものだった。

でもそれが、私たちなりの弔いの仕方なのだと、子どもながらに思った。そして、そういう姿勢が、心地よかった。私たちが話に花を咲かせていた数時間、その間にじーじは、灰になった。

私は高校生になって、大学生になって、大人になって、段々とばーばの家に行く機会も少なくなった。結婚した後は、正月にさえも行かなくなってしまった。でも、子どもができて、仕事を辞めて、そこからはまた、少しずつ行くようになった。

いとこも少し遅れて子どもができて、私達でタイミングを合わせて、母と伯母と、女たちで集まるようになった。赤ちゃんを見て、ばーばはうれしそうだったし、私もそれを見て、とてもうれしかったから、できるだけ、顔を見せようと思ったのだ。

数年そんな風に過ごしていたところで、ばーばが体調を崩し、母たちが病院に連れていくことになった。体調不良の原因は、健診は受けていたけれど、運悪く見過ごされているうちに大きくなった、肺がんだった。ばーばはでも、たばこをやめなかった。

私たちはそれから、できるだけタイミングを合わせて、下町の団地に通うようになった。電車に揺られて、最寄り駅に着いたらいつも、もうなくなってしまったあのゲームセンターがあった場所を横目に、歩いた。あの頃を思い出しながら、でもあの頃にはいなかった、もう一人の小さな人をベビーカーに乗せて。

私は、足早にばーばの家に向かう。団地のあのドアを開けると、母は大体すでに着いていてこたつに入りながら、こちらを振り向く。ばーばもくるくる回るあの椅子から体を乗り出して、ひょこっと顔を出す。そして、「お帰り」、と迎えてくれるのだった。

ばーばの家に行くたびに、渡される小遣いが増えていった。大人になってからもよく小遣いをもらっていたが、病気が分かってからのばーばがくれる額は、右肩上がりだった。

彼女は、自分があとどれくらい生きるかを悟っていた。自分が蓄えた金を、孫に沢山渡しておこうと思ったのだろう。「取っておいてもしょうがないからね。なんかに使いなさい。」といつも言っていた。

ある日、団地に行ったら、顔を見るなり、はいこれ、と3万円を私に手渡した。この間2万もらったばかりだったが、ありがとう、と素直に受け取った。

こたつに入ってひとしきりおしゃべりしたら、私は息子が乗ったベビーカーを押して、母はばーばが乗った車いすを押して、近くの公園まで散歩した。

私も子どもの頃に遊んだ場所で息子が遊ぶ様子を、ばーばはしばらく眺めていた。日差しが暖かい日で、私たち以外誰もいない公園は、とても穏やかだった。ずっとこの時間が続けばいいのに、と思った。

その夕方の自宅への帰り道、錦糸町の丸井に立ち寄って、今日もらったお金でヴィヴィアンのベレー帽を買った。昔から私は何一つとして変わっていないな、とレジの前で自らに軽く呆れつつも、その直後に、でも、もう私は大人で、母と離れ離れに住んでいて、ばーばは病気になって、だから、あの時とは違うんだ、と気づいてしまった。

そうしたら、涙が溢れそうになったので、慌てて下を向いた。ベビーカーに乗っていた息子が、私の顔を心配そうに覗き込んだ。

何週間か経って、母からメールが来た。ばーばの容態が悪く、痛み止めでなんとかしのいでいるという。見舞いに行く、と返信したが、もう後は私達に任せてほしい、とすぐに返事が来た。母と伯母は二人でずっと団地に泊まりこんで面倒を見ていた。少しでも何かできることをしたいと思ったが、丁重に断られてしまった。

「残念だけど、もう、あなたの知っているばーばじゃないのよ。」

痛み止めの薬で朦朧としていて、恐らく私のことを認識できないという。前の姿のままで、ばーばを覚えておいてほしいから、と母は言った。私はそれから、ばーばに会うことはできなかった。

もちろん悲しかったけれど、ばーばが望むことは何か、と母と伯母は考え、そう決めたのだろう。
そのしばらくあと、ばーばは亡くなった。最後は母と伯母に看取られて、痛みを伴う闘病の末に、この世を去った。

葬儀は団地のばーばの家で行われて、私達がよく出前のラーメンをすすっていた部屋にお坊さんが来て、お経を読んだ。小さかった息子は、その異様な雰囲気におびえ、ずっと泣いていた。もしかしたら、何か見えるのかもしれませんね、とお坊さんは言ったが、もしばーばが見えているのだとしたら、私も一緒に見たかった。

葬儀が終わり、色々な片付けなどを母と伯母で済ませた後、あの団地の部屋は引き払うことになった。色々なことが済むタイミングで、私も母と一緒に団地に行った。これが、ばーばの家に行った最後だった。いつもの部屋よりもだいぶこざっぱりして、ばーばが育てていた花たちも今はなかった。

心の中で部屋に別れを告げて、外に出た。いつも通らない道を通った帰り道。ぽつんとブランコだけがある公園に通りかかった。私はここに来たのは初めてだったが、母は、よく小さい頃に遊びに来たのだ、と話した。

「なくなっちゃったな、実家。」
と、母が呟いたとき、私は母が小さな子どものように見えた。そのように見えたのは、最初で最後、この時きりだった。

ーーー

「おーい」と声がして、ふと顔を上げると、小学生4人が私の方を向いて手を振っている。彼らはひとしきりゲームセンター内での徘徊を終え、最後にエアホッケーをすることになったようだ。

3人が財布からお金を取り出そうとしていたが、1人はもじもじしている。どうやら彼はお金を使い果たしてしまったらしい。私は彼に歩み寄り、自分の財布から100円を取り出して、はい、と渡した。

人からお金をもらってはいけないと、きっと家でしつけられているのであろう彼は、一度遠慮をしつつも、それでも私がいいからやりなさい、とお金を差し出すと、ありがとう、とうれしそうに受け取った。

4人対戦でエアホッケーをしている彼らを、私はまた遠くのベンチに座りながら見つめていた。友達と一緒に楽しそうに遊ぶ息子は、来年中学生になる。ばーばもこういう気持ちだったのかもしれないな、とその時ふと考えた。

ばーばの家のにおいと、たばこのにおい。鼻の奥に、ふんわりと流れてくる懐かしいにおいを、忘れないように、心に焼き付けるのだった。

#創作大賞2024 #エッセイ部門

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