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【後編】父と母、姉、そして私ー脱北こぼれ話 #66

こんにちは!

今回は早速「父と母、姉、そして私ー脱北こぼれ話」の続き(後編)を書いていきます。


母とまともにお別れの挨拶もせず、私は国境地域を目指して出発しました。

その後、私は国境地域にあるソンボン市という街に行き、父の友達に会って事情を説明しました。
彼は長女の(私より一つ年上)セラさん(仮名)と一緒に中国に行き、私がもし日本に行ける時は長女も連れていってほしいといいました。

私は彼と約束しました。
可能な限りセラさんと一緒に日本に行けるように努力する。それが難しければ、後から彼女が日本もしくは韓国に行けるように努力すると。

彼は脱北にはタイミングがあるからすぐに開始しようと言いました。

そういった経緯で私はセラさんと案内役の少年2人と中国に行くことになり、例の中国のブローカーと連絡を取って、落ち合う日時とおおよその地点を約束しました。

以前、脱北した際の出来事(今回の内容を除く)について書いていますので、興味のある方はご覧ください。

ここで少し、中国のブローカーについて説明します。

脱北して中国に行った人にとってブローカーは”神”同然です。彼らに自分の命を任せています。
当然、ブローカーもその事実を誰よりよく知っており、奴隷のように人間以下の扱いをすることが一般的です。

物のように売られていく多くの脱北女性より遥かに恵まれていましたが、もちろん私も例外ではありませんでした。
持っていたお金はすべて取られ、思い出したくもない扱いを受けました。

脱北後、中国側でブローカーと行き違いになり、山の中を1〜2時間ほど彷徨いました。その後、山中で高齢の男性が1人で住む家にたどり着きます。
その男性から電話を借りてブローカーと連絡を取り、やっと落ち合うことができました。車でブローカー(夫婦)の家に向かう途中、公安の車2台と10人を超える集団が私たちを待ち伏せていました。

ブローカーが後から話したことによると、電話を貸してくれたおじいちゃんが通報した(中国では脱北者を通報するとお金をもらえます)ということでした。しかし、後からパズルを組み直してみると、これは明らかにブローカーの仕業だったと思います。

私の親戚が日本にいることを知っている(母と電話したことがあった)ので、そっちからもお金を取る算段で、知り合いの公安と共謀したのでしょう。

その時の驚きと恐怖感は相当なもので、体の震えが止まりませんでした。

公安に捕まる=北朝鮮に戻る
を意味するからです。

しかし、公安の様子がどこかおかしいのです。

捕まった時は北朝鮮から来た私たち4人(案内人2人と私とセラさん)とブローカー夫婦、計6人が手錠をかけられ連行されました。
しかし、公安に着いてからブローカー夫婦は違う場所に連れて行かれ、残りの4人は勾留所ではなく職員の休憩室に案内され、手錠は片腕とベットの柵に移されました。そこには私たち以外だれもいませんでした。

公安の制服を着た若い男性が2〜3人ほど交代しながら近くにいましたが、終始笑顔で冗談を飛ばしていたのです。
例えば、住んでいた場所や名前などを紙に書かせては「俺より字が上手」などと朝鮮語で褒めるといった感じでした。

次の日、ブローカーがやってきて「賄賂を払えばここから出ることができる」と言い、日本にいる親戚に電話するように強要しました。

他に選択肢がない私は日本に連絡(親戚の電話番号は覚えていました)し、30万円の振り込みが済むと、私たちはあっさりと解放されることになりました。

ブローカーの悪行はこれでは終わりません。

日本政府からの連絡を待っている間、ブローカーの家に泊まっていたのですが、彼らはある日、市場に私とセラさんを連れていき、洋服を買ってくれました。

私たちはとても喜びましたが、続いて連れていかれたところはホテルでした。私たちは別々の部屋に入るように言われました。しばらくすると私がいる部屋に、太ったおじさんが入って来たのです。

それからしばらく、そのおじさんと私は格闘することになります。

私は全ての力を振り絞って彼と戦いました。
単に疲れたのか、気分が萎えたのかわかりませんが、最終的に彼は「もういい」とベッドに行って寝てしまいました。私もホテルから逃げることはできず、ソファで一晩を過ごしました。

次の日、私とセラさんはブローカーの車で家に戻りました。彼女は何も言いませんでしたが、悲しそうな表情がすべてを物語っていたように思います。

残酷なのは、ブローカーには何も訴えることができないということです。どれほど酷い扱いを受けたとしても、彼らが私たちを見捨てれば、その後に待っているのはさらに悲惨な結末だけなのですから。

15日ほど経った頃、日本領事館から電話がありました。
その時、「日本からの帰国者と子孫ではない人は保護できません」と言われました。セラさんは一緒に行けないということが確定した瞬間でした。

「私が日本にたどり着いたら、何より先にセラさんを助けるようにするから少しだけ辛抱して」と私はセラさんに言いました。
それ以外の言葉は見つかりませんでした。

私が日本の領事と会う場所に行く前にブローカーが言いました。
「私たちがここまであなた達を保護してあげたから、今度はあなたが恩を返す番だ。日本に行ったら私の息子(当時10代後半)が日本に行けるように身元保証人になってほしい」と。
その話を聞いて、これだけ酷い仕打ちをしておきながら出てくる都合の良い話に呆れましたが、生きるために「わかった」と約束をしました。

現実は厳しいものです…

私は保護されてから1年に渡り、中国の日本領事館で拘束されることになりました。その間、私は何度も領事に彼女の生死を知りたい、一度だけでいいから電話をさせてほしいと懇願しましたが、その訴えが通ることはなかったのです。

来日してすぐにブローカーに彼女のことを聞きました。
ブローカーいわく、セラさんは私の連絡を待ちきれず北朝鮮に戻ったそうです。彼女にどんな運命が待ち受けていたかは何となく想像がつきました。

続いてブローカーが話したのは、私を捕まるために北朝鮮の人間が数人が自宅にやって来たということです。
当時は相当な数におよぶ脱北者がいたはずなので、私のような庶民にそういった対応がなされるなど、想像もつかないことでした。

その後、私は彼らブローカーとの連絡を断ちました。

韓国の脱北者を通じて、家族にも連絡を取ってみることにしました。その結果、私の家族は全員が政治犯収容所送りにされたことがわかりました。

毎回違う人に頼んで、何度も何度も、何度も何度も家族を探しましたが、返ってくる答えは同じでした。

しばらくして、私より後に脱北した人から聞いた話では、北朝鮮に戻ったセラさんが保衛部に捕まったことで、私の家族が脱北しようとしていたことが明らかになったそうです。

その話を聞いた当時、私は彼女を憎まずにいられませんでした。
しかし、ずいぶんと時間が経った後、”彼女が取り得る道は他になかったのだ”と思い至ることになりました。

私の家族が収容された場所は、悪名高い耀徳強制収容所だそうです。

脱北後、しばらくは家族について必死で調べていましたが、私の行動が家族をさらなる危険に晒す可能性があると言われ、何もできなくなってしまいました。

現実を受け止めきれず、”いっそのこと死んでしまおうか”と思ったことも一度や二度ではありません。

私がどん底にいたとき、「私がきょんちゃんの母親だったら、きょんちゃんだけでも幸せになってほしいと思うよ」という声をかけてくださった方がいて、今でもその言葉に支えられています。

いつか家族と会える日が来た時、”恥ずかしくない私でいよう”と思うようになりました。

存命であれば、今年で父と母は75歳になります。
北朝鮮は平均寿命が短い上、食料不足が長年続いています。特にここ数年は飢え死にする人が多いと言われており、政治犯収容所の生活は想像を絶するものであるはずです。

辛いことですが、両親は亡くなっているでしょう。

日本で私の身元引き受け人になってくれた親戚が、教えてくれました。

母が北朝鮮の国境地域まで来たとき、「どうか娘のことをよろしくお願いします」と電話で話していたと。それを聞いた親戚は「責任を持って娘さんを守ります」と約束したそうです…

たぶん、母は私が脱北したらその後どうなるのか、すべて理解していたのだと思います。もう二度と会えないことも。その上で何も言わずに送り出してくれました。

どうしてもっとしっかりと別れの言葉を交わさなかったのか、家族みんなで脱北するべきだったのではないか…
その話を聞いた私は、溢れてくる涙を止めることができませんでした。

姉は何とか生き延びていてほしい…と願っています。

(この記事を読むことはないのでしょうが)
金正恩よ、あなたたちは間違いなく地獄に堕ちる。
私の脱北に反対していた姉には罪はないはず。
あれから16年も経つのに、まだ気が済まないのですか。
1日も早く姉を解放しなさい。

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