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【前編】父と母、姉、そして私ー脱北こぼれ話 #65

こんにちは。

今日は私が最も触れることを避けていた“家族の話”に踏み込んでみようと思います。

noteを始めたとき、家族のことだけは書く自信がなかったため、質問が来ないような書き方を心がけていました。

しかし、最近、私の考えは変わりつつあり、自らに課したタブーを破ることにした次第です。

私の家は4人家族でした。

父と母、姉、そして私。

父と母はともに医科大学を通信で卒業し、父は医療機関に勤め、母は家にいました。

日本と違い北朝鮮では医科大にも通信制度(6年課程)があります。
修了の難易度は高いものの、卒業までの試験に合格したら正式な医師として認められます。

姉は私より2歳年上、ハムン芸術学院でクラシックギターを学んでいました。
容姿がとても美しく、社交的な性格だったのでたくさんの友達に囲まれていました。リーダーシップもあり、大変な人気者だったのです。
私が住んでいた地域では、姉を知らない者は“スパイに違いない”と言われるほどでした。

小さい頃から姉と容姿を比べられることが多かった私には、悲しい思い出がたくさんあります😅

今でも、ヤマハのクラシックギターで「禁じられた遊び」を弾く姉の姿は私の脳裏にしっかりと焼きついています。


私が大学を中退した後に脱北の決意を家族に告げたとき、姉は強く反対しました。

「外国に行けたとしても、そこで良い暮らしができる保証はない。中国で捕まるかもしれないし、やめてほしい」と。

しかし、私はもうこの国やこの国で暮らす人生に未練はなく、途中で死んでも行くと心に決めていました。

私は、
①両親の故郷である日本に行く
②韓国に行く
③中国に残る(私の中で北朝鮮<中国だった)
という優先順位で考えていました。

そして、最悪のケース
仮に捕まっても、命ある限り何度でも脱北に挑戦しようと決めていました。

当時、地域でも数は少ないけれど脱北者の家族も住んでいましたが、彼らは厳しい監視下に置かれていました。ただ、田舎に追放されたり、政治犯収容所送りにされたりすることはなかったのです。

私が脱北に成功したら安全なルートを探して、可能な限り早く家族を連れてくることを考えていました。

お母さんは私の背中を押してくれました。

私が住んでいた地域、ハムンは工業都市です。
国境に行こうとしても車で10時間近くかかる上、情報統制が厳しいため国境周辺の状況もわかりません。

北朝鮮で私の脱北ルート(Google Earth):
ハムン(咸興)市からラソン(羅先)特別市を経由し、フェリョン(会寧)市で脱北成功!

もし家族全員で移動している間に捕まったら、その時点でアウト。状況的に言い逃れが通用するとは思えません。そういった事情もあって、まずは私1人で動き、情報収集を試みることにしました。

私は”日本からの仕送りを受け取るため”と偽り、数ヶ月の間を置きつつ2回ほど国境地域に出向きました。もちろん本当の目的は脱北のルートを探すためです。

以前、どこかの記事で書いたような気がするのですが、北朝鮮は国内移動でも「通行旅行証」(略して“通行証”、まんまですが😆)というものが必要です。平壌と国境地域は通行証の発行がなかなか認めてもらえません。
北朝鮮は賄賂があれば何でもできる国ではあるものの、難易度やリスクと賄賂の額は連動するため、この件は自然と高額になります。また、国境へ出向く妥当な理由を説明できなければ、(脱北を手助けする恐れがあるため)関わろうとしません。

都合の良いことに私は平壌の大学に通っていたため、平壌への通行証の発行を知り合いにしょっちゅう依頼していました。その人を通じて国境の通行証も作ることができたのです。

2回目に国境地域へ出向いた際、家に引き返す途中の検問所で(北朝鮮の秘密警察である)保衛部に捕まり、尋問を受けました。商売人なら持っているはずの荷物がないため、怪しまれてしまったのです。

尋問の時、私は可能な限り正直に応えることを心がけました。もちろん脱北ルートを探していたことだけは伏せて。
国境に行ったのは、中国経由で日本の親戚からの仕送りを受け取るためであり、かつ病に苦しむ父親に効く良い薬を探すためだが、どちらも空振りに終わってしまったと伝えました。
保衛部は私の陳述書を確認し、辻褄が合うと判断したのか酷い拷問には至らず、一晩で解放されました。

家に帰った後、私が脱北ルートを模索している間、母も同時に国境地域へ出向いていたことがわかります。母は事情を話そうとしませんでしたが、来日してその理由を知ることになりました。

ここで少し父の話をさせてください。
前回の記事で父の病気について触れたものの、今まで詳しく書くことは避けてきましたので。

父は8人兄弟の末子として生まれました。
帰国事業の折、兄弟の上の3人は結婚をしたり、仕事に就いたりしていたので、おじいちゃんとおばあちゃんはまだ学生だった下の5人を連れ、1960年頃に北朝鮮へ渡りました。当時、父はまだ小学生だったそうです。

北朝鮮の配給制度では、育ち盛りの息子たちをお腹いっぱい食べさせるのは難しかったようです。いつもご飯にたくさんの水を入れて量を増やしていたため、幼い頃の父にとってご飯は”飲みもの”だったと話してくれたことがあります。
少年時代を「いつもお腹を空かせていた」と振り返っていました。父は少しでも柔らかいご飯には手をつけようとしませんでした。辛い思い出が蘇ってしまうからでしょう。

日本に残った兄弟から仕送りが来るようになったのは1980年頃のことです。私はその後に生まれたので、同じような苦労はせずに済みました。

父は社交的な性格だったので友人に恵まれ、医科大卒業後の職場である感染症専門の医療機関に勤める同僚からも信頼が厚かったです。
海で溺れている人を助けるほど水泳が得意で、亡くなった祖母を偲んで歌を作り、美術にも精通しているなど、万能だった印象があります。

ここまで書いてきた要素が影響したのかわかりませんが、北朝鮮のヒエラルキーにおける最下層ー敵対階級に属する帰国者でありながら、朝鮮労働党の党員でした。
おかげで私たち姉妹は、幼い頃から大きな差別を受けずに成長することができました。

北朝鮮では“自分と家族以外はスパイである”と覚悟しないと生きていけません。
「昼の話は鳥が聞き、夜の話はネズミが聞く」という諺ができるほど、日々の言動に慎重になる必要があるのです。
信頼していた人から国に対する批判的な言動を密告された結果、「言葉反動」という罪で数えきれない人が政治犯収容所送りにされました。

今になって振り返ってみると、父も母も仲の良い人に金一家や国の批判を多く話していました。両親の人徳か、単に運が良かったのかわかりませんが、私の一家が政治犯収容所に送られることはありませんでした。

家にはいつも、父が仲良くしていた同僚や大学の同級生、父を慕う後輩などが多く出入りしていました。

父の話が長くなりましたが、話を戻します。

脱北に絶対に必要なのは中国にいるブローカーです。信頼できるブローカーがいないケースでは、中国の公安に捕まる可能性が圧倒的に高まります。女性の場合、田舎に売られるのが関の山でしょう。

父を慕っていた後輩が、国の許可を得て中国や日本と貿易に従事していたため、そこで知り合った中国朝鮮族の商売人を紹介してくれました。母は商売のために国境地域に出向くことがあり、電話でやりとりする中で、中国に来たときに手助けをしてもらう約束を取り付けました。

また、父の同級生の1人が国境地域に住んでいました。商売のために何度もハムンを訪れ、私の家にもよく遊びに来ていたのです。
その人も「この国には未来がない。脱北したい」と言っていたものの、中国のブローカーとその先のルートが確保できずに困っているとのことでした。

その話を母から聞いた私は、とりあえず彼のところへ行ってみることにしました。
脱北ルートを探し始めて3回目の旅です。

出発は早朝だったのですが、母が見送りに出てきてくれました。何度も脱北に失敗しているので「行ってきます」と簡単な挨拶だけして別れました。

父と姉はおそらく寝ていたのでしょう。

これが私が目にした母の最後の姿でした…
(後編に続きます)


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