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虎に翼 第120回 綺麗な水と愛の概念

お試し的にトラつば、と略して呼んでみるのは親愛とか馴れ合い感覚の確認でしょうか。こういうカジュアルな作文をする際はそれほど厳密を求めませんが、何かや誰かを略したりニックネーム呼びしたり、何らかの空気を共有しているクラスタから発生した新語や流行り言葉を「ふむふむ、なるほど」と眺めるのはともかく、気安さの表象として使ったり、ファッション的な自分アピールとして着こなしてみせたりするのは、かなりイヤなほう、だと思う。

第24週は、寅子が「水源のようなもの」「綺麗な水(法の比喩)を守ること」と司法の役割を評した頃から時代が移って、その司法権そのものがあらためて荒波に揉まれていく。そういう流れを物語っていた。

第1話の冒頭で、自分を裁判官として雇ってほしいと風呂敷の書類を抱えて人事課へ押しかけてきた寅子を採用担当の(どうやら顔見知りであるらしい)桂場が迎える、というか追い返そうとしたよね、あのとき。

そういうふうに「ドラマで重要な役どころ」と顔見せした桂場等一郎が、最高裁長官の地位まで出世して、かつての穂高イズムの申し子として、ようやく辣腕を振るえるようになりました。が、出世するほど孤独になる、というのも普遍的な物語だなあ。

多岐川が「頼んだぞ」と、少年法改正の動きへの意見書(反対意見)を桂場に託していく場面。じつは、もしやと思っていたのが、台本では意見書の文面を多岐川が読み上げることになっているのではないかな、と。かつて竹もとで星長官が民法についての思いを綴った自著の序文を読み上げたときのようにね。名場面だったもの。

完パケではそこまで時間を割く余裕がないだろうしなあ。
(さきほどリリースされたシナリオでは、少年法とは年齢を下げたり刑事裁判のように罰をつけておしまいにするのではなく、一人一人に寄り添って更生させるためのものであるべき、という完パケ版ではわかりやすく短くされた意見文が、丁寧な箇条書きで、多岐川自身が最初は元の部下たちに支えられながら立ち上がって口述し、それを寅子たちが手帳に書き留めるということになっていました。ライアンが長官室に届けた意見書を桂場が手に取って開く、そのあいだもずっと多岐川の声で読み上げが続く)

残り10話というタイミングだからというだけではなく、ドラマというフィクションを観る側はどう楽しむのがいいのか。このところ、観ながら半分くらいは「どう観るべきか」「どう聞くべきか」「どう書き留めるべきか」という、自分のインプット姿勢を悩むほうにエネルギーを割いてきたような気がする。そもそもドラマとか映画って、どうしても受け身になって楽しむ媒体パッケージになりがちだからね。

みっちりと書かれた台本がベースになっている際はなおさら。これがリアルの、実際に自分が知ってる人たちの日常やら人生として、断片的に見聞きするものであったなら、そこから「物語」のかたちに解釈またはアレンジするのも自分自身なのよね。

ドラマの場合、どういうせりふを、どういう息づかいで聞かせてくるか、その説得力の加減のほうに意識が行きがちです。だからこそ面白い。フィクションだからこそ、わくわくする。教科書を読むのと違って、自由な発想で鑑賞することが許される。というか、そもそも教科書や参考書でさえ、もっと自由に読んでもいいはずなんだけどね。

だから、私にとって『虎に翼』は、今だからこそ&今しかできない、物語としての語り口を楽しむドラマでもあるんです。放送が終わってしまって、いろんな補足情報的な記事などがあふれてきたり、評論や「みんなの印象」のとりまとめが行われることで消費されてしまう、その前段のリアルタイムであれこれ勝手に読み解くことが許されている。

ああ、うまくいえぬ。(が、現時点ではこんなものかのう。)
今週、香子さんが崔香淑としての自分を取りもどそう、と決心するのは佳かった。日曜日、多岐川の家へ家裁創設メンバーたちがやってきて、小橋と稲垣と顔を合わせるまでの、心の揺れのようなものまでも、ほんのり表現されているのも素敵でした。香淑の兄・潤哲を呼びよせての和解。ずっと多岐川が圭さんと香子の保護者というか、兄のような役割を果たしてきて、だからその不在期間のほつれをつなぐ意味合い。

香子がこしらえたであろう料理を韓国風に食べる場面も、多岐川が亡くなるまぎわの、穏やかで幸せな家族の風景として見事でした。潤哲と香淑が特高に連れていかれる場面でも、料理に目が行ったことを思い出しました。今回と同じ丈が低い卓で、カメラ位置も座っている家族のせいぜい肩の高さなので、猪爪家での料理(カメラ位置が高い)に比べると、真横から映っているので皿の中身が見えにくかった。それも同じ。


愛、という日本語は明治の頃に英語のラブに対応することばとして一般に使われるようになったという認識です。が、愛とは依存である。支配でもある。愛は「人間関係における圧力」となってもいる。

だからこそ、誰に対しても寄り添う。傷ついたものを見捨てることなく更生させる。そういう理念を伝えるために多岐川が「愛」と繰り返す。つきつめれば、人権や命そのものを尊重する、その尊重という概念が法であり、法が機能しているからこその「愛」なのかと。

愛とか憎しみとかいう感情や抽象的な何かよりも、法を上に掲げる。そのうえで、法律のみならず、人を(個人を)応援していく。

社会そのものは決して「理想郷」にならないからこそ、理想を体現させていくための「律」としての何かを共有していく。この「何か」が、法律という共通便宜であるのも、一つの可能性かもしれない。まあ、フィクションってのは、そういう「可能性」のタネを蒔いてくれるもの、なのでしょうかね。

脈絡なく書いてしまいました。
あとで読み返して「あまりに酷い」と思ったら引っ込めるかも。

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