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母の生き方

「きんこさん、どうしてそこまでしてくれるの?」

母は、小学生時代の恩師であるきく先生の最期を看取りました。

でも、その先生は母の担任ではなく、母の妹の担任だったんです。

この50年にわたる不思議な縁を通して、母がどんな人に対しても変わらず心を込めて大切にする姿を見て、私はその一貫した想いに深く感銘を受けています。


50年前、鹿児島県の甑島で母ときく先生が出会いました。

小さな島の村では、地域の人たちや学校の先生たちが集まって宴会を開くのが普通の光景でした。母の曽祖父は村長、祖母は民生委員として地域に貢献していたので、母も自然と「人のために」という精神を受け継いでいたのでしょう。

母ときく先生の友情は、母の妹がきく先生のクラスにいたことから始まりました。それから50年以上も続く深い絆が生まれたのです。

きく先生は情熱的な教育者で、小学校の先生から校長先生に、さらに幼稚園の園長や教育委員会でも活躍されました。「男女平等」を大切にし、クラスの並びを名前順にしたり、かけっこも性別で分けないなど、革新的な教育方法を取り入れていました。

彼女のその姿勢は、時に反対も受けましたが、きく先生はいつも自分の信じる道を進んでいました。

また、きく先生は海外旅行が大好きで、「海外へ行きなさい」と母を応援してくれたのも彼女でした。

「ヨーロッパの芸術に触れてきなさい」という言葉も、母の視野を広げる大きなきっかけになったそうです。
晩年には一人での旅行が難しくなり、イタリアやポルトガル、インドなど、母が付き添い一緒に海外へ行きました。

きく先生には頑固なところもあり、空港で長距離を歩けなくなったとき、空港の車椅子に乗るのを拒んで喧嘩になったこともあったとか。

旅先では、母はきく先生のリクエストに応えてマッサージをしたり、食べたいものを用意したりと、細やかな心遣いでお世話をしていました。


でも、やがて体力が衰えて旅行も難しくなると、きく先生の好きな「ルマンド」や「城山ホテルのキャラメルパン」、「明石家のかるかん」を届けることで、その心を慰めていました。特にルマンドは、病院で食欲がないときでも、きく先生を笑顔にしてくれる特別なお菓子だったんです。

母が長年築いてきた人間関係は、きく先生の入院や施設への入所にも大いに役立ちました。「きく先生を〇〇病院に入院させなさい。手続きは済ませているから」と、周りの人々の協力を得て、常に最善の選択ができたのです。

きく先生は家族とあまり連絡をとっていませんでしたが、母はそのことも理解し、きちんとご家族に状況を報告していました。

そのため、ご家族とも円滑に関係を築くことができ、「本当に、きんこさんにお世話になっています」と感謝されることが多かったです。


コロナ禍で直接会えない時期もありましたが、母はきく先生のために必要なものを届け続けました。そして昨年、きく先生は肺炎をこじらせて最期の時を迎えました。その時も、母はすぐにご家族と連絡を取り、お葬式の手続きをスムーズに進めました。


今年の初盆、「かえってきたよ。」と、ひょっこり現れそうな気がして、母はきく先生の好きだったイタリアワインやルマンド、パンとかるかんを用意してお盆を過ごしました。


「きんこさんは、どうしてそこまでするの?」と周りから聞かれることもありますが、母にとっては「どうしてそこまでしないの?」という感覚なのでしょう。


母はやるならとことん。それが母の信念です。
母の姿を見ていると、私はいつも思います。
人と人とのつながりは何よりも大切で、それを育むのは一人一人の心の温かさだと。

母のその姿勢はきく先生に対してだけではなく、母が関わる全ての人に対して一貫しています。

それが母の生き方であり、私が誇りに思う母の姿です。

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