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住まいと社会。~Mr. SDGsが語る「完璧な持続可能社会」とは!?

私の異名は「Mr. SDGs」、完璧なる持続可能な社会を身を持って知っている男です。

私の生まれは駿河の国は東海道五十三次の藤枝宿のど真ん中。

家業は「製造販売業」、江戸時代は和菓子屋、その後に自宅敷地内に工房を持つ家具屋(藤枝宿はかつて「家具の町」でした)でした。

家は「町屋」。
まず「店」があり、座敷があり、中庭があり、蔵かあり、風呂は家具の製材の「木っ端」を焚いて沸かしてました。

雨漏りもよくしましたが、漏れた水滴がバケツに落ちる音を聴くのが好きでした。

家族は曽祖母まで一緒の大所帯。

私は曽祖母の住む離れに行って、一緒に火鉢に当たりながら曽祖母と話をするのが好きでした。

周りも皆んな商家であり、本当に調味料の貸し借りがあり、家に帰ると開けっぱなしの縁側に山芋や筍が置いてあるような「コミュニティ」がありました。

水は井戸水、夏は座敷で川の字になって蚊帳を吊って眠り、冬は火鉢と練炭掘り炬燵で暖を取る。

正月は杵とうすで餅をつき、五月には鯉のぼりを揚げる。

朝はまず私が鍋を持って豆腐屋に行き、豆腐の水槽から出来立ての豆腐を買って帰る。

そして私がまとめてなまり節を削って作った鰹節で出汁を取り、そこに出来たての豆腐を入れる。

日によっては「アサリ売りの行商」からアサリを買って具にする。

私の大好物は納豆であり、藁納豆に自家栽培の青葱と卵を入れて食す。

駿河名物、お茶や蜜柑は「勝手に届く」。
つまり「物々交換」的に、親戚や近所を生産物が循環していたのでした。

魚屋や肉屋には買い物籠を持って出かけ、紙に包んだ魚や肉を買って帰る。

その紙は裏庭で焚き火で燃やし、灰は土に返す。

残飯は雀やヒヨドリにあげるので、基本、ゴミは全く出ない。

TVも車も一家に一台。

確か、古いカローラが一台ありました。

遊び場は山や河原や路地。

凧揚げや釣りや川にダイブやチャリで爆走していました。

そして、何の疑いも無く、この毎年毎年変わらない世界はずっと続いて行くと思っていたのでした(このずっと変わらない社会をクロード・レヴィ=ストロース先生は「冷たい社会」と名づけました)

そして1980年代がやって来ると、何か直感的に嫌な空気と共に町屋が並ぶ商店街は壊され、無駄に広い道路と新建材を貼り付けたハリボテの様な家が立ち並ぶ光景に一夜にして変わりました。

小川は暗渠になり、沼は埋め立てられ、野良犬や野良猫の姿が町から消えました。

ちなみに、畑に必ずあった完璧な自然エネルギー循環装置である肥溜めも消えました。

そして「一度消えたものは二度と戻らない」のです。

その後、
1990年にタイに行ったら、そこには「昭和40年代の日本」が残っていました。

バラック、狭い路地、荒々しい市場、ボロボロの車にトゥクトゥク、、、。

さらに地方に行けば、まるで「戦後の闇市」でした。

そこには私が幼少期に体験した「活き活きとした人間の営み」がありました。

そして2019年再訪した時には、それらは殆ど絶滅寸前、ピカピカのビルが立ち並び、まるで「1980年代の日本」に様変わりしていました。

高度消費社会の欲動は、一度火がついたら全てを焼き尽くすまで止まらないのです。

その欲動は「人の心のあり様」に密接に入り込んできます。

例えば最近の一つの流行りのパターンならば、
白か黒のTシャツに紺ジャケットにジーンズ、時計だけやたらと高いやつ、EV車に乗ってりゃオレ意識高い、群れるの大好き、名刺交換大好き、
その後にSNSで繋がるの大好き、
「気づき」「繋がり」「奇跡」の毎日、
せっせと飲食店での記念写真をSNSにアップして「交流」「交流」、
集合写真では一番前の男が寝転んで肘枕する、
「経歴」に大学名が載ってない、
インタビューですぐに「ろくろを回す」、
そのインタビューって名も知らぬネット記事、
「一部上場」こそが宇宙最高の価値があると思っている、
それって結局学歴コンプレックスのロンダリング、
ビジネス書しか読まないから文化芸術人文の教養は無い、、、

と、何やら簡単に類型化できる「記号」にハマる様子がいろんな場所で見受けられます。

逆に言えば、
それら「記号」が簡単で類型的で無くてはならないのは、
「周りから見られて」初めて成立するものだからでしょう。

その彼らの欲動とはすなわち「階級上位への屈折した憧れ」であり、
それが「階級上位の記号」で周りを固めるフェティシズムとして現れてきます。

この様な「階級上位志向イナゴ群」がちょっとずつ姿形を変えながら繰り返し発生しています。

そのルーツは恐らく「江戸幕府瓦解」の薩長と新橋の逸話くらいには遡れるのではないでしょうか(※下記拙文参照)。

ただ、己の中の空虚(劣等コンプレックス)を「記号」や「フェティッシュ」で埋め立てようとする限り、それは何億、何十億積んでも死ぬまで満たされないでしょう、何故ならそれらには実体が無いからです。

実体が無いものを追い求めていたら、どれだけ貨幣をかき集めても渇きは癒えないでしょう。
そして、その過剰な消費欲動は、過剰な環境負荷を伴う生産活動を必要とするでしょう。

つまるところ「人の心の空虚(劣等コンプレックス)」が高度消費社会の欲動をドライブさせているのではないでしょうか。

「貧しい者は金持ちになりたがり、金持ちは王になりたがり、王は全てを支配し尽くすまで決して満たされる事はない」(”Bad Land”, Bruce Springsteen.)

そんな巨大な消費の大軍勢を前に私の力は全く及びません。

私は「地に足を付けて、身の丈に合った暮らしの方が、短い人生愉快ですよ」と小さく呟くだけです。

私はたまたま「真の持続する社会」で育っているので、その「身の丈スケールの生活」の無限の豊かさを知っています。

そして「二万円経済圏」という理論を編み出し、この世界にユートピアを現出させてそこで暮らしています(※下記拙文参照)

「二万円経済圏」は現実問題としての環境負荷が殆ど無い事に加え、
ボロボロのワゴンRに乗ってご機嫌な青空と海を見ながらご機嫌なダチとご機嫌な音楽で踊る生活の圧倒的な豊かさに満ちています。

そこには「成長」も「発展」も特に必要を感じません。

毎年同じことを繰り返し、「進歩や発展」と無縁な恒常的社会をクロード・レヴィ=ストロース先生は「冷たい社会」と呼びました。

つまるところ、
私が毎日愉快に暮らす事が、最短最速で身近な地球に優しい事ではないかと思ってます。

ピース。

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