【エッセイ】幸せの風景
約30年生きてきた。
肉体的に成長し、やがて普通の男として普通の人生を送った。
多くの国を旅し、多くの人に出会い、笑い、孤独を感じ、達成し、悩んだ。
30年間の私の幸せの定義は「目標の達成」だった。
何かを達成する度に私は幸福感に包まれた。
偏差値の向上、受験の成功、恋人、家庭、社会的ステータスの獲得といったことの達成。
幸せという感情を科学的に説明した本を読んだことがある。
幸福感というものは脳科学的に言えばある脳内物質の放出にすぎない。
脳の幸福感を司る部分から「幸せ」物質が放出され「ヒト」は快感を得る。
見方を変えてしまえば、砂糖のようなものである。甘いものを食べた時に感じるあの多幸感。
私にとっての30年間はそんな「幸せ」物質を探し求める旅だった。
終わりのない欲望の旅。
三十を過ぎ、とあることから私の幸せの脳内物質は放出されなくなった。
生きるすべがなくなってしまった私は幸せを再定義することで自分を治している。
今、私は自分の「幸せの定義」を簡潔に言語化することができない。
ただ、イメージなら描くことができる。
それは旅先で見た湖だ。
わずかな水のせせらぎと木々のこすれる音、小鳥のさえずり。
緑色、水色、赤色、茶色、白色で構成される森と水面と空。
そこには喧騒もなければ何か大きな出来事もない。
ただ、そこには「生きている」という感覚と「静かな心」があった。
それが今の私の幸せのイメージ。
どんな社会に生まれようと、どんな出来事が私に起ころうと、せめてこの幸せの風景くらいは自分で守って生きていきたい。