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【7000字無料】 日本には◯◯がない!?——『日本宗教のクセ』を読む(1)

*新刊紹介を起点としたダイアログのシリーズです。


*本の紹介をしたり、感想を話したりしながら、より広く、哲学思想の考え方や面白さにも触れることができるような記事を目指しています。

(今回紹介する本の書誌情報)
内田樹・釈徹宗『日本宗教のクセ』ミシマ社、2023年


話している人

八角 
 株式会社「遊学」の代表。
 京都大学大学院 修士課程修了(文学)。
 哲学をやっている。

しぶたにゆうほ 
 株式会社「遊学」の一員。
 京都大学大学院 修士課程修了(文学)。
 専門を尋ねられると、大学では「数学基礎論」、大学院では「宗教言語論」と答えていた。

はじめに:日本から宗教を考える

八角 この本、本屋にめちゃくちゃ置いてあるよね。手に取りやすい表紙だし、多分みんなこれで、「日本の宗教ってこういうものだ!」って説明できると思って買うと思う。

しぶ 確かに、そうかもね。

八角 ただ、読んでみるとそこまで「日本の宗教のクセ」の話一辺倒ではないところは注意が必要。

しぶ ちょこちょこ日本と外国の比較は書いてあるけどね。

八角 それでも、「このクセは、日本の宗教に独特です」って書き方ではない。

しぶ なるほど確かに。一見「日本の宗教ってこうですよね」という書き方だけど、「他の国の宗教とこのように実証的に違う」っていうような主張を期待して読むのではなくて、「宗教一般について考える時にこういう論点がありますね」って話として読んだ方が面白いかもね。日本から宗教を考える本。

八角 「先に理論があって、それから演繹的に各論が導かれる」という考え方ではない。つまり、共通の基盤となる理論があるのではなくて、越境的に行われているね。基本路線としては、著者の1人である内田樹さんが、「日本習合論」というものをそもそも提唱していて……。

しぶ この本とは別に、すでに『日本習合論』という本があるんですね。

八角 もう1人の釈さんは、宗教学を専門にされている僧侶の方です。だから、そういう発想で読んだ方がいいって感じかな。内田樹さん独自の「日本習合論」と、学問的にも宗教のことに詳しい仏教の専門家。この二人のオンラインで行われた5回のトークライブをもとに文章化した本です。

しぶ このお二人は、よく対談しているイメージがある。

八角 二人とも文章もたくさん書いていて、つまり、「人が聞いて分かる言葉を話す人たちによる」対談なんですね。

しぶ そんな、「人が聞いて分からない」対談があるかのような……(笑)。それはさておき、日本に住んでいる人が宗教について考えるときに、「日本から考える」というのは1つのやり方として有効だよね。

八角 確かにそうだね。

しぶ この本でも書かれているけど、たとえば「信仰」って概念のイメージがすでに西洋の影響を受けていたり、というようなこともあるから、最初から抽象的にやりすぎると「なんか思ってたのと違う」ってなってしまうかもしれないし。

八角 釈さん曰く、日本の宗教は「内面じゃなくて行為優先」で、「このような形態は、キリスト教のプロテスタンティズムのような内面重視傾向が強い宗教と比較すれば、とても茫洋とした宗教性だと言えます」と(42頁)。そして、「いつの間にか現代人は、宗教というのは『信じているか信じていないか』の二者択一が明確なモノだと捉えがち」なのだと(42〜43頁)。

しぶ これは実際そうだと思うんだよね。つまり、「信仰告白」のように「あなたは何を信じているんですか?」って問われて「これを信じてます」と答えるような、そういう明確なものとして「信仰」を捉える見方が先に与えられてしまうと、日本の宗教はうまく捉えられない。だから、そういうのは一旦保留して、自分たちに身近な日本の宗教行為を見て、そこから「クセ」を抽象化するような発想のほうがわかりやすいと思う人は多いんじゃないかな。

八角 まあ確かに、宗教学とか宗教哲学っていうのはどうしても、西洋的な発想でやっているからね。

しぶ そういうわけで、日本に住んでいる人が宗教について考えるときに「日本の実際の宗教からボトムアップで考える」というやり方は1つあるだろうし、この本はそういう読み方ができる本だよね、ということでした。

日本には「体系」がない?

①キリスト教には体系がある

八角 この本を読んでびっくりしたことがあるので、まずそれを話したいんですけど。

しぶ どうぞ。

八角 私は仏教とか神道について専門的には勉強していないけど、ただ、恐らく一応そういう感じのところで育ってきたのね。ふんわり田舎だから。氏子とか、そういう感じの。

しぶ このエリアはこの神社の守備範囲です、みたいな世界観の……。

八角 みんなそうなんだけど、神社を修繕するからって、えらい金とられたり。それに今も京都に住んでるから、寺も神社もめっちゃいっぱいあるわけだけど、そういうところって……特に仏教とかだとさ、それっぽいこと書いてあるじゃん。

しぶ 門の前の掲示板とかね。

八角 でも、「よくわかんないな」って思う。仏教の経典とかから持ってきて言っているのはまだわかるんだけど、日本のポップミュージックとかから持ってきたりとか、海外の作家から持ってきたりとか、海外の偉い人の発言を持ってきたりとか。これは仏教とどういう関係にあるんだろうって思ってたのね。

しぶ そういうやり方が「日本に特有」と感じていたんですか?

八角 例えば、キリスト教だと分かりやすいんだよ。聖書から持ってきたりとか、カトリックなら聖人の話から持ってきたりとか、明らかに関係がはっきりしてる。自分の宗教以外からはあんまり持って来ないし、持ってくる場合にもちゃんと解釈を入れて持ってくる。

しぶ キリスト教だと、礼拝やミサで時事的な話をしたり、卑近な例を持ってくるようなことがありますね。

八角 そうそう。だから仏教とかに対して不思議だと思ってた。仏教と神道とを一緒にくっつけちゃうのは問題かもしれないけど、少なくとも、「どういうロジックで何を主張しているのか」がよく分かんなかったんだけど、この本を読んでびっくりしたのは……いや、びっくりしたんですけど!……「神仏習合にはかちっとしたロジックがないんです」(28頁)とのことだそうで。体系的な理論がない、つまりキリスト教でいうところの「教義学」みたいなものがない。私、今日はこの話だけしようと思ってた。

しぶ 文中では「キリスト教は整合的な教理の体系がありますけれど」(28頁)と書かれていますね。

八角 キリスト教の場合は「教義学(ドクマティーク)」 という〈内部の理屈の体系〉をまとめたものがあって、それに対して「弁証学(アポロゲティーク)」 という〈外からの批判に対してこう言い返す〉というものがあって、この「教義学」「弁証学」が2つ対になっている。つまり、キリスト教には「内部の統制」と「外部の交渉」が対になるようなロジックがあるけど、日本の宗教にはそういうものがないんだ! と。

しぶ なるほど。「日本宗教には体系がない」ということにびっくりしたと。

②日本の宗教と「論理」

八角 そう、日本には体系がない。内田さんの言い方を引用すると……。

本を書くうちに、「習合」というのが理論的にはまことに脆いものなんだということがよくわかりました。経験と感受性と生活習慣と、それだけなんですよね。体系性がない、原理論がない。だから、原理的な宗教政策とか、体系的な理論が出てきて、「あんたのやってることは間違っているよ」と言われると反論できない

(29-30頁)

しぶ 引用にある「本を書くうちに」っていうのは『日本習合論』のことですね。そもそも日本では、神と仏は一体となっているほうが普通で、分けることのほうが人工的だった。だから普通に考えれば、「神仏分離してくださいね」「はいわかりました」なんてことになるはずがない。だけどなぜ大きな反対もなく本当に「分離」させられてしまったのか。その問題意識から書かれたのが『日本習合論』という本。

八角 要は、理論がなかったから、明治政府による「神仏分離」にも対抗できなかったっていう話ですね。

しぶ 最近、知って改めて驚いたんだけど、明治政府が出した「神仏判然令」って、直接的には神社エリアにあるお寺を廃寺にする言いつけでしかなかったのに、そこから人々が暴走して「寺全部壊すぞ」ってなったらしいんだよね(佐藤弘夫・平山洋(編)『概説 日本思想史[増補版]』ミネルヴァ書房、2020、224〜225頁)。それは極端な例だとしても、そのぐらい雑な感じで進行してしまう程度には、依って立つところがなかったのかも。

八角 理論的に対抗できなかったので、「神仏分離」にも対抗できなかったし、本居宣長にも対抗できないし、種々様々なところで抵抗できなかった。なるほどって思ったし、びっくりしました。

しぶ 共通の原理があった上での「その原理に基づいたらこっちが正しいはずだ」っていう議論が成立しないんだな。「こっちは原理がない、向こうは原理がある」だと、そりゃあ、原理がある方が形式的に勝っちゃう。

八角 そのときに例えば、「無」とか「空」とか言うわけじゃん。そりゃ論理がなかったら「無」とか「空」になるだろうって思っちゃうよね。「論理がある」から「ある」って言うのであって、「その論理がない」ってなればそりゃあ「ない」でしょって思うから。

③仏教は体系化できるのか?

八角 キリスト教とかの側から、学問的・論理的に仏教について考えるときに行き詰まるのはそこなんだなって思いましたね。だからほら、最近、仏教的セオロジーってあるでしょう。

しぶ セオロジーってなんですか。

八角 神学。

しぶ それはそうだろうけど、「仏教的神学」っていうのがあるんですか。

八角 えーと、セオロジー(Theology)というと暗々裡にはキリスト教のセオロジーってことになるわけじゃないですか。この言い方だとなんだかキリスト教が傲慢な感じがしますけど、「じゃ、他の宗教にセオロジーがあるのか」っていう問題は確かにある。もちろん一神教系の、つまりキリスト教と連続的に語れるような宗教では可能だろうとしても……最近、仏教のセオロジーを言う人がいて、論文にもあるんですよ。

しぶ そうなんだ。

八角 「なるほど、でも、仏教系のセオロジーって論理的にあり得るのか?」って思ってたんですけど。

しぶ 日本側の文脈でいうと、「近代仏教」と言われる流れと関係するかもね。よくある言い方として、「明治以降の仏教は、西洋的な『宗教』という枠組みを受け入れて生き残らないとならなかった」という言い方があるんですよ。つまり、古くはもっと生活と混ざり合っていたような仏教文化が、西洋的な、パリッとした「仏教の体系」を作る必要に迫られた。

八角 なるほど。

しぶ だから日本の明治以降の仏教思想は、西洋的な図式で理解できるような形に独自変化を遂げた、という説明がよくなされる。わかりやすく極端な例で言えば、「仏教は(これこれのように体系的に解釈できるので)キリスト教より合理的だ」と主張した井上円了の例とか。

そこまで極端な例でなくても、近代仏教というのは多かれ少なかれ仏教を体系化していて、最近、世界的にも注目を集めているらしい。もちろんそれも、西洋の宗教観のアナロジーで理解しやすいからでしょうね。

八角 仏教を体系化するというのは、「習合」の話を見る限り簡単ではなさそうというか、その問題をどう解決してるのかなと思いますね。

* 近代仏教については以下を参照。

 碧海寿広「世界宗教と日本文化:近代仏教という辺境」『現代思想 2023年1月号』青土社、2023年、78-85頁
 末木文美士『日本の近代仏教』講談社学術文庫、2022年


④信じるために理解する

しぶ 体系の話をするときに、釈さんが「メーカー」「ユーザー」という表現を使っているのが面白かったな。宗教を体系化したいと考えるのは「メーカー側」の発想で、逆に「ユーザー側」は色々なものが混ざり合った状態になる、と(99-100頁)。ここを読んだときに思ったんだけど、あるタイプのキリスト教の思想って、〈ユーザーの方にもメーカー側の理屈を持ち込みたい〉 って欲求が非常に強いと思う。

八角 そうだね。

しぶ 人によって、宗派によって、程度差はあると思うけど、キリスト教は「ある程度は自分の中でロジックを持っておきたい」って発想があるよね。

八角 それについては言いたいことがあって、少し長くなるんですけど、「なぜ神学を勉強する必要があるのか」という話。私はもともと、キリスト教を知れば西洋のこと分かるだろうから、キリスト教勉強してたのね。だってみんなキリスト教的の発想だから、キリスト教を勉強しちゃえばみんなの発想がわかると思ってやってた。私としては、ヨーロッパ・アメリカの理屈がわかればいいから、そのために神学もやってたんで、どうでもいいんですけど、そうじゃない場合は、つまり普通にキリスト教徒が神学を勉強する場合には、理屈が必要だなって思った。神学に対するそもそも論として、「なんで神学を勉強する必要があるのか」っていうものがあるけど。

しぶ 神学を勉強していると、キリスト教の外部の人よりも、むしろ内部の人からそう質問されるんだよね。

八角 どういうことかっていうと、要は「宗教なんだから、自分さえ信じていけばいいじゃないか。神学なんて勉強しなくても、論理的なことが分からなくても、『祈る』とか『信じる』とかだけでいいんじゃないか」っていう理屈があるんだよ。

しぶ ぼくも学生時代に、あるクリスチャンの先生に神学の話をしたら、「まあ神学っていうのはちょっと特殊なものだからね」みたいな、距離をとった反応をされたことがあって……つまり、どこまで一般化していいのかはわからないけど、「信仰の内部論理を考えることは、日常の中で信じることとはちがう次元にある」というか。そういう見方もあるんだなと思って、印象に残ってる。

八角 それでも神学が必要、つまり「ロジックが必要」なのはどういう理屈なのか、っていう問題ですね。1つある回答としては、自分が合ってるとか、間違ってるとか、っていう判別ができない、とか。他にもいっぱい回答の理屈があると思うけど。

しぶ ぼくの考えでは、自分が救われるため、つまり「これで大丈夫だ」って思うために、そもそも理屈で説明するってことを経ないと「大丈夫」だと思えないというケース、あるいはそういうタイプの人というのもいて、その部分をキリスト教は結構グラデーショナルにケアしてくれるってことだと思うんだよね。
 「グラデーショナル」ってところも大事で、「このぐらいの論理でいいんだったらこのぐらいでいいですよ、最終的には信じることが大事ですから。でも、神学みたいにかっちりやらないと気が済まないっていう人もいるでしょうし、それは信仰と不可分に結び付いているので、そういう場合にはちゃんと神学というものが提供されます」という。

八角 中世に「信じるために理解する」とか「理解するために信じる」とかって話があるじゃないですか。これは「神を信じる」「神を理解する」だけど。論理的に神のことをちゃんと知りたいとか。
 あと、マートン・テーゼのときに話したことだけれど、神が自分を理解するとか、世の中を良くするとか、そういう理性的なところを与えたっていう発想も歴史的にある。「神のことを理性によって分かる」っていう発想があるんだよね。それが、キリスト教に独特なところじゃないかなって思います。

しぶ それと比べたときの「体系性のなさ」が、この本で「日本宗教のクセ」と言われているものの1つなのかもしれないね。

日本には「中心」がない?

①「体系性のなさ」と「中空構造」

しぶ 「体系性のなさ」が、この本で「日本宗教のクセ」と言われているものの1つかも、という話だったんですけど、『日本宗教のクセ』の対談では、この「体系性のなさ」という論点が「中空構造」という論点につながるんですね。ここも面白かった。釈さんの発言を引用します。

これは門脇佳吉氏や河合隼雄氏が言っていた「中空構造」の問題ですね。真ん中を開けて、みんな丸テーブルに座っている。そのため異質のものが、横並びで座ることができます。と同時に、真ん中が空いているだけに不安定と言いますか、ドーンと力の強いもが設置された時に大変脆いという危険性を、常にはらんでいる。ものすごく排他的になったり、国民総動員みたいなことになってしまう

(30頁)

しぶ この間、『AI親友論』に関して、「われわれ」について話したときに、これに関連することを言っていたと思うんですけど、要約して話してもらえますか。

八角 私の考えでは、日本で「われわれ」と言われても、外延が分からないし、具体的に何を指してるかが全く分からない。例えば、海外だったら、共同体を担保するようなものが存在している。例えば、フランスだったらカトリックの教会があって、ドイツだってプロテスタントの教会があって国家と結びついてるし、イギリスだったら国教会もあった上で王に忠誠を誓っているし。アメリカはと言えば、色々な民族がいるけど、枠組みが国民という風になっているし、そもそもアメリカは分派になってるから中間団体を共有することが可能。そういう状況と比べて、日本は所属先が会社と学校くらいしかない。学校は卒業するから消えちゃうしね。

しぶ かつては会社が中間集団を担っていた時代もあっただろうけど、現代はそうではないというのもよく言われることですね。この本でも、「地縁血縁以外の共同体が痩せている日本」という小見出しの節がある(132頁~)。

八角 共同体を担保するようなものがない。まさに「中空構造」。

しぶ 共通して参照する参照先が欠けている。ここで「体系性のなさ」の話が「中空構造」につながる。

②巨人・大鵬・卵焼き

八角 でもね、あの『AI親友論』のダイアログの収録後、阪神が優勝したでしょう(2023年11月)。

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