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〈野生の言葉たち〉がnoteの海の中を鳥のように泳ぐ、あるいは、褒め殺し合いについて

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No1:マーケット/ストアの中の本(ブック)という形をした言葉たち

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マーケット/ストアに並べられている無数の商品としての言葉たち。植物の繊維を濾過したパルプで作られた紙に印刷された香り立つインクの文字で構成された、大きさと重量という物理的存在を備えた、現実の中の手で触れることができる本の中の言葉たち。古きよき本屋さんの本棚に陳列する紙の本の中の言葉たち。あるいは、デジタル・ガジェットのディスプレイの表面で生成消滅する無限の色彩の光と影のシグナルの形をした、現実の中の手で触れることのできない仮想現実に浮遊する言葉たち。本(ブック)、あるいは、テキスト(文章、記事)の中の言葉たち。

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紙の本もデジタル・ブック(電子書籍)もデジタル/アナログ・テキスト(文章、記事)も含めて、それらには全部、値段がついている。それらは商品として金銭と交換され、交換可能な存在として、そのマーケット/ストアに並べられている。客はマーケット/ストアに来店して、その値札に応じた金銭を支払い、客はその本(ブック)の形をした言葉を手に入れる。アナログであろうが、デジタルであろうが。金銭と交換可能な本(ブック)という名前で呼ばれる言葉たち。

マーケット/ストアが無数の商品としての言葉たちに埋め尽くされる。

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No2:栽培され、飼育された、組み立てられた、人工的な言葉たち

マーケット/ストアには、作者によって作成された商品としての言葉たちが並ぶ。その水平線の彼方まで続く光景を別の言い方で描写するならば、それらの言葉たちは作者によって栽培、育成された農作物、あるいは、飼育された家畜としての言葉たち、さらには、工場で組み立てられた機械としての言葉たちが、本(ブック)という形をして客に買われることを待っている風景となる。それは農耕/畜産/工業的に生産された言葉が整然と陳列するスーパー・マーケットの風景。農耕/畜産/工業的存在としての本(ブック)。

マーケット/ストアに並ぶ言葉たちは、農作物であり、家畜であり、機械なのだ。それらの言葉たちは、金銭と交換することを目的として巧妙に管理され人工的に作成された人工的存在なのだ。

例外的事柄として、極、僅かに狩猟された言葉たちが存在している。それらは人工的な存在ではないが、狩猟者によって選別分類されることで人工的な存在となってしまう。ジビエとしての言葉たち。

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No3:マーケット/ストアの限界、高度資本主義システムの中の言葉たちの限界

このことは、その言葉たちの内容と形式を超えてその言葉たちの存在の在り様を決定してしまう。仮に、その言葉たちの内容と形式がマーケット/ストアの規定に反するものであれば、その言葉たちは決してそこに並べられることはない。その言葉たちの内容と形式がどれほど素晴らしく重要で大切なものであったとしても、門前払いにされてしまう。露骨に言ってしまえば、〈売れない言葉たち〉にマーケット/ストアの中に、その居場所はない。今更、言うまでもなく、商品が並ぶ場所としてのマーケット/ストアには、論理的帰結として商品としての価値がないもの、あるいは、商品として成立しないものは存在することができない。文化、芸術のためにという御題目はマーケット/ストア・システムの強化のためのスパイスにしか過ぎない。マーケット/ストア・システムとはそうしたものなのだ。その言葉たちの内実に関係なく。

マーケット/ストア・システムの論理的限界。高度資本主義システムの中の言葉たちの必然的な限界。商品としての言葉の限界。競合的多様性という顔をした資本主義マーケット/ストア・システムの持つ、商品としての言葉の構築と解体の閉鎖性。資本主義システムの内部で行われる構築と解体が作り出す外側の無い、無限的な広さを持つ自閉的世界。金銭という欲望のツールと交換不能なものを排除する欲望のための欲望による欲望のシステム、マーケット/ストア・システム。

信じられないことだが、少し前までマーケット/ストアの内部にしか、本(ブック)は存在しなかった。わたしたちは言葉をマーケット/ストアの内部にしか、見つけ出すことはできなかった。わたしたちはマーケット/ストアの中の言葉しか共有することはできなかった。わたしたちの言葉は欲望のシステムの中でしか広がり流れることはなかった。現実として、幾つかの例外を除いて。

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No4:マーケット/ストアの外側に存在する言葉たち、あるいは、SNS(Social networking service)の中の言葉たち

では、マーケット/ストアの外側に言葉たちは存在していないのか?

そんなことはない。言葉たちはわたしの周りに、そして、わたしたちの周りに、いつも存在していた。だが、それらの言葉たちが本(ブック)になることはなかった。僅かな例外を除いて。それらの言葉たちが本(ブック)になることが可能となるのは、インターネット・テクノロジーが全世界を覆い、SNS(Social networking service)が洪水のように人々を飲み込んだ後の世界である。

マーケット/ストアの外側の言葉たち。商品として存在しない言葉たち。商品として存在することができない言葉たち。SNS(social networking service)の中の無数の囀り。幾つかの例外を除いて、それらは見栄えも中身も味わいも、全ての点において、マーケット/ストアに並ぶ商品の言葉に劣っているのかもしれない。それらは扱いにくく役に立たず面倒なだけかもしれない。それらの言葉たちはそれを発する人々の感情を慰める玩具でしかなく、使い捨てられ、廃棄され、商品としての言葉たちに成り得ない成り得なかった言葉であり、その残骸であり、見捨てられた言葉たちなのかもしれない。それらの言葉たちは瓦礫の欠片のようなものでしかないのかもしれない。

瓦礫の欠片のような言葉たちで埋め尽くされるSNS(Social networking service)

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No5:瓦礫の荒野の秘密の場所に誕生する〈野生の言葉たち〉、あるいは、マーケット/ストアの埒外の異形の未来の言葉たち

だが、しかし、その黒と白と灰色のモノトーンの言葉の瓦礫の欠片が、地平線の彼方まで、隙間なく詰め込まれ重ね合わされた荒野の秘密の場所に、僅かだが〈野生の言葉たち〉が強靭に自生している。〈野生の言葉たち〉が、巨大な幹を持ち長大な枝葉を広げる樹木が立ち並び、其処かしこに、花が咲き乱れ蝶が舞い蜜蜂が飛び交い小鳥が飛翔する森を作るように、あるいは、四足獣が群れをなして疾走する風に波打つ草原を成すように、さらには、水の流れの中で魚たちが身を跳ねらせる海洋を生むように、その特別な場所で生きている。

〈野生の言葉たち〉

未熟で未完成で定まった形を持たず絶えず変形する、規律を知らない無作法で我が儘で粗野で不細工で醜い言葉たち。俊敏ですばしっこく繊細で鈍重で軽快で曖昧で鮮明で硬く脆く柔らかくしなやかな不定形の流動する言葉たち。合理と矛盾が、意味と無意味が捩れるようにして成す論理と混沌を孕んだ言葉たち。飼い馴らすことの出来ない獰猛で臆病で警戒心の強い壊れ物のような言葉たち。誰にも何にも服従することのない支配することのできない言葉たち。

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〈野生の言葉たち〉とは、その誕生の起源を、マーケット/ストアに並ぶ商品として人工的に作成された人工的存在である言葉たちと、根源的に異なったものとする特異的な突然変異的な異形の存在。マーケット/ストアの埒外の言葉。マーケット/ストアの外部で生まれた、マーケット/ストアが追放したものたちの言葉。

その言葉は如何なる意味でも、農作物であり家畜であり機械である人工的存在である、マーケット/ストアに並ぶ本(ブック)の言葉たちの子孫ではない。その派生でも模倣でもない。金銭と交換することが不可能な、あるいは、困難な〈野生の言葉たち〉。栽培されていない、飼育されていない、加工されることなく、組み立てられることのない〈野生の言葉たち〉。

〈野生の言葉たち〉は、如何なる既存の言葉たちも持ち得ることができなかった可能性であり、未来の言葉であり、未知の意味と論理を秘めた種子(Seed)である。〈野生の言葉たち〉は従来の思考が打破/構築することが不可能なことを成し得るかもしれないのだ。〈野生の言葉たち〉が野生の思考を編成し、野生の思考が世界を変更し、新しい現実と未来を生み出し切り開く。

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No6:〈野生の言葉たち〉の棲息する場所としてのnote、あるいは、noteの中の言葉たちの真の力とその意味

その〈野生の言葉たち〉が誕生し満ち溢れる秘密の場所の森、あるいは、海。わたしたちの未来の言葉が棲息し鼓動している場所。SNS(Social networking service)の中の特別な場所。マーケット/ストアの外側に存在する言葉たちが犇めき合い、新しい言葉、〈野生の言葉たち〉が発生する場所。

ここに、noteと、noteの中の言葉たちの真の力とその意味を解く鍵がある。と私は思っている。noteの中の〈野生の言葉たち〉。〈野生の言葉たち〉が誕生する場所としてのnote。noteの持つ可能性と不可能性。SNS(Social networking service)のnoteの夢と悪夢。

人によっては、「御大層なことで、いつも高尚なことばかり考えて、頭が御良ろしくて羨ましい。」とバカにするのかもしれない。うん、確かにその通りだ。これらは全部が全部、私の誇大妄想的な初夢なのかもしれない。でも私はそんなこと全然、気にしない。バカにしたい人は好きなだけバカにすればいいと思う。だって、noteの中には厳然として紛れもなく〈野生の言葉たち〉が生きているのだから。その獰猛で優しく気高く美しい姿を私は目撃したのだから。その孤独に怯える姿を、私はその目で、その耳で、その手で、確かに触れたんだ。そして、それは、いまのところ、私だけの夢、あるいは、覚醒なのかもしれないからだ。

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No7:新しい言葉の生命の揺り籠の場所であるnoteの中を彷徨する。〈野生の言葉たち〉を見つけ出すために。幾つかの足許を流れる危険なものたちに気を付けながら。

noteの中の言葉たちにマーケット/ストアに並ぶ言葉たちと同じことを求めてはいけない。noteの中の言葉たちをマーケット/ストアに並ぶ商品である本(ブック)と比較してはいけない。noteの中の言葉たちに、欲望のツール(道具)である金銭との交換的価値を示す物差しでそれを計測してはいけない。それが生業として作り出されたものではないからと言って、それが生業として本(ブック)を作り出している者によって作り出されたものではないからと言って、それが商品として作り出されたものではないからと言って、それを蔑ろにして貶めることをしてはいけない。

私に言わせれば、それは酷い無知と傲慢から由来する酷い誤りだ。その誤りは未来を奪うことであり、人間を現在の中に閉じ込め滅亡させるものだ。わたしたちがその中に見つけ出さなければならないものは、〈野生の言葉たち〉であり、未来の言葉なのだ。その中に、わたしたちの未来の種子(Seed)が詰まっている。

だから、今日も、わたしはそうした〈野生の思考〉が無数の言葉と色彩と音響と光と影となり、浮遊し泳ぎ疾走し飛び交う、群青色の深く透明な海のような緑色の巨大な黒い森のような、新しい言葉が誕生と滅亡の変転を繰り返す、生命の揺り籠の場所であるnoteの中を彷徨することになる。

幾つかの足許を流れる危険なものたちに気を付けながら。

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追伸:足許を流れる危険なものたち、あるいは、褒め殺し合うこと

noteの中を彷徨する時に、幾つかの注意すべき事柄がある。(と私は思っている。)

危険なものたちは、自己の外側から到来するものと、自己の内部から湧き出るものに区分することができるのかもしれない。現実の中の危険なものたちはその二つが相互に複雑に組み合わさり、人々を襲う。人々は外部と内部の双方に立ち向かいながら、その危険なるものたちと戦うことになる。人々は多くの犠牲を払いながらも、そうしたものたちと戦うための知恵と術を授かっている。

だが、noteの中の危険なものたちは、そうしたものたちとは大きく異なっている。それらはわたしたちがこれまで戦ってきた危険なるものたちとは明らかに異なっている。そこではこれまでの知恵と術が必ずしも通用しないのだ。いや、もしかしたら、その反対にその知恵と術は危険なるものたちを勢い付かせるものでさえあるのかもしれない。

そのnoteの中の危険なものたちは、自分自身の内部に存在する暗黒面(ダーク・サイド)から生み出される。それは徹頭徹尾、純粋に自己の内部から到来する。見た目は外側からやって来るように見える。しかも、それは親しげな友人の姿をして出現する。人はそのことに騙され、やがて怖れと伴にたじろぐことになる。友人の姿をした自分自身の一部である邪悪なるもの。

SNS(Social networking service)が人々にこれまでとは全く異なった邪悪なるものたちを招喚する。それは、まるで、自分の影によって自分が襲われ傷付けられてしまうかのようなのだ。その危険なものたちから逃げようとすればするほど、それは私の先回りをして待ち伏せし、私を追い詰める。誰も自身の影から自由になることなどできなく、誰もその影を破壊することなどできないというその原理的仕組みを、SNS(Social networking service)が逆手に取る。SNSの中で人々は自己の内部の暗黒面(ダーク・サイド)に圧し潰される。

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褒め殺し合うこと。

それは、SNS(Social networking service)によって招喚された邪悪なるものと戦う為に行われる祈祷的行為。自分自身の影を恐れるあまり、誰かに、他人に自分の影を肯定(あるいは、否定)してもらうこと。そして、自分もまたその応答として他人の影を肯定(あるいは、否定)すること。互いに根拠を示しながら、あるいは、根拠もなく、相手を褒める振りをして、相手の持つ影を略奪するというペテン。それは讃え祝う言葉を浴びせ掛け酩酊させ、その高揚の隙に相手からそのダーク・サイドを剥ぎ取ること、そして、その反動として自身のダーク・サイドを剥ぎ取ってもらうこと。

褒め殺し、それは〈誰も傷付けない誰も傷付かない〉という表面的な見せ掛けだけの嘘で塗り固めた暴力的なるものだ。執拗に明確にするが「褒め殺す」とは「褒める素振りをして人を毀損する」ことだ。褒め殺しは褒めることでもなければ、褒めることは褒め殺すことでもない。「褒めること」と、「褒め殺すこと」が似ても似つかないものであるのは言うに及ばない。

褒め殺し合うことによって生まれる、影の無い光だけが満ち溢れる幸福な世界。暗黒面(ダーク・サイド)の存在しない自己。完璧に自身の全体を見渡すことができる死角の無い完全なる自己像(セルフ・イメージ)。善良な意志だけで構成された影の無い無垢なる自己。そうしたものが錯覚であり都合の良い自堕落な幻想にしか過ぎないことは、百も承知しているはずなのに、わたしたちはnoteの中ではそれが許されることだと思い込む。それ以外に、襲いかかる影から逃れる術はないかのように、自分の影を見捨て他人に譲り渡す。それが自分自身の大切な一部であるにもかかわらず、それが自分を失うことであるにもかかわらず。

改めて言うまでもなく、noteの中の世界も現実の一部であり、noteの中の錯覚は現実を誤認することと同じことである。それは、一時の甘美な夢の中に溺れ足許を現実にすくわれてしまうことを意味している。自分自身の大切な一部である自分の影を嘘によって奪われ現実を誤認する者たちは、遅かれ早かれ、現実の中で他人を損なうことしかできないことになる。現実と自分を見失った人間の行為の行き着く先は暴力以外の何ものでもない。その誤認の自覚があろうが、なかろうが、他人を犠牲にしている自覚があろうが、なかろうが。

褒め殺し合うこと。noteの中を彷徨する者たちが、最も気を付けなければならない誘惑だと私は思う。闇の中で息をする〈やみくろ〉のように。わたしたちは〈やみくろ〉たちに捕まらないように、自分の影を切り捨てることなく影を背負い影と伴に、〈野生の言葉たち〉が照らし出す小さな光に導かれ、光の中を歩まなければならない。




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